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エピローグ 朝の光の中で

エピローグ 朝の光の中で


 春が深まり始めた頃だった。


 朝五時半。


 志乃は静かな部屋で目を覚ました。


 窓の外はまだ薄青く、街は眠りの名残を引きずっている。遠くで新聞配達のバイクが走る音がした。


 ベッドから起き上がり、白いカーテンを開ける。


 朝日が差し込んだ。


 柔らかい光だった。


 冬の頃みたいに鋭くない。ゆっくりと肌へ触れるような光。


 志乃は小さく息を吐いた。


 最近、朝が好きになっていた。


 少し前までの自分は、朝が怖かった。


 隣で眠る人の機嫌を気にして、冷蔵庫の残りを計算して、仕事へ向かう前から疲れていた。


 でも今は違う。


 静かな部屋。


 整った台所。


 ちゃんと眠れた身体。


 それだけで、呼吸が軽い。


 キッチンへ向かい、やかんへ水を入れる。


 火をつける。


 小さな青い炎が揺れた。


 最近の志乃は、毎週日曜の朝にZoomの集会へ参加していた。


 クリスチャンの小さな集まりだった。


 きっかけは偶然だった。


 会社の先輩に誘われ、なんとなく入っただけだった。


 最初は少し警戒していた。


 でも、そこにいた人たちは誰も“成功”を競っていなかった。


 フォロワー数も。


 年収も。


 ブランドバッグも。


 誰も見せびらかさない。


 ただ、それぞれ傷ついた人生を持ちながら、静かに話していた。


 湯が沸く音が鳴る。


 志乃はマグカップへ白湯を注いだ。


 湯気がゆっくり立ち上る。


 パソコンを開く。


 画面には、集会の開始前の部屋が映っていた。


「おはようございます」


 柔らかな声が聞こえる。


「白石さん、今日も早いですね」


「おはようございます」


 志乃は少し笑った。


 画面の向こうには、地方に住む主婦もいれば、仕事前の会社員もいる。老夫婦もいた。


 皆、飾らない部屋から参加していた。


 洗濯物が映り込む人もいる。


 猫が横切る人もいる。


 でも、不思議とその空気は落ち着いた。


 司会の女性が微笑む。


「今日は、“赦し”について少し話したいと思います」


 志乃は静かに耳を傾けた。


「ざまぁもいいけど、相手のために祈れたらもっと素敵だと思いませんか?」


 その言葉に、志乃の手が止まる。


 画面の向こうで、何人かが頷いていた。


「もちろん、傷ついた時は怒っていいんです」


 司会者は穏やかに続ける。


「逃げてもいい。戦ってもいい。でも最後に、自分まで憎しみに飲まれないことが大事なんです」


 窓から朝日が差し込む。


 白い湯気が光の中で揺れた。


 志乃は静かに目を伏せる。


 拓海と萌香の顔が浮かんだ。


 炎上。


 怒鳴り声。


 崩れていく数字。


 あの時、自分は確かに復讐した。


 後悔はしていない。


 でも。


 ずっと怒りだけを抱えて生きていたら、きっと自分の心まで壊れていた。


「魂の浄化って、特別なことじゃないと思うんです」


 司会者が笑う。


「朝日を浴びるとか、ちゃんと眠るとか、温かいご飯を食べるとか。そういう小さなことで、人の心って少しずつ戻っていくんですよね」


 志乃は思わず、ふっと笑った。


 温かいご飯。


 それはずっと、自分を救ってきたものだった。


 誰にも褒められなくても。


 地味だと笑われても。


 味噌汁の湯気は、自分を生かしてくれた。


 集会が終わったあと、志乃は窓を開けた。


 春の風が入ってくる。


 少し湿った土の匂い。


 遠くで小鳥が鳴いている。


 志乃はベランダへ出た。


 朝日が頬を照らす。


 目を閉じると、温かかった。


 胸の奥に溜まっていた重いものが、少しずつ流れていく気がした。


「……元気かな」


 小さく呟く。


 拓海たちのことだった。


 許したわけじゃない。


 忘れたわけでもない。


 でも。


 もう、憎しみだけでは繋がっていたくなかった。


 人を呪い続けるのは、思っていたより疲れる。


 だったら。


 ちゃんと眠って。


 ちゃんと食べて。


 ちゃんと朝日を浴びて。


 自分の人生を生きた方がいい。


 志乃は部屋へ戻り、朝食の準備を始めた。


 炊きたてのご飯。


 豆腐とわかめの味噌汁。


 焼き鮭。


 卵焼き。


 小松菜のお浸し。


 白菜のお漬物。


 質素だけれど、温かい。


 味噌汁をよそった瞬間、湯気がふわりと立ち上った。


 その匂いを吸い込むと、身体の奥まで静かになっていく。


 志乃は両手を合わせる。


「いただきます」


 一口、味噌汁を飲む。


 優しい味だった。


 SNSには載せない。


 誰かに見せるためでもない。


 ただ、自分を大切にするための食事。


 窓の外では、朝日が街を照らし始めていた。


 人はまた今日を生きる。


 失敗しても。


 傷ついても。


 それでも、もう一度朝は来る。


 志乃は静かに目を細めた。


 その顔にはもう、怒りの影は残っていなかった。



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