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あざみ野  作者: 李孟鑑
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第四章 永訣(五)

      * * * * *


 梅の花を見に行きたいと、間人は中大兄に頼んだ。宮殿から数町ほど離れた山裾の野辺に、二本の白梅の古木があるのだった。丈低い、茎の固い下草しか生えぬ荒れ野の一隅にまるで迷い込んだように、二本の梅は添い合って立っていた。植物が未だ冬枯れから覚めぬ早春、見る者とてない荒れ野の中に目に痛いばかりの白浄の花をほころばせる、その寂しい美しさを間人はこよなく愛していたのである。


 宮殿から出るのですら、今の間人には無謀であった。が、中大兄は何も言わず、人を遣わして様子を見に行かせた。花は枝の根元にちらほらと見えるばかりでまだ見頃には遠かった。中大兄はその者に、荒れ野に通って日々、花の様子を知らせるよう命じた。十日ばかりののち梅の木は満開を迎え、中大兄は宮中の主だった者を引き連れ間人を伴って、荒れ野に花見の宴を開いた。


 空は曇っていたが、渡る風はもう肌に寒くはなかった。二本の老いた花樹は、枝々に輝くような白妙を纏い、間人と客人を迎えた。人々は花を囲んだ。中大兄は太い幹の根方に毛皮を敷かせ間人と座った。


 宴が始まった。酒がふるまわれ、肴がふるまわれた。女たちが酒瓶を抱えて行き来した。楽師が琴を奏でた。琴音に合わせて歌が吟じられ、舞が舞われた。中大兄は前もって皆に、今日は冠位にとらわれず、銘々出来る限り華やかな春らしい色の衣を着るように命じていた。人々が梅木の下で飲み騒ぐさまは、あたかも花という花が梅花の美しさを慕って地面の下から一斉に萌え出たかの如く、遠目にはのぞまれた。


「でも、花の中に獣が一匹紛れ込んでおりますね」


 草色の袍の上に金色のテンの毛皮をすっぽりと纏った間人は、自らの姿を揶揄した。


「むしろ山の神であろうよ。いにしえに山を治めた女神は美しい皮衣を纏っていたと言うから」


 傍らで覚めるような瑠璃色の袍を纏って、中大兄が笑った。


「その、山の女神を崇めて花々が集うたというわけだ。獣が、そなたのように美しいものかね」


 既に少し酔いのまわった中大兄は、周りもはばからずそんなことを大声で言って、間人を赤らめさせた。


「太皇太后様」


 臣の一人が進み出て、梅の花を一枝、賜りたいと申し出た。


「構いませぬ、折りなさい。でも梅の枝をどうするの」


 臣は微笑んだだけで答えず、花をいっぱいにつけた枝を折って持ち去った。しばらくして、中大兄と間人の前に酒瓶が運ばれて来た。


「御賞味下され」


 傾けた口から、酒と共に梅の花が滑り出て盃に浮かんだ。満開の花が、花弁の柔らかな薄紅も、うてなのつややかな深紅色もそのままに白い濁酒に()き込まれ、雪中に梅のほころぶ様を一椀の酒に封じたようだった。一口含むと梅花の凛とした香りが仄かに漂った。


「早春の風光をいただくようですね」


 間人は喜んだ。中大兄もこの風雅な趣向を褒め、皆にふるまうよう命じた。花の酒に皆々が更に酔い、宴もたけなわになった時


「楽師」


 間人は呼んだ。


「琴を弾きたい。その琴を貸しておくれ」


 花枝を震わせた琴音に、人々は耳を覚まされた。振り向くと、花の下で膝に琴を抱えているのは間人であった。左手を糸に添え、右手に琴軋(ことさき)(※)を握って、間人はゆっくりと、琴をかき鳴らしていた。低く静かな、しかし水のように澄みきった音色が鳴り響いた。


