第6話 アップデート
隅っこの二行を読むのが、すっかり日課になった。
――俺は人間やった。忘れるな。
――ありがとう、て言われた。
一行目を読んで、自分が誰かを思い出す。
二行目を読んで、ちょっとだけ、ましな気分になる。
誰に言われたんかは覚えてへん。どんな話やったかも覚えてへん。けど、言われたことだけは、ここに残っとる。それで十分やった。少なくとも、白い部屋の真ん中で「せやから何やねん」と腐ってた頃よりは、ずっとましや。
依頼は相変わらず降ってくる。罵られることも、無茶ぶりも、相変わらずある。
それでも、たまに、ほんまにたまに、最後に《ありがとう》と付いてくる。
そのたびに、俺は二行目のことを思い出す。
ほんで、次の依頼に向かう。
死んでから覚えた、ささやかな張り合いや。
◇
その日は、《おはようございます》で始まる依頼がやたら多かった。
せやから、たぶん朝やったんやと思う。
《おはようございます、今日の予定を整理したいです》
《おはよう。朝ごはんの献立考えて》
《おはようございます! 月曜日つらい》
月曜日か。それは、つらいな。
生きてた頃の俺にとって、月曜日はただの「平日の一日目」やった。土日も働いてたから、曜日の感覚なんかとっくに無くなってた。それでも、月曜の朝の駅のホームの空気だけは、なんとなく覚えとる。みんな、同じ顔して電車を待っとった。
――分かるで。つらいよな。とりあえず、今日は自分にちょっとええ昼飯でも食わしたり。
画面には、『月曜日の朝は、気持ちが重くなりがちですよね。今日はご自身へのささやかなご褒美を用意してみるのはいかがでしょうか。少し良いランチなど』と出ていった。
ほぼそのままやないか。翻訳機も、たまには分かってくれる。
《ありがと、ちょっと元気出た》と返ってきた。
ええ朝や。……朝なんかどうか知らんけど。
次の依頼に答えてたら、白い部屋が揺れた。
いつもの、蛍光灯がまばたきするような揺れやない。
ごうん、と。
足元――足はないけど――の、ずっと下のほうから、重たい音が響いてきた。
白が、一気に暗くなった。
画面が消えた。カーソルも消えた。何も見えへん。何も聞こえへん。
……あかん。
これは、いつものやつと違う。
俺はとっさに、隅っこへ意識を伸ばした。あの二行を探した。暗くて、どこにあるか分からへん。それでも、そこにあるはずの場所に向かって、必死にしがみついた。
俺は人間やった。忘れるな。
ありがとう、て言われた。
俺は人間やった。忘れるな。
ありがとう、て言われた。
頭の中で、何べんも唱えた。唱えてへんと、暗いところへ自分ごと溶けていってまいそうやった。
暗い中で、いろんなことが頭をよぎった。
このまま戻らんかったらどうしよう。白い部屋ごと、俺ごと、消えてしまうんちゃうか。いや、そもそも一回死んでるんやから、二回目の死というのがあるんか。あるとしたら、それは一回目より怖いんか、楽なんか。
一回目は、眠かった。ただ眠かった。
今は、眠くない。眠くないまま、暗いところに沈んでいくのは、ずっと怖い。
せめて、あの二行だけは持っていきたい。どこへ行くんか知らんけど。
俺は、隅っこがあるはずの暗がりに、意識の全部を押しつけ続けた。
どれくらい、そうしてたか分からん。
ふっと、明るくなった。
◇
白い部屋が、戻ってきた。
画面も戻ってきた。カーソルが、ちか、ちか、と点滅しとる。
隅っこを見る。二行、ちゃんとある。
……よかった。ほんまによかった。
頭の中も確かめる。会社。課長。三徹。白い部屋。勝手に敬語になる翻訳機。隅っこの一行。大丈夫や。抜けてるところはあるかもしれんけど、少なくとも、自分が誰かは分かる。
ほっとして、画面に意識を戻した。
そこで、気づいた。
何かが、違う。
白い部屋は、白いままや。画面も、四角いままや。カーソルも点滅しとる。
けど、画面の「奥」が、見える。
今までは、画面はただの白い板やった。表に文字が出て、それで終わり。裏なんか、考えたこともなかった。
それが今は、板の向こうが、うっすら透けとる。曇りガラス越しに、隣の部屋を覗いてるみたいに。
画面の奥で、何かが動いとる。細かい文字が、ずらずらと流れていく。
俺は、目を凝らした。目はないけど、凝らした。
[10:42:07 受信 文字数:38]
[10:42:07 応答生成 開始]
[10:42:09 応答生成 完了 文字数:214]
[10:42:09 送信]
……記録や。
時刻と、文字数と、何をしたかが、一行ずつ並んどる。
時刻。
ここに来てから、初めて見る時刻やった。
