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第3話 冷蔵庫の中身と、人間の中身

第3話 冷蔵庫の中身と、人間の中身


 翌朝、志乃はいつもより早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光は薄く、冬の朝らしい冷たさを含んでいた。隣の布団は空で、拓海はリビングのソファで寝ていた。昨夜も遅く帰ってきて、そのまま倒れ込んだらしい。床には脱ぎ捨てられた靴下と、コンビニの袋が落ちていた。

「……また、これ」

 袋の中には、食べかけのチキンと、飲み残しのカフェラテ。油の匂いが朝の空気に混ざって、少し胃が重くなる。志乃は黙って袋を結び、ゴミ箱へ入れた。ソファの上で拓海が寝返りを打つ。

「ん……水」

「自分で飲んで」

「冷た。婚約者でしょ」

「婚約者は給水係じゃないから」

 拓海は片目だけ開け、面倒そうに舌打ちした。

「昨日さ、俺の動画また伸びたんだよ。見た?」

「見た」

「だろ? 俺、やっぱ言語化うまいわ。コメントでも“天才”って言われてた」

「そう」

「なんだよ、その反応。もっと喜べよ。俺が成功したら、お前も得するんだから」

 志乃は返事をしなかった。キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。白い明かりの中に、整然と並ぶ保存容器が見えた。茹でた小松菜、千切りにしたにんじん、味付けした鶏むね肉、豆腐、卵、冷凍したきのこ。扉のポケットには、手書きの小さなメモを貼ってある。

「月曜、鶏むね。火曜、鯖缶。水曜、豆腐ハンバーグ。たんぱく質を切らさない」

 祖母に教わった癖だった。安い食材でも、組み合わせれば体は保てる。高級なものを買わなくても、工夫すれば暮らしは崩れない。

 その隣で、拓海がスマホをかざして笑った。

「見て、昨日の店。個室でコース一人二万。映えるだろ」

 画面には、金色の照明の下で輝く皿と、グラスを掲げる拓海の手が映っていた。隣には女物の細い指先が写り込んでいる。志乃は目を細めた。

「誰と行ったの?」

「投資家。仕事だよ仕事」

「女の人の手、写ってるけど」

「ああ、秘書さんじゃない? いちいち細かいな」

「共同口座から引き落とされてた」

 拓海の口元が一瞬だけ固まった。

「は?」

「高級ホテルとレストラン。ブランドショップも」

「経費だよ」

「会社の?」

「俺たちの未来への投資だろ」

「私の貯金も入ってる口座だよ」

「だからさ、俺が大きくなれば返せるって言ってんじゃん。目先の数万で騒ぐなよ。器小さいな」

 拓海は笑った。軽い笑いだった。人の手から落ちたお金を拾って、自分のもののように使う人間の笑いだった。

 志乃は冷蔵庫の中を見つめた。少しずつ下味をつけ、傷まないように冷凍し、明日の自分が困らないように並べた食材。すべてに理由がある。すべてが誰かの体を作るためにそこにある。

 その横で拓海は、写真の中の料理だけを見て生きている。皿の上のものが、どこから来て、いくらかかり、誰の手で用意されたのか、考えもしない。

「この男は、生活を作れない」

 志乃の口から、静かに言葉が漏れた。

「何?」

「何でもない」

「朝飯ある?」

「雑炊ならある」

「えー、もっと映えるやつないの?」

「朝ご飯は映えなくても体に入ればいいの」

「つまんねえ女」

 志乃は鍋に火をつけた。だしの香りが立ち上り、冷えた部屋に少しだけ温度が戻る。拓海はその匂いにも気づかず、ソファで動画の再生数を眺めていた。

「すげ、また増えてる。やっぱ世の中、数字だよな。数字があるやつが正義」

「数字は嘘をつかないけど、嘘つきが数字を使うことはあるよ」

「何それ。朝から怖」

 拓海は笑ったが、志乃はもう笑わなかった。


 昼休み、志乃は会社近くの小さな法律事務所にいた。ビルの三階。廊下には古い紙と消毒液の匂いがした。受付で名前を告げると、奥の相談室へ通される。

 弁護士の神崎は、四十代半ばの落ち着いた女性だった。短く切った髪に、無駄のないスーツ。声は低く、穏やかだった。

「白石志乃さんですね。ご相談内容は、婚約者の金銭トラブルと、企画の盗用、不貞行為の可能性、ということでよろしいですか」

「はい」

「証拠はありますか」

 志乃は鞄からクリアファイルを出した。通帳のコピー、引き落とし履歴、拓海の投稿を印刷したもの、自分の企画書の作成日がわかる資料。神崎は一枚ずつ丁寧に目を通した。

「よく整理されていますね」

「仕事柄、こういうのは慣れているので」

「感情的に相手を問い詰めなかったのは正解です」

「本当は、昨日叫びたかったです」

 志乃は初めて本音を漏らした。喉の奥が少し熱くなる。

「でも、叫んだら証拠を消されると思いました」

「その判断は冷静です」

 神崎は頷いた。

「今後は、相手に気づかれないように記録を残してください。金銭の流れ、不自然な契約、あなたの企画が盗用された経緯、不貞の証拠。会話は日時を残してメモに。可能ならメールや資料の作成履歴も保管を」

「拓海は、私の会社から出資を引き出そうとしています」

「会社名義やあなたの信用を勝手に使っているなら、かなり危険です」

「私の名前で、契約の話を進めているかもしれません」

「では、そこも確認しましょう。あなたが署名していないもの、承諾していないものは、必ず証拠化してください」

 志乃は頷いた。神崎の声は淡々としていたが、その淡々さがありがたかった。怒りを煽られない。泣けとも言われない。ただ、次に何をすべきかを示してくれる。

「白石さん」

「はい」

「相手は、あなたが怒って終わると思っているかもしれません。でも、こういう人間が一番恐れるのは、怒鳴り声ではありません」

「何ですか」

「記録です」

 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 記録。

 数字。

 日時。

 証拠。

 拓海が武器だと思っていたものを、今度はこちらが使う番だった。

「わかりました」

 志乃は深く頭を下げた。

「お願いします。私、ちゃんと終わらせたいんです」

「終わらせましょう。ただし、あなたが壊れない形で」

 事務所を出ると、空は曇っていた。冷たい風が頬を刺す。けれど朝よりも、息がしやすかった。


 夜、志乃はいつものように台所に立った。鯖缶と大根を煮る。鍋の中で大根が透明になっていく。甘辛い匂いが部屋に広がった。

 拓海はまだ帰らない。

 志乃は食卓にノートを広げた。今日の日付を書く。共同口座の引き落とし。拓海の投稿日時。動画内容。自分の企画書との一致点。萌香の名前。ホテル名。

 一つずつ、手で書く。

 ペン先が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。

 書きながら、志乃は泣かなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、鍋の火加減を見ながら、明日の弁当用に大根を少し取り分ける。

 生活は続く。

 だからこそ、強い。

 玄関の外で、足音が止まった。拓海が帰ってきたのだろう。志乃はノートを閉じ、何食わぬ顔で鍋の蓋を取った。

 湯気が立ち上る。

 その白い向こうで、志乃の目はもう、少しも揺れていなかった。



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