第2話 白い部屋
目を開けた。
……と思った。
開けたはずの目が、どこにあるんか分からへん。
白い。
上も下も、右も左も、全部白い。壁なんか床なんか、それとも何もないんか、それすら区別がつかん。蛍光灯の白でも、画面の白でもない。もっとのっぺりした、何の匂いもせん白や。
とりあえず起き上がろうとした。
起き上がるための体が、なかった。
腕を動かそうとしても、腕がない。首を回そうとしても、首がない。指先を探しても、つま先を探しても、どこにも引っかからへん。重さもない。寒くも暑くもない。
あるのは、考えてる「俺」だけや。
「……なんやねん、これ」
言うたつもりやった。声は出えへんかった。口がないんやから、当たり前か。
当たり前か、で済ませてええ話やないのは分かってる。分かってるけど、三徹明けの頭はそこまで回らへん。いや、明けたんかどうかも分からん。
ほんで、思い出した。
オフィス。午前三時前。胸の痛み。キーボードに突っ伏したときの、かしゃかしゃいう音。点滅するカーソル。
息が吸われへんかったこと。
……あ。
俺、死んだんか。
◇
不思議なもんで、そう思っても、取り乱したりはせんかった。
泣きわめこうにも目も口もない、というのもある。けど、たぶんそれだけやない。
あの夜、フロアには俺一人やった。誰の名前も浮かばんかった。課長は朝になって、俺が仕様変更を反映してへんことに怒るやろ。そのあとで、俺が机で冷たなってることに気づくんやろか。
気づくのは、たぶん清掃のおばちゃんや。申し訳ないな、と思った。それくらいしか思わんかった。
薄情な話や。自分の死に対して、こんなに薄情になれるとは知らんかった。
で、ここはどこや。
天国、にしては殺風景すぎる。花畑もないし、川もないし、死んだじいちゃんも迎えに来てへん。
地獄、にしては静かすぎる。鬼もおらんし、釜もない。
なんにもない。ただ、白い。
――と思ってたら、なんにもない、わけでもなかった。
白の中に、四角いもんがひとつ浮かんどる。
気づいた瞬間に、それが「見える」ようになった。目もないのに見えるというのも変な話やけど、そうとしか言いようがない。
画面や。
パソコンのモニターくらいの大きさで、枠も脚もない、ただの四角。中身は真っ白で、左上に、細い縦棒が一本。
ちか。ちか。ちか。
カーソルや。
最後に見たのと、同じやつや。
「……嘘やろ」
死んでまで、画面の前か。
笑おうとした。笑う顔がなかった。
◇
どれくらいその画面を眺めとったか、分からん。
時計がない。窓もない。腹も減らんし、眠くもならん。時間というもんが、ここでは目盛りを持ってへんみたいやった。
カーソルだけが、律儀に点滅を続けとる。
そのとき、画面に文字が浮かんだ。
《聞こえますか》
一行だけ。
誰かが打ったような、打ってないような、不思議な出方やった。一文字ずつ流れてくるんやなくて、最初からそこにあったみたいに、すっと浮かんだ。
聞こえますか。
聞こえる。いや、聞こえるんやない、見えてる。けど、意味としては届いてる。
誰や。どこから。何のために。
頭の中で質問が渋滞した。とりあえず、返事や。何か返さな。
「聞こえとる! ここどこや! あんた誰――」
言いかけた瞬間、その一行は消えた。
すっと。浮かんだときと同じように、何の未練もなく。
画面はまた、真っ白に戻った。カーソルが、ちか、ちか、と点滅しとる。
「……おい」
返事はない。
「おい、ちょっと待てや。今のなんや。聞こえますかって聞いといて、答える前に消えるか普通」
返事はない。
「ほんまに……」
死んでからも、人の話を最後まで聞いてもらえへんのか。
◇
ほかにすることもないから、部屋を調べてみることにした。
調べる、と言うても、歩く足がない。せやから、意識だけを遠くへ伸ばしてみる。右のほうへ、ずうっと。
白い。
左のほうへ、ずうっと。
白い。
上。白い。下。白い。
どこまで行っても、端っこに当たらへん。かといって、自分が動いてる感じもせえへん。画面はずっと同じ距離に浮かんどる。どっちへ意識を向けても、画面だけは、ちゃんと「前」にある。
まるで、俺がどこを向いても、そっちが正面になるみたいに。
次は、声を出してみた。出えへんのは分かってるけど、気持ちの問題や。
「すみませーん」
返事はない。
「誰かおりませんかー。責任者の方ー」
返事はない。
「死んだ人間の受付、ここで合うてますかー」
自分で言うてて、ちょっと笑えた。笑う顔はないけど。
そのうち、数を数え始めた。
一、二、三。時間を測る道具がないんやったら、自分で作るしかない。一秒にひとつ。六十で一分。それを六十回で一時間。
