第19話 治せるからじゃない
食料庫の裏手で、柵が嫌な音を立てた。
木板が内側へ押し込まれ、乾いた割れ目が走る。
隙間から灰色の毛をした小型魔物が二体、鼻先をねじ込んでいた。細い牙を鳴らし、爪で板を引っかくたび、食料庫の中から穀物袋の匂いが漏れる。
灰牙鼠型魔物。
山外縁部にいる小型魔物で、本来なら人里まで下りてくることは少ない。けれど今、その二体は食料庫の裏板に爪をかけていた。
そして、その後ろに裂牙猪型魔物がいた。
背中には、巨大な爪で裂かれたような黒い傷が走っている。片方の牙は欠け、毛は逆立ち、血走った目は食料庫ではなく、逃げ場を探すように左右へ揺れていた。
レクスには、見た瞬間に分かった。
あれは村を狙って来た魔物ではない。
黒爪猩型魔物に追われて、ここまで流れてきた魔物だ。
村の若者が、鍬を握って食料庫へ走っていた。
「食料庫に行かせるな!! 俺が止める!!」
レクスは地面を蹴った。
昨日見た穀物袋。干し肉。塩漬け。冬越しの配分を刻んだ木札。老婆が言った「これがやられたら村は終わりだ」という声。薄いパンを受け取っていた子どもの顔。
それらが一気に浮かんで、レクスの足を前へ押した。
名前では呼ばれていない。
近づくなと言われた。
狼の血だとも言われた。
それでも、あの食料庫は命だった。
あそこを破られたら、この村は冬に死ぬ。
「ユリウス、村人を下げろ!! 俺が前に入る!!」
「待て、レクス!! そこに入るな!!」
ユリウスの叫びが背中から飛んだ。
だが、レクスの目は食料庫へ突っ込もうとする裂牙猪型魔物と、鍬を握った若者だけを捉えていた。
若者は足をもつれさせながら、それでも食料庫の扉へ向かっている。恐怖で顔は青ざめ、鍬を握る手は震えていた。あの位置で裂牙猪型魔物に弾かれれば、扉ごと潰される。
「今行かないと食われる!!」
「一人だけ見るな!! 後ろも見ろ!! そこはノエルの道だ!! 村人を下げる線も塞がる!!」
言葉は聞こえていた。
でも、足は止まらなかった。
灰牙鼠型魔物の一体が食料庫の裏板に爪をかける。もう一体が隙間から中の匂いを嗅ぎ、細い牙を鳴らす。その後ろで、裂牙猪型魔物が興奮したように地面を蹴った。
レクスは、その前へ滑り込んだ。
食料庫と魔物の間。
確かに、届いた。
届いてしまった。
「レクス!! そこに立たないで!!」
リシアの声が鋭く裂けた。
レクスは振り返らない。
「リシア、魔物の目をずらせ!!