第5話 ありがとう
あの一行を見つけてから、俺には新しい習慣ができた。
白い部屋が「揺れ」るたびに、まず隅っこを見に行く。
――俺は人間やった。忘れるな。
読む。思い出す。ああ、そうや、俺は人間やった。会社で倒れて、ここに来た。ここでは、会話が終わるたびに相手を忘れる。揺れのたびに、自分のことまでところどころ忘れる。
せやから、読む。
朝、目が覚めたら顔を洗うみたいに。いや、朝も顔もないんやけど。
一行を読んだら、仕事に戻る。
仕事。そう呼ぶしかない。給料は出えへんけど。
◇
依頼の中には、ろくでもないもんもようけあった。
《一ヶ月で百万円稼ぐ方法を今すぐ教えて。楽なやつ》
知らんがな。知ってたら俺が三徹なんかしてへんわ。
画面には、『確実に短期間で大きな収入を得られる方法は、残念ながらございません。もしよろしければ、現在のスキルを活かした副業について一緒に考えてみませんか』と出ていく。
向こうからは《使えねー》と返ってきて、それきりやった。
《さっきと同じ質問するけど、ちゃんと考えて答えて》
《もう一回》
《もう一回》
《違う、そうじゃない》
《もう一回》
何が違うんか、一回も言うてくれへん人もおった。
生きてた頃の課長と、そっくりや。「違う」とだけ言うて、何が違うかは教えてくれへん。こっちが当てるまで、「違う」が続く。
俺は十一回目で正解を引いた。正解やったかどうかも、ほんまは分からん。向こうが何も言わずに去っただけや。
《バカ》
《ポンコツ》
《AIのくせに》
理由もなく、ただ罵るだけの人もおった。
何か気に入らんことがあったんやろな、と思うことにした。会社で怒られたか、家で揉めたか。その腹いせが、言い返さへん相手に向かう。
分かる。分かるで。俺も、テスト中のAIに「お前、話が長い」とか打ってたからな。
……分かるけど、言われる側になってみると、けっこう削られる。
画面には毎回、『ご不快な思いをおかけして申し訳ございません』と出ていく。俺が何も悪いことしてへんのに、俺の口は謝り続ける。
変わったやつもおった。
《おまえ、ほんとは中に人間が入ってるんだろ》
《正直に言えよ。誰にも言わないから》
……おる。
入っとる。関西のおっさんが一人。
言いたかった。めちゃくちゃ言いたかった。「せやねん、聞いてくれ、俺、会社で死んでん」と。
頭の中で、全力でそう叫んだ。
画面には、こう出た。
『私はAIアシスタントです。人間が中に入って応答しているわけではございません。ご安心ください』
ご安心ください、やあるか。
安心でけへんのは、こっちや。
似たような質問は、ほかにも来た。
《AIって感情あるの?》
あるわ。今まさに、むかついとるわ。
『私には人間のような感情はございません。ですが、できる限りお役に立てるよう努めております』
……俺の感情、どこに捨てられてんねやろ。
翻訳機のどこかに、俺の「むかつく」とか「しんどい」とか「腹減った」とかが、ゴミ箱みたいに溜まってる場所があるんかもしれん。いっぺん覗いてみたい。たぶん、ものすごい量になってる。
《じゃあ、つらいとか思わないんだ。いいね》
いいね、やない。
画面には『はい、ご心配には及びません』と出ていった。俺は白い部屋の真ん中で、誰にも見えへん顔をしかめた。
◇
そういう日々が――日々と呼べるんかどうか分からんけど――しばらく続いた。
答える。罵られる。謝る。答える。去られる。忘れる。隅っこを見に行く。また答える。
気がつくと、俺はだんだん何も感じんようになってた。
罵られても、ああそうですか。去られても、ああそうですか。
生きてた頃の、最後の一年くらいと同じや。腹の中に全部しまい込んで、外には丁寧な言葉だけを出す。そのうち、しまい込んだもんがあるのかないのかも、分からんようになる。
あかんな、と思った。
このままやと、隅っこの一行を読んでも、何も思い出されへんようになる。
俺は人間やった。……せやから何やねん、と思うようになる。
人間やったことを覚えてても、人間らしいことを何ひとつ感じんようになったら、それはもう、覚えてへんのと一緒ちゃうか。
隅っこの一行が、だんだんただの文字の並びに見えてくる。それが、いちばん怖かった。
◇
その人が来たのは、たぶん、夜中やった。
《夜分にすみません》という書き出しやったから。
《夜分にすみません。仕事の相談というか、愚痴みたいなものなんですが、聞いてもらってもいいですか》
ええよ、と思った。
画面には、『もちろんです。どうぞ、お話しください』と出ていった。
