第4話 映え女、会社に現る
第4話 映え女、会社に現る
その日の朝、オフィスはどこか浮ついていた。
「今日来るんですよね? あのインフルエンサー」
「フォロワー二十万人だっけ?」
「実物かわいいのかな〜」
給湯室から聞こえてくる声に、志乃はパソコン画面から目を離さなかった。キーボードを打つ指先は静かだ。だが胸の奥では、冷えた水がゆっくり溜まっていくような感覚があった。
萌香。
名前を見るだけで、あのLINEの画面が浮かぶ。
『地味女から会社の金引っ張ったら捨てなよ笑』
志乃はマグカップを持ち上げ、冷めかけたブラックコーヒーを口に含んだ。苦味が舌に残る。
その時、エレベーター前がざわついた。
「きゃー、顔ちっちゃ」
「やば、オーラある」
振り返らなくてもわかった。
甘い香水の匂いが、フロアに流れ込んできたからだ。
「はじめましてぇ、姫野萌香です♡」
高い声。
志乃はゆっくり視線を上げた。
萌香は白いツイードジャケットに、細い脚を強調するミニスカート姿だった。髪は艶のある巻き髪。唇は飴みたいに艶めいている。
男受け、という言葉をそのまま形にしたような女だった。
萌香は社員たちへ笑顔を振り撒きながら歩いてくる。そして、志乃を見つけた瞬間、わざとらしく目を丸くした。
「あれぇ? 志乃さん?」
「……こんにちは」
「すごぉい、偶然♡」
偶然なわけがない。
拓海から聞いて来たのだろう。
萌香は志乃のデスクをじろりと見た。整頓された資料、付箋、地味なペンケース。
「へぇ〜。ほんとに会社員なんですねぇ」
「そうだけど」
「なんか新鮮。私の周り、経営者さんとかクリエイターさんばっかだからぁ」
語尾を伸ばしながら笑う。
その笑顔の奥にあるものを、志乃はもう知っていた。
「本日はよろしくお願いします」
志乃は淡々と頭を下げた。
萌香は少しつまらなそうに目を細めた。
もっと傷ついた顔を見たかったのかもしれない。
会議まで時間があり、広報担当が社内を案内することになった。
萌香は歩きながら、あちこちに感想を漏らす。
「わぁ〜、オフィス広ぁい」
「社員証とか懐かしい〜」
「えっ、固定席なんですか?」
その声には、いちいち小さな棘が混じっていた。
昼休みになり、一行は社員食堂の前を通る。
揚げ物の匂い。味噌汁の湯気。食器の触れ合う音。
萌香は立ち止まり、信じられないものを見る顔をした。
「えっ、まだ社員食堂とか使うんですか?」
周囲の空気が、一瞬止まった。
「え?」
若い社員が苦笑する。
「安いし美味しいですよ」
「でもぉ、女の子ってランチも自己投資じゃないですかぁ? 私、基本ホテルランチか会員制のお店しか行かなくてぇ」
その時だった。
「姫野さん」
低い声が割って入る。
商品開発部の役員・藤崎だった。
五十代後半。現場叩き上げの人間で、愛想はない。
「弊社の食堂、栄養士が監修してるんですよ。社員の健康管理もコスト管理の一部です」
「あ……そ、そうなんですねぇ」
萌香の笑顔がわずかに引きつる。
志乃は黙って社員食堂へ向かった。
今日の日替わりは鯖の味噌煮定食だった。
雑穀米。ほうれん草のおひたし。豚汁。
四百八十円。
「白石さん、一緒いいですか?」
結菜がトレーを持って駆けてくる。
「もちろん」
二人が席につくと、萌香もなぜかこちらへ来た。
「私もここで食べてみようかなぁ♡ 社会勉強?」
周囲の社員たちが微妙な顔をする。
萌香はサラダを一口食べ、すぐスマホを構えた。
「え〜、なんか映えない〜」
カシャ、とシャッター音。
「でも逆にネタになるかも。“一般OLランチ体験”みたいな?」
結菜の箸が止まった。
志乃は静かに味噌汁を飲む。
熱い。
出汁の香りが胃へ落ちていく。
その間も萌香は喋り続けた。
「志乃さんって毎日こういうの食べてるんですか?」
「うん」
「偉ぁい。私、無理かも。茶色いご飯ってテンション下がりません?」
「私は好きだけど」
「えー。でも女って見た目大事じゃないですかぁ」
「健康も大事だよ」
「でも、ちゃんとキラキラしてないと“女”終わる気がする〜」
萌香は笑った。
周囲は静かだった。
その空気に気づいていないのは、本人だけだ。
午後の会議室。
新商品のSNS案件について、役員を交えた打ち合わせが始まった。
萌香はソファへ座るなり、髪をかき上げて微笑む。
「私のフォロワーさんって、美意識高い子多いんですよぉ♡」
「具体的には、どの年齢層ですか?」
藤崎が尋ねる。
「えっとぉ……二十代中心?」
「前半後半どちらです」
「え〜、どっちも?」
「購買率が高い層は把握していますか」
「そこはマネージャーが……」
空気が少しずつ変わっていく。
萌香の笑顔が硬くなる。
「では今回の商品に配合されているナイアシンアミドについて、どう訴求しますか?」
「え?」
「SNSで紹介されるなら、最低限成分理解は必要かと」
「え〜っと……肌にいい成分?」
沈黙。
志乃は資料を閉じた。
藤崎が視線を向ける。
「白石」
「はい」
「説明してくれ」
志乃は静かに立ち上がった。
「ナイアシンアミドは美白とシワ改善の両方にアプローチできます。ただし、高価格帯で押すより、“毎日使える価格”を強調した方が継続率は上がります」
プロジェクターに資料が映る。
「現在、消費者は“贅沢”より“失敗したくない”心理が強いです。なのでSNSでも、“頑張りすぎない美容”を軸にした方が刺さります」
「具体的には?」
「生活導線です」
志乃は続ける。
「朝五分で終わる。ドラッグストアで買える。節約中でも続けられる。その安心感が、今はブランド価値になります」
役員たちが真剣な顔で頷いていた。
萌香だけが、置いていかれたような顔をしている。
「あと、原価率を考えるとパッケージを過剰に豪華にする必要はありません」
「理由は?」
「中身にお金をかけた方が、リピート率が上がるからです。映えだけの商品は、今はSNSで一瞬売れて終わります」
その瞬間。
萌香の顔がわずかに歪んだ。
まるで自分自身を否定されたように。
会議終了後、役員たちは小声で話していた。
「やっぱ白石は強いな」
「数字の読み方が現実的だ」
「姫野さん、見た目はいいんだが……」
その言葉を聞きながら、萌香は爪を立てるようにスマホを握っていた。
廊下ですれ違った時、萌香が低い声で言った。
「……感じ悪」
「どっちが?」
初めてだった。
志乃が真正面から返したのは。
萌香の目が見開かれる。
「拓海さんが言ってた通り。地味なくせにプライド高いんですね」
「そうかもね」
「でも可哀想。女って、結局“選ばれる側”なのに」
志乃は少しだけ笑った。
「そう思ってるなら、あなたは一生、誰かの飾りだよ」
萌香の顔から笑みが消えた。
その瞬間、志乃は確信した。
この女は、自分で何かを積み上げたことがない。
だから、“本物”を前にすると空っぽになる。
会社の窓の外では、冬の空がゆっくり曇り始めていた。