 張りつめた琴糸は固く、力をこめてはじくうち間人の体は疲れた。呼吸が乱れ、肩が少し上下した。中大兄は背後に寄った。体を抱き支え、左手で、間人に代わり琴の糸を押さえた。間人は振り返って、にこりと微笑んだ。中大兄の胸に体をあずけ、今一度琴軋を構えた。澄んだ琴音が散り、真珠玉のようにこぼれた。


 間人が糸をかく。中大兄が糸を押さえる。また間人がかき鳴らす。中大兄が押さえる。風が立った。二人が奏でる琴は鮮やかな彩りを帯び深い陰影を伴ってこんこんと湧き、地の下をつたう下樋(したび)の水となって、ゆるやかに荒れ野を渡った。


 人々の間からつと、誰かが立ち上がった。白髯(はくぜん)を垂らした鎌足だった。二人に目礼すると、鎌足は奏でる琴に和して歌った。


 ――枯野を 塩に焼き、其が余り 琴に作り、掻き弾くや 由良の門の

   門中の海石に 触れ立つ、なづの木の さやさや


 応神(おうじん)帝の御世、枯野と名づけられた巨船があった。長年使ううちに朽ちたため、薪にして塩を焼いたが、木の一本がどうしても焼けずに残った。そこで試しに焼け残った木で琴を作らせてみたところ、音は澄みきって美しく、遠く七里にまで響いたという。鎌足が歌ったのは、その琴音の美しさを称えて応神帝が歌ったと伝えられる歌であった。間人は鎌足の手を取り、甲をさすって、その心に応えた。


「疲れてはおらぬか」


 頬の色の少しさめたかに見える間人を、中大兄はいたわった。間人は首を振り、しかしほっと息をついて、中大兄の肩に頭をもたせた。中大兄は肩を抱いて、皮衣の襟を直してやった。


「間人。わたしは、悔いはせぬ」


 唇を寄せ、中大兄は力強い声で囁いた。たとえどのようなことであれ、この恋を中大兄が悔いてしまえば、身を傷つけ、汚すことも恐れず共に歩んでくれた間人の心は、その寄る辺を失ってしまう、如何なるさだめが待っていようとも、間人を愛したことは決して悔いるまいと、中大兄は心に誓ったのだった。


 間人はその一言で、中大兄の心を察した。月明かりのような笑みを、間人は口元に浮かべた。白い花弁が舞い、慕うようにその黒髪へ散りかかった。


      * * * * *


 それから数日のうちに、荒れ野の梅は皆散った。春の彩りは可憐な梅から、裳裾をなまめかしくほころばせる木蓮へと変わった。暖かな雨が続き、山野には金縷梅(きんるばい)が細い黄の色を一斉に揺らした。急に雪が戻ったかと眺めれば、それは雪柳の小さな花が白く枝を覆って咲いたのだった。そして花はまた移ろい、桜の薄紅が山の肌を一面に染め上げて、二月は、暮れようとしていた。


 ある夜、中大兄は目を覚ました。宮は水底に沈んだように静まり返っていた。おもてにも何の物音もしなかった。ただ夜の遥かな高みを、雁の鳴き音が一筋、渡った。


 糸に引かれるように、中大兄は臥所から起き上がった。部屋を出て、闇が夜露を含んだ廊下を間人の部屋へと向かった。


 胸元に白い手を置いて、間人は眠っていた。中大兄はかがみ込んだ。


「間人」


 目が開いた。ふっと、唇が微笑んだ。


「――今、雁の声が致しましたわ」


 か細い声が言った。


「北の地へ帰るのだよ。雁の声が聞けるのはもう今宵限りかもしれぬな」


 間人は頷いた。兄上、と間人は中大兄の方へ手を差し伸べた。


「起こして下さいませ。外が見とうございます」


 夜具を取りのけ、中大兄は間人を抱き上げて窓辺へと運んだ。自分の足で立ちたいと言う間人を床にそっと下ろし、窓を開け放った。


 この日空に月はなく、夜は暗かった。開け放ったものの、窓の外に見えるのはかろうじて、窓框のそばまで丈を伸ばした何かの草の穂と、宮を囲んで塀の向こうに茂る叢林のうっそうとした深い影ばかりだった。ただ時折、視界を白い飛沫が小さくかすめ飛ぶことがあった。風に吹きちぎれて来た、桜の花弁のようでった。


