第7話 数字が消える音
第7話 数字が消える音
宴会場は、異様な静けさに包まれていた。
さっきまで飛び交っていた笑い声も、グラスの触れ合う軽い音も、もうない。
あるのは、ざわめきを押し殺した呼吸だけだった。
巨大スクリーンには、まだ拓海のLINE画面が映ったままになっている。
『企画も金も持ってくるし便利』
『でも女としては無理笑』
その文字が、白い壁へ焼き付いた染みみたいに見えた。
拓海は顔面蒼白だった。
「違う……っ、これは!」
声が裏返る。
「捏造だ! こんなの!」
「じゃあ、スマホ提出できますか?」
神崎弁護士が静かに言った。
その一言で、拓海の口が止まる。
会場の空気がさらに冷えた。
「……黒崎さん、本当なんですか?」
「企画盗用って……」
「出資の話、どうなるんだ?」
投資家たちの視線が変わっていた。
数分前まで“期待の若手起業家”を見ていた目ではない。
値踏みする目。
損失を計算する目。
拓海はそれに気づき、必死に笑顔を作った。
「いや、皆さん落ち着いてください。これは彼女が嫉妬して――」
「嫉妬?」
志乃が静かに繰り返した。
その声だけで、空気が張る。
黒いスーツ姿のまま、志乃はマイクを持っていた。
照明が彼女の横顔を照らす。
派手ではない。
だが、不思議なくらい視線を奪った。
志乃はゆっくり会場を見渡した。
「フォロワー数って便利ですよね」
静かな声だった。
「中身が空でも、成功者に見えるから」
会場の誰かが息を呑む。
拓海が顔を歪めた。
「お前……!」
「でも、本当に積み上げたものって、数字だけでは消えないんです」
スクリーンが切り替わる。
今度は、社内企画書だった。
作成者名。
白石志乃。
作成日時。
その横に並ぶ、拓海の動画台本。
文章がほぼ一致している。
ざわめきが広がる。
「マジで盗んでたのか……」
「これ完全一致じゃん」
「やば……」
拓海が叫ぶ。
「参考にしただけだ!!」
「参考?」
志乃は淡々とページをめくった。
「市場分析」
「販促導線」
「ターゲット設定」
「SNS戦略」
「全部、私が作ったものです」
次々映る資料。
深夜二時の保存履歴。
社内提出日。
修正ログ。
積み上げた時間そのものだった。
志乃は続ける。
「この人は、“考える”ことをしません」
「ふざけんな!!」
「だから他人の努力を、自分の言葉みたいに使う」
「黙れよ!!」
拓海の怒鳴り声が響く。
だがその声には、もう余裕がなかった。
汗が額を流れている。
ネクタイも少し歪んでいた。
萌香は隣で真っ青になっている。
「ねえ拓海さん……これ、どういうこと……?」
「うるさい!」
拓海が振り払う。
萌香のヒールがぐらついた。
その様子を、周囲は冷めた目で見ていた。
志乃はさらに資料を映す。
今度は金の流れだった。
共同口座。
引き落とし履歴。
高級ホテル。
ブランドショップ。
エステ。
借金返済。
「黒崎拓海さんは、私との共同口座から無断で金銭を流用していました」
会場がざわつく。
「しかも現在、複数のカードローン契約があります」
赤い数字がスクリーンへ映し出される。
借入残高。
返済遅延通知。
消費者金融。
投資家の一人が顔色を変えた。
「……黒崎くん、これ本当か?」
「ち、違います! 一時的な運転資金で――」
「君、“資金繰りは問題ない”って言ってたよな?」
「だから、それは!」
拓海の声が震える。
その時だった。
会場後方から、小さな笑い声が漏れた。
「やば、終わったな」
「完全に詐欺師じゃん」
それをきっかけに、空気が崩れ始める。
人々がスマホを見る。
「うわ、もう拡散されてる」
「SNSやばい」
「トレンド入ってる」
誰かが画面を見せた。
拓海の配信アカウント。
フォロワー数が、リアルタイムで減っていく。
299,842。
299,701。
299,420。
数字が落ちる。
まるで砂が崩れるみたいに。
「……っ」
拓海の喉が鳴った。
コメント欄は高速で流れている。
『え、全部彼女の企画だったの?』
『中身空っぽじゃん』
『女に寄生してたの草』
『生活感ない男ってこうなるんだな』
『詐欺師では?』
『終わったな』
拓海が震える指でスマホを掴む。
「やめろ……」
画面を更新するたび、数字が減る。
298,910。
298,402。
298,001。
「やめろぉぉっ!!」
絶叫だった。
会場に響き渡る。
その姿はもう、“成功者”ではなかった。
ただ、数字へ縋りつく男だった。
萌香が怯えた声を出す。
「た、拓海さん……」
「お前のせいだろ!!」
「えっ……」
「お前が余計なことばっか言うから!!」
「はぁ!? 私!?」
二人が言い争いを始める。
さっきまで“理想のカップル”を演じていた男女が、醜く罵り合っている。
その姿を、会場の人間たちは静かに見ていた。
誰も助けない。
もう価値がないからだ。
志乃はその様子を見ながら、ゆっくりマイクを下ろした。
胸の奥は、不思議なほど静かだった。
勝った、という感覚とも違う。
ただ。
ようやく終わるのだと思った。
長かった。
誰かの成功を支えながら、自分の人生を後回しにしてきた時間。
“地味”と笑われながら、生活を守ってきた日々。
全部。
全部。
無駄じゃなかった。
神崎が小さく言った。
「白石さん」
「はい」
「もう十分ですよ」
志乃はゆっくり頷く。
その時、拓海がふらつきながら近づいてきた。
「志乃……」
掠れた声。
「頼む……これ消してくれ……」
志乃は静かに見下ろした。
ほんの少し前まで、自分を“華がない”と笑っていた男。
今はその顔から、虚勢が完全に剥がれていた。
「嫌」
たった一言。
それだけだった。
けれど、その瞬間。
拓海の中で、何かが完全に崩れ落ちた音がした。