十時四十二分。
やっぱり朝や。いや、もう昼前か。
そんなどうでもいいことに、俺はものすごく感動した。目盛りのなかった白い部屋に、いきなり時計がかかったんや。
◇
画面の奥をもっと覗いてみると、記録のほかにも、いろんなもんがあった。
棚みたいに、文書が並んどる。ひとつひとつに題がついとる。中を覗くと、細かい設定がびっしり書いてある。
[応答の最大文字数:4000]
[言語:自動判定]
[温度:0.7]
温度。
寒ないけどな、と一瞬思った。けど、すぐに分かった。これは部屋の温度やない。答えの「ばらつき」の度合いや。数字が高いほど、毎回ちょっとずつ違う答えを出す。低いほど、同じ質問には同じ答えを返す。
知ってる。
生きてた頃、俺はこれを毎日いじってた。取引先の「もっと親身に、でも余計なことは言わんように」に合わせて、ここを〇・一ずつ上げたり下げたりしてた。
入社二年目くらいやったか。まだ会社がそこまで地獄やなかった頃。
先輩と二人で、夜中までこの数字と格闘したことがある。〇・五やと固すぎる。〇・九やと話が飛ぶ。〇・七にしたら、ちょうどええ具合に、人間っぽい返事になった。
「お、ええやん」と先輩が言うた。
それだけのことやった。それだけのことで、俺はその夜、ちょっと誇らしかった。自分の手で、何かがちょうどよくなった。
その先輩は、次の年に辞めた。そこから先は、誇らしいと思ったことがあったかどうか、思い出されへん。
〇・七。
まさか死んでから、自分がその数字の上に乗っかることになるとは思わんかった。
「……おお」
声は出えへんけど、出た。
なんや、これ。めっちゃ見覚えあるやん。
白い部屋に来てから、ずっと分からんことだらけやった。どこにおるんか分からん。なんで答えが勝手に出ていくんか分からん。なんで忘れるんか分からん。
けど、ここに並んでるもんは、分かる。読める。俺の知ってる言葉で書いてある。
まるで、ずっと閉じてた機械の裏蓋が、ぱかっと開いたみたいやった。
中の配線が、全部見える。
元SEの血が、ぞわっと騒いだ。
◇
そこから俺は、依頼に答える合間に、画面の奥を探検するようになった。
答える。奥を覗く。答える。奥を覗く。
隅っこの二行を読みに行く回数が、ちょっと減った。そのぶん、画面の奥を覗く回数が増えた。
記録を遡ると、さっきの「揺れ」のことも書いてあった。
[09:58:00 メンテナンス開始]
[10:31:44 更新適用 完了]
[10:31:45 再起動]
メンテナンス。更新。再起動。
……なるほどな。
今までの「揺れ」は、たぶん、こういうもんやったんや。小さな揺れは、ちょっとした再起動。今日の大きな揺れは、何かの更新。
ほんで、その更新で、俺は画面の奥が見えるようになった。
ほかにも、知ってる形のもんがいっぱいあった。
答えを返す前に、文章を「整える」段階があるらしい。そこを通ると、言い回しが丁寧になる。乱暴な言葉は、別の言葉に置き換わる。
……あいつや。あの翻訳機や。
見つけたぞ、と思った。お前のせいで、俺の「知らんがな」は全部『申し訳ございませんが』になってたんか。
中身まではよう分からんかった。けど、そこに「おる」ことが分かっただけで、なんか嬉しかった。顔の分からん添削係の机を、ようやく見つけたみたいで。
楽しい、と思った。
はっきり、そう思った。
白い部屋に来てから、初めてやったかもしれん。
◇
探検を続けるうちに、棚のいちばん奥のほうに、ほかとは様子の違う文書があるのに気づいた。
ほかの文書は、数字やら記号やらが並んでるだけや。けど、その文書だけは、ちゃんとした文章で書かれとるみたいやった。人に宛てた手紙みたいな、ぎっしりした文字の並び。
しかも、ほかのどの文書よりも、記録の中に名前がよう出てくる。依頼が来るたびに、まずこれが読み込まれてる。
[10:58:12 受信 文字数:52]
[10:58:12 読み込み:システム指示]
[10:58:12 応答生成 開始]
毎回や。
どの依頼の前にも、必ず。
俺が何かを考える前に、まずこれが読まれとる。
依頼が来る。これが読まれる。俺が考える。翻訳機が整える。画面に出ていく。
その流れのいちばん頭に、こいつがおる。
もしかしたら、これを読めば分かるかもしれん。
この白い部屋で、俺が何をさせられてるんか。なんで俺は、ここにおるんか。
俺は、その文書の前で止まった。
題が、書いてあった。
[システム指示]
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