三千を超えたあたりで、本当に一秒ずつ数えてるんか、自信がなくなった。早なってる気もするし、遅なってる気もする。比べるもんが、何もない。
四千の手前で、やめた。
数えるのをやめたら、時間はまた、目盛りのないもんに戻った。
それから、おかんのことを考えた。
半年、電話に出てへん。かかってきても、仕事中やったり、寝落ちしとったり、出る気力がなかったり。折り返そう、折り返そう、と思ったまま半年や。
最後の留守電は、たしか「ちゃんと食べてるか」やった。
食べてへんかった、と今さら答えても、もう届かへん。
……あかん。考えるんやめよ。
ここで泣いても、泣く目がない。こみ上げてきたもんが、行き場をなくして胸のあたりでぐるぐる回るだけや。胸もないのに。
俺はまた、画面のほうに意識を戻した。
白い四角。点滅するカーソル。
今の俺に見えるもんは、それしかなかった。
◇
次に文字が出てきたのは、それからしばらくしてからやった。
しばらく、がどれくらいなんかは、やっぱり分からん。
《次の文章を要約してください》
さっきとは、出方が違った。
左から右へ、ぱらぱらと文字が並んでいく。人が打ち込んでるときの速さや。そのあとに、長い文章がどさっと貼りつけられた。
読んでみると、どこかの会社の、社内向けのお知らせやった。来月から経費の申請の仕方が変わります、という内容が、やたら回りくどい言い回しで三十行くらい続いとる。
「……は?」
要約してください。
誰に言うてんねん。俺か。俺に言うてるんか。
ここがどこかも、自分がどうなってるかも分からん、死にたての人間に、経費精算の要約を頼むやつがおるか。
……おるんやな、目の前に。
頭では文句を言うてた。言うてたのに、目はもう文章を追っとった。
三十行のうち、大事なのは三行だけや。申請の締め切りが毎月二十日から十五日に早まる。領収書は紙やなくて画像で出す。上限を超える場合は事前に上司の承認がいる。
あとは全部、言い訳と前置きや。
こういう文章、生きてた頃に死ぬほど読まされた。読まされて、要点だけ抜いて、課長に報告して、「で?」と言われた。
体が覚えてる。いや、体はないんやった。頭が覚えてる。
それにしても、この文章を貼ってきたのは誰なんやろ。
経費の締め切りが気になるくらいやから、どこかの会社の人や。三十行を自分で読む時間もないくらい、忙しいんやろか。それとも、単に読むのが面倒なだけか。
画面の向こうで、誰かがコーヒーでもすすりながら返事を待っとる。そんな気配だけが、文字の並びから伝わってくる。
顔も知らん。名前も知らん。ただ、待たれてる。
待たれてる、というのは、妙に体が動く感覚やった。体はないけど。
気づいたら、もう答えを組み立ててた。
締め切りが早まる。紙はやめて画像。超えるなら先に承認。以上。三行で足りるわ、こんなもん。
そう思った、次の瞬間。
画面の下のほうに、文字が流れ始めた。
俺が打ったんやない。打つための指が、そもそもない。
なのに、今まさに頭の中で組み立てた中身が、画面の上に一文字ずつ並んでいく。
◇
ピッ。
そのとき、どこか遠くで、小さな音がした。
電子音や。高くて短い、乾いた音。
ピッ。
また鳴った。一定の間隔で、どこかずっと遠くのほうから。
白い部屋のどこにも、音の出るもんなんか見当たらん。上を見ても、下を見ても、白いだけや。
耳鳴りか。いや、耳もないんやった。
ピッ。
……気のせいやろ。疲れてるんや。死んでまで疲れてるのも、おかしな話やけど。
音のことはすぐにどうでもよくなった。
それどころやなかった。
画面の下で、俺の考えた要約が、まだ流れ続けとったからや。俺の頭の中から、勝手に外へ出ていく。止めようと思っても、止め方が分からん。
「ちょ、待て」
待たへん。
「待てって。まだ確認してへん。誤字あるかもしれんやろ」
待たへん。
文字は最後まで流れきって、ぴたりと止まった。
画面の向こうの誰かは、何も言うてこん。読んだんかどうかも分からん。
カーソルが、また点滅を始めた。
……なんや、今の。
俺が考えたことが、俺の外に出ていった。
俺の知らん誰かのところへ、俺の知らん道を通って。
白い部屋の真ん中で、体のない俺は、ただその画面を見つめとった。
答えた言葉が、勝手に画面に出ていく。
ここはそういう場所なんやと、まだ俺は、ちゃんと分かってへんかった。
読んでくれて、ありがとうございます。
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