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第9話 空っぽの末路

第9話 空っぽの末路


 炎上は、一晩では終わらなかった。


 むしろ翌朝からが地獄だった。


『黒崎拓海 企画盗用』

『共同口座流用』

『インフルエンサー略奪騒動』


 検索欄には関連ワードが並び、切り抜き動画が無数に拡散されていく。


 あのパーティー会場での映像は、誰かが撮影していたらしい。


 拓海が取り乱して叫ぶ姿。


 萌香が泣き崩れる姿。


 そして、黒スーツ姿で静かに立つ志乃。


 どの動画も再生数が伸びていた。


 人は、“落ちる瞬間”が好きだ。


 特に、高い場所から転げ落ちる人間ほど。


 拓海は暗い部屋の中で、スマホを握り締めていた。


「……っ」


 通知が止まらない。


 DM。


 コメント。


 着信。


 スポンサー企業からの連絡。


『契約を白紙にさせていただきます』


『イメージ毀損が確認されたため』


『今回の件につきまして――』


「うるせぇ……」


 掠れた声が漏れる。


 机の上には、開封されたままのコンビニ弁当があった。


 油の固まった唐揚げ。


 ぬるくなった焼きそば。


 食欲はない。


 だが胃だけが気持ち悪く空腹だった。


 部屋は荒れていた。


 洗っていない服。


 転がるペットボトル。


 食べ終えたカップ麺。


 甘ったるい臭いと、生ゴミの臭気が混ざっている。


 少し前まで、毎日のように高級店の写真を投稿していた男の部屋とは思えなかった。


 スマホがまた鳴る。


 拓海は苛立って画面を開いた。


『フォロワーが10万人減少しました』


「……は?」


 喉が鳴る。


 震える指でアカウントを開く。


 数字が減っている。


 本当に。


 昨日まで三十万人いた。


 それが。


 二十万。


 十九万。


 十八万。


「やめろ……」


 更新。


 また減る。


 コメント欄には罵倒が並んでいた。


『女の成果でイキってた男』


『中身ないのバレたな』


『生活力ゼロそう』


『地味飯バカにしてコンビニ飯エンド草』


「……っ!!」


 拓海はスマホを投げた。


 鈍い音を立てて床へ転がる。


「くそっ!!」


 その時、玄関のドアが乱暴に開いた。


「ちょっと!!」


 萌香だった。


 サングラスにマスク姿。


 だが隠しきれないほど顔色が悪い。


「拓海さん!!」


「……何」


「何じゃないよ!! 案件全部飛んだんだけど!?」


 ヒステリックな声が狭い部屋に響く。


「美容液もアパレルも全部キャンセル!! ありえないんだけど!!」


「俺の方がやばいわ!!」


「はぁ!? 私の人生終わったんだけど!?」


「お前が余計なこと言うからだろ!!」


「そっちが嘘つくからじゃん!!」


 二人の怒鳴り声がぶつかる。


 だがそこには、もう“映え”はなかった。


 あるのは、コンビニ飯の匂いと、現実だけだ。


 萌香は机の弁当を見るなり顔をしかめた。


「え……まだそれ食べてんの?」


「金ねえんだよ」


「無理。油臭い」


「じゃあ帰れよ」


「私だって金ないの!!」


 萌香は苛立ったように髪を掻きむしる。


「慰謝料とか意味わかんないし!!」


「俺だって請求されてんだよ!!」


「払えるわけないじゃん!!」


「知らねぇよ!!」


 その時、萌香のスマホが鳴った。


 通知。


 恐る恐る開く。


 顔が真っ青になった。


「……っ」


「何だよ」


「マンション更新、審査落ちた……」


 声が震えている。


「炎上の件、確認されたって……」


 沈黙。


 狭い部屋に、コンビニの電子レンジ音だけが虚しく響く。


 拓海は何も言わなかった。


 言えなかった。


 数ヶ月前まで、自分たちは“勝つ側”だと思っていた。


 地味で、生活感があって、節約している女を見下していた。


 なのに今。


 自分たちは、まともな生活すら維持できない。


 萌香がぽつりと言った。


「……ねえ」


「何」


「なんで、こうなったの」


 拓海は答えなかった。


 答えられなかった。


 その頃。


 志乃はスーパーにいた。


 閉店前の店内には、値引きシールを貼る音が響いている。


 店員の「半額ですー」という声。


 買い物カゴの擦れる音。


 蛍光灯の白い光。


 志乃は白菜を手に取った。


 少し外葉が傷んでいる。


 でも中は綺麗だ。


「これでいい」


 かごへ入れる。


 豆腐。


 しめじ。


 鶏ひき肉。


 安い食材ばかりだった。


 けれど、不思議と惨めではなかった。


 ちゃんと選んで。


 ちゃんと食べて。


 ちゃんと明日へ繋げる。


 それがどれだけ強いことか、今の志乃にはわかる。


 帰宅すると、部屋は静かだった。


 もう拓海はいない。


 散らかった服も、油臭い空気もない。


 志乃は小さく息を吐いた。


 冷蔵庫を開ける。


 整った保存容器。


 下処理した野菜。


 味噌。


 卵。


 少しだけ安心する。


 白菜を切る。


 包丁の音が静かに響く。


 鍋へ出汁を入れる。


 湯気が立ち上る。


 鶏団子を落とすと、ふわりと生姜の香りが広がった。


 味噌を溶く。


 温かい匂い。


 それだけで、張り詰めていた心が少し緩む。


 テーブルへ並べたのは、


 白菜の味噌汁。


 炊きたての雑穀米。


 卵焼き。


 小松菜のおひたし。


 地味な夕飯だった。


 でも。


 ちゃんと温かい。


 志乃は味噌汁を口へ運んだ。


 熱い。


 優しい味が胃へ落ちていく。


 その瞬間。


 ふっと肩の力が抜けた。


「……ちゃんと生きるって、こういうことなのね」


 小さく呟く。


 誰もいない部屋。


 静かな夜。


 窓の外では、遠くのマンションの灯りが瞬いている。


 誰かが帰宅して、誰かがご飯を食べて、誰かが眠る。


 生活は続いていく。


 映えなくても。


 拍手されなくても。


 それでも人は、生きていける。


 志乃はもう一口、味噌汁を飲んだ。


 湯気が眼鏡を少し曇らせる。


 その白い向こうで、ようやく志乃は、自分の人生を取り戻した気がしていた。



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