 中大兄はせめて窓辺に明かりを運ぼうとしたが、間人はこのままで構わないと、こうべを振った。


「生まれてから今日まで、ずっと兄上と共に生きることが出来ましたわ。始めは、妹として。そしてのちには、妻として」


 ぽつりと間人が言った。体を支えている中大兄の手をさぐり、そっと握った。


「幸せでございました」


「――だがわたしは、もっと、長く共に生きたかった」


 中大兄は低くつぶやいた。間人は答えなかった。闇の中に風の音がして、また白い花弁が舞って行った。花が闇に呑まれ、風音は絶えた。静けさが流れ込んで来た。それと共に、ひんやりとした夜気が這い上がって肌に触れた。枯れた花のにおいがした。


「兄上。皇位に就いて下さいませ」


 冷え切った静寂の中間人は言った。


「もう、さまたげるものはありませんわ。帝となって下さい。即位の儀を行い、皇后をたて、何卒、名実共に、この国の王に……」


「承知した」


 初めて、中大兄は間人の言葉にうべなった。


「そなたの(もがり)が済みしだい、即位の儀を行う。わたしは帝となろう。だが、間人よ」


 たった今口にした言葉とは裏腹に、間人を決して離すまいとでもするかのように、中大兄は抱いた両の腕に力をこめた。まなじりを上げじっと闇を見据えて言った。


「何処へ行こうとも忘れてくれるな。そなたこそは、血も、肉も、魂も、全てを分かち合った、この世でただ一人のわたしの片割れだ。我らの絆を世人は穢れと言うた。だが、たとえ人が眉をひそめようとも、神仏が咎めようとも、我らが血を分けたあにいもうとであるという事実を消すことは出来ぬ。絆を絶つことは出来ぬのだ。この中大兄皇子は、間人皇女でもある。そして間人皇女はまた、中大兄でもある。忘れてくれるな。こののち、二度とまみえること叶わぬ彼方に離れたとて、我々はとこしえに、一つだ」


 いつしか中大兄の頬には冷たい涙が無心につたった。間人は瞳を上げ、生涯かけて愛した兄の面輪を、ひたと仰いだ。


「兄上、今のお言葉――、嬉しゅうございます」


 力を振り絞るようにして、間人は両腕でしかと、中大兄の首を抱いた。二人の頬が触れた。間人の頬は熱く、中大兄の頬は冷たかった。


「兄上のお言葉、わたくし常世(とこよ)に、胸に抱いて参りますわ」


 耳元に間人の声がした。

 空に雁が鳴いた。遠い鳴き音は暗いしじまを裂いて、夜の彼方へといつまでも長く余韻を引いた。


      * * * * *


 間人皇女は、天智称制四年(六六五)二月二十五日に没した。まだ四十前という若さであった。盛大な喪の儀が薨去の翌月より執り行われ、中大兄は三百三十人を得度させ間人の追善とした。三百三十人もが一度に得度した例は他にない。それは太皇太后でも、皇太子の妹でもなく、まさに皇后のものと呼ぶにふさわしい殯であった。


 二年後、殯を終え、小市岡上陵おちのおかのうえのみささぎに間人と母帝を共に葬ったのち、中大兄は長く親しんだ飛鳥の地を離れ近江国大津へ遷都を行った。そしてその新しい大津の都で、中大兄は即位の儀にのぞんだ。


 中大兄が病を得、床に伏すようになったのは、天智十年(六七一)九月のことである。そしてその年の十二月三日、近江宮で中大兄は、四十六年の波乱の生涯を閉じた。死後の(おくりな)天命開別尊あめみことひらかすわけのみこと。彼が皇太子として政を執った年月は、乙巳の変より数えて実に二十三年の長きに及ぶ。しかし帝の座にあったのは、その晩年のわずかに三年の間のことであった。


(了)

※ 和琴を弾くためのバチ

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