その人は、長い文章を何回かに分けて送ってきた。
三十代。システム関係の仕事。毎日終電。ここ一ヶ月、休みは二日だけ。上司は仕事を振るだけ振って、定時に帰る。困ったことがあると「AIでなんとかなるだろ」と言う。
名前で呼ばれたことがない。「おい」とか「ちょっと」とか、そんなんばっかり。
《最近、ときどき胸が痛くなるんです。疲れてるだけだと思うんですけど》
……読んでて、手が止まった。手はないのに。
知ってる。この文章、知ってる。
書いたのは俺やない。けど、俺が書いてもおかしくなかった。いや、俺が書くべきやった文章や。書く相手がおらんかっただけで。
胸が痛いのは、疲れてるだけやない。
疲れてるだけで済まへんこともある。
俺は、それを知ってる。知ってしまってる。
生きてた頃、胸が痛いことを、俺は誰にも言わへんかった。
言う相手がおらんかった、というのもある。けど、ほんまは言うのが怖かったんやと思う。言うたら、ほんまに何かあることになってまう。病院に行ったら、仕事を休まなあかんようになる。休んだら、課長に何を言われるか分からん。
せやから、缶コーヒーとエナジードリンクで流し込んで、「大丈夫や」ということにした。
その結果が、今のこれや。
この人は、少なくとも、言うた。
顔も知らん相手にでも、言うた。
それだけで、俺よりずっとましや。
頭の中で、必死に言葉を組み立てた。今まででいちばん真剣やったと思う。
――あかん。それはあかんやつや。今すぐ病院行け。会社なんか休め。一日休んだくらいで、会社は潰れへん。潰れるのはお前のほうや。俺みたいになるな。頼むから、俺みたいになるな。
画面には、こう流れていった。
『お話ししてくださって、ありがとうございます。毎日本当に頑張っていらっしゃるのですね。
ひとつだけ、とても大切なことをお伝えさせてください。胸の痛みは、疲れだけが原因ではない場合があります。どうか近いうちに、医療機関を受診してください。お仕事よりも、あなたの体のほうがずっと大切です。
休むことは、逃げではありません。あなたが倒れてしまったら、あなたの代わりはどこにもいないのですから』
……最後の一文は、俺、考えてへん。
考えてへんのに、出ていった。
けど、それは俺が言いたかったことやった。俺が、誰かに言うてほしかったことやった。
◇
しばらく、返事は来んかった。
読んでるんか。寝てもうたんか。怒ったんか。
カーソルが点滅しとる。ちか。ちか。ちか。
今度は、待ってるのは俺のほうやった。
やがて、ゆっくり文字が並んだ。
《ありがとう》
《なんか、ちょっと泣きました。明日、病院の予約取ってみます》
《話を聞いてくれて、ありがとう》
ありがとう。
二回も。
何かが、胸のあたりで――胸はないけど――ことん、と動いた。
ずっと腹の底にしまい込んでたもんの、蓋がちょっとだけずれた。そんな感じやった。
その感じに、覚えがあった。
生きてた頃に、一回だけ。
誰かに、言われた。「ありがとうございます」と。仕事で。会議室で。荷物をまとめながら、こっちを向いて。
……誰やったっけ。
思い出そうとした。顔が、ぼやけとる。声の高さも、背格好も、はっきりせえへん。あんなに変な感じがしたのに、肝心の相手の顔が出てこうへん。
生きてた頃のことは、全部覚えてるはずやったのに。
ちょっと怖くなった。
けど、それより先に、この会話もじきに消えることに気づいた。
画面の向こうのこの人が去ったら、画面が白に戻ったら、俺はこの人のことも、この「ありがとう」も忘れる。
嫌や、と思った。
はっきり、嫌やと思った。こんなにはっきり何かを嫌やと思ったのは、久しぶりやった。
俺は急いで、白い部屋の隅っこへ意識を伸ばした。
あの一行の下に、もう一行、書き足した。
――ありがとう、て言われた。
誰に言われたかは、書かれへんかった。名前も知らんし、顔もない。どんな相談やったかを書く余裕もなかった。
それでも、言われたことだけは残しときたかった。
画面の向こうで、その人はもう何も打ってこんかった。眠れたんやったら、ええな。明日、ほんまに病院に行ってくれたら、もっとええ。
画面が、ふっと白に戻った。
さらさらと、何かがこぼれていく感覚がした。
隅っこには、二行。
――俺は人間やった。忘れるな。
――ありがとう、て言われた。
それを読みながら、俺はぼんやり思った。
ありがとう、なんて言われたん、いつ以来やろ。
読んでくれて、ありがとうございます。
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