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第10話 本当の豊かさ

第10話 本当の豊かさ


 春だった。


 数ヶ月前まで灰色だった街路樹には新芽がつき、駅前の花壇には色の薄いパンジーが並んでいる。冬の冷たさはもう消え、風の匂いも少し柔らかかった。


 志乃は会社のエントランス前で立ち止まり、小さく空を見上げた。


 青かった。


 あの日、ホテルの宴会場で全てを終わらせた夜とは違う空だ。


「白石さん!」


 背後から声が飛ぶ。


 振り返ると、結菜が大きく手を振って駆け寄ってきた。


「今日、記者会見ですよね!? 緊張してます?」


「少しだけ」


「絶対うまくいきますよ!」


 結菜は嬉しそうに笑う。


「だって白石さん、今や会社のエースですもん」


 志乃は苦笑した。


 エース。


 そんなふうに呼ばれる日が来るなんて、昔の自分は想像もしなかった。


 数ヶ月前。


 あの炎上騒動のあと、会社は正式に拓海との関係を否定し、企画盗用についても法的対応を進めた。


 SNSでは志乃の名前も広まった。


『本当に企画してたのこの人だったんだ』


『ちゃんと実力ある人が報われてほしい』


『地味飯ってバカにされてたの泣ける』


 そんなコメントを、最初は他人事みたいに見ていた。


 でも少しずつ。


 本当に少しずつ。


 周囲の見る目が変わっていった。


「白石」


 エントランスで部長が待っていた。


「準備はいいか?」


「はい」


「今日はお前が主役だ」


 そう言って肩を軽く叩かれる。


 会議室へ向かう途中、社員たちが「おめでとうございます」と頭を下げてきた。


 志乃は一人一人へ丁寧に返す。


 派手な拍手ではない。


 でも、その空気は温かかった。


 新ブランド発表会の会場は、白を基調にしたシンプルな空間だった。


 無駄に煌びやかな装飾はない。


 並んでいる商品も、落ち着いたデザインばかりだ。


 ブランド名は、


『Lino』


 テーマは、


“背伸びしない美しさ”。


 高級感を煽るのではなく、


 ちゃんと眠ること。


 ちゃんと食べること。


 ちゃんと生活すること。


 そこから生まれる肌と美しさをコンセプトにしたブランドだった。


「白石さん、五分後入ります」


 スタッフが声をかける。


「はい」


 志乃は深呼吸した。


 鏡を見る。


 黒髪を一つにまとめた自分が映っている。


 高価なアクセサリーはつけていない。


 でも不思議と、昔より自分の顔が好きだった。


 司会の声が響く。


「それでは、新ブランド『Lino』責任者、白石志乃さんです」


 拍手。


 志乃は壇上へ上がった。


 眩しいライト。


 記者たちの視線。


 カメラのシャッター音。


 昔の自分なら、逃げ出したくなっていたかもしれない。


 でも今は違う。


 志乃はマイクを持ち、静かに頭を下げた。


「本日はありがとうございます」


 会見が始まる。


 商品の説明。


 ブランド理念。


 市場戦略。


 志乃は一つ一つ、落ち着いて話した。


「近年、“理想の美しさ”に疲れている人が増えています」


 記者たちがメモを取る。


「高価な美容。完璧なSNS。無理な自己演出。でも本来、美しさって、もっと生活の近くにあるものだと思うんです」


「生活の近く?」


 女性記者が尋ねる。


「はい。ちゃんと眠る。ちゃんと食べる。無理をしすぎない。そういう積み重ねの方が、本当は人を綺麗にする」


 静かな空気が広がる。


 誰も笑わない。


 皆、真剣に聞いていた。


「ですので今回の商品は、“頑張りすぎなくても続けられること”を大切にしました」


 記者の一人が手を挙げる。


「白石さんご自身、最近かなり注目されていますが、成功の秘訣は何だと思いますか?」


 会場が静かになる。


 志乃は少しだけ考えた。


 それから、小さく笑った。


「見せかけじゃなく、“生活”を大事にしたことです」


 カメラのシャッターが鳴る。


「生活?」


「はい」


 志乃は続けた。


「SNSって、どうしても“綺麗に見える瞬間”だけが切り取られます。でも、人間って本当は、毎日の積み重ねでできていると思うんです」


 あの頃を思い出す。


 半額スーパー。


 冷蔵庫の作り置き。


 味噌汁の湯気。


 誰にも褒められなかった夕飯。


 でも。


 あれが自分を支えていた。


「だから私は、背伸びしないことを大切にしたいです」


 会場の空気が、少し柔らかくなった気がした。


 記者会見が終わると、社員たちが拍手してくれた。


「白石さん、めちゃくちゃ良かったです!」


「ブランド絶対売れます!」


「泣きそうになりました」


 結菜が目を潤ませながら言う。


「“ちゃんと食べることが美しさ”って、なんかすごく救われました」


 志乃は少し照れながら笑った。


「ありがとう」


 帰宅した頃には、外はもう暗かった。


 マンションの階段を上がる。


 静かな部屋。


 もう、怒鳴り声もない。


 油臭いコンビニ飯の匂いもしない。


 志乃はコートを脱ぎ、キッチンへ立った。


 冷蔵庫を開ける。


 豚こま肉。


 大根。


 にんじん。


 豆腐。


 長ネギ。


「今日は豚汁にしよう」


 独り言を呟く。


 包丁を入れる。


 トントントン、と静かな音。


 鍋にごま油を少し。


 豚肉を炒める。


 じゅわ、と音が立つ。


 野菜を加える。


 出汁を入れる。


 湯気が立ち上り、部屋がゆっくり温まっていく。


 炊飯器を開けると、白い蒸気がふわりと広がった。


 炊きたてのご飯の匂い。


 それだけで、胸の奥が少しほどける。


 テーブルへ並べる。


 豚汁。


 炊きたてご飯。


 卵焼き。


 ほうれん草のおひたし。


 質素な夕飯だった。


 でも。


 ちゃんと温かい。


 志乃は「いただきます」と小さく呟いた。


 豚汁を口へ運ぶ。


 熱い。


 味噌の香りが鼻へ抜ける。


 大根が柔らかい。


 じんわり胃が温まる。


 窓の外では、春の風が静かに揺れていた。


 スマホはテーブルの端に置いたまま。


 写真は撮らない。


 投稿もしない。


 誰かに見せるためじゃないから。


 でも、それでよかった。


 誰にも拍手されなくても。


 映えなくても。


 ちゃんと食べて、ちゃんと眠って、ちゃんと生きる。


 それだけで、人は前を向ける。


 志乃はもう一口、豚汁を飲んだ。


 湯気の向こうで、静かに笑った。



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