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第5話 婚約破棄宣言

第5話 婚約破棄宣言


 金曜日の夜だった。


 オフィス街は仕事終わりの人間で溢れている。居酒屋の呼び込み。タクシーのクラクション。吐き出される白い息。十二月の冷たい空気の中、街だけが浮かれて見えた。


 志乃はスーパーの買い物袋を腕に提げ、マンションへの坂道を上っていた。


 袋の中には、しめじ、にんじん、ごぼう、豆腐。それから特売だった鯖缶。


 安い食材ばかりだ。


 けれど、ちゃんと腹に残る。


 ちゃんと明日の体を作る。


 それで十分だった。


 部屋の前へ着くと、中から笑い声が聞こえた。


 女の声。


 甲高く、甘ったるい。


 志乃は無言で鍵を開ける。


 玄関には見慣れないヒールがあった。白いエナメル。先端に小さなリボンが付いている。


「ただいま」


 リビングへ入ると、拓海と萌香がソファに座っていた。


 テーブルにはデリバリーの箱と飲みかけのワイン。甘い香水と油っぽい料理の匂いが混ざっている。


「あ、おかえりぃ♡」


 萌香が手を振った。


 まるで自分の家みたいに。


 拓海はソファにふんぞり返りながら笑う。


「ちょうどよかった。話あるから」


「……そう」


 志乃は買い物袋をキッチンへ置いた。


 野菜を冷蔵庫へ入れる。しめじを石づきごと分ける。ごぼうを新聞紙へ包む。


 その間も、背後から二人の笑い声が聞こえていた。


「ねえ志乃さん、今日会社でめっちゃ真面目でしたよねぇ」


 萌香がくすくす笑う。


「なんか先生みたいでしたぁ♡」


「だろ?」


 拓海も酒を飲みながら笑った。


「志乃って、女っていうより管理栄養士みたいなんだよな」


「わかるぅ〜。生活感すごいですよねぇ」


 志乃は包丁を握る手を止めなかった。


 にんじんを切る。


 トントントン、と一定の音。


 乱れない。


「で、話って?」


 振り返らずに聞く。


 すると拓海は少し咳払いした。


「あー……まあ、単刀直入に言うわ」


 その声には妙な高揚感があった。


 成功者を演じている時の声だ。


「来週、会社設立パーティーやるだろ?」


「うん」


「そこで萌香を正式パートナーとして紹介する」


 包丁の音が止まった。


 数秒、静寂。


 だが志乃は振り返らなかった。


「そう」


「いや、だからさ」


 拓海は少し苛立ったように続ける。


「つまり、お前とは終わりってこと」


 換気扇の音だけが響く。


 志乃はゆっくり包丁を置いた。


 それから振り返る。


 拓海は腕を広げ、どこか得意げだった。


 萌香は彼にもたれかかりながら、勝ち誇った目でこちらを見ている。


「お前は華がないんだよ」


 拓海が言った。


「え?」


「いや、能力とかじゃなくてさ。成功者の隣には、それっぽい女が必要なの」


 萌香が嬉しそうに笑う。


「ブランディングって大事ですもんねぇ♡」


「そうそう」


 拓海は頷く。


「萌香みたいな女が隣にいると、“成功者”に見えるんだよ」


「……なるほど」


「志乃はさ、なんか現実感ありすぎるんだよな。弁当とか味噌汁とか。生活感強すぎ」


 その言葉に、萌香が吹き出した。


「わかるぅ〜。冷蔵庫とか完全に主婦でしたもん」


「だろ?」


 二人は笑う。


 志乃は静かに二人を見ていた。


 この部屋の家賃を誰が多く払ってきたか。


 この男の食事を誰が作ってきたか。


 熱を出した夜、看病したのは誰か。


 動画編集を手伝い、企画を考え、資料を整えたのは誰か。


 全部、自分だった。


 なのに今、彼らは「生活感」を笑っている。


 人が生きるために必要なものを。


「だからパーティー終わったら婚約破棄な」


 拓海は軽い口調で言った。


「指輪とかも、まあその辺置いといて」


「拓海さん優しいですよねぇ」


「だろ?」


 志乃はしばらく黙っていた。


 怒鳴ろうと思えばできた。


 皿を投げることだってできる。


 でも、不思議なくらい心は静かだった。


 目の前の男が、もう空っぽにしか見えなかったからだ。


 志乃はふっと微笑んだ。


「そう」


「……え?」


「じゃあ最後に、ちゃんと成功してきてね」


 拓海が眉をひそめる。


「何その言い方」


「別に」


「強がんなよ。泣きたいなら泣いてもいいけど?」


「泣かないよ」


 志乃は静かに言った。


「もう、期待してないから」


 一瞬だけ。


 拓海の表情が揺れた。


 だがすぐに鼻で笑う。


「負け惜しみ」


 萌香が拓海の腕へ絡みつく。


「もう行こぉ♡ この部屋いると、なんか地味がうつりそう」


 二人は笑いながら出ていった。


 玄関のドアが閉まる。


 静寂。


 途端に、部屋の空気が軽くなった。


 志乃は深く息を吐く。


 ようやく酸素が吸えた気がした。


 テーブルには食べ散らかした箱。ベタつくグラス。ワインの染み。


 志乃は黙って片付け始めた。


 空き箱を潰す。


 アルコールの匂いが鼻につく。


 油まみれの容器を捨てる。


 そのあと、炊飯器を開けた。


 白い湯気が立ち上る。


 少しだけ心が落ち着いた。


 鍋へ米を移し、細かく切ったごぼうとにんじんを入れる。鯖缶を汁ごと加え、生姜を少し。


 醤油。


 みりん。


 酒。


 火にかける。


 ぐつぐつ、と音がする。


 部屋の中へ、出汁の香りがゆっくり広がった。


 志乃はその匂いが好きだった。


 派手ではない。


 けれど、人を安心させる匂いだ。


 炊き込みご飯ができあがる頃には、時計は十一時を回っていた。


 小さな茶碗によそい、味噌汁を添える。


 湯気が頬を撫でた。


 一口食べる。


 鯖の旨味と生姜の香りが広がる。


 ちゃんと、美味しい。


 志乃はゆっくり咀嚼した。


 それからノートパソコンを開く。


 USB。


 通帳データ。


 契約書。


 LINE履歴。


 録音データ。


 拓海が勝手に使っていた企画資料。


 全部、フォルダごと整理していく。


 ファイル名を統一する。


 日付順に並べる。


 証拠は感情より強い。


 それを、志乃は知っていた。


 窓の外では、遠くのマンションの灯りが瞬いている。


 誰かが夕飯を食べ、誰かが眠り、誰かが泣いている時間。


 その中で志乃は、一つずつデータを保存していった。


 静かに。


 確実に。


 復讐は、もう始まっていた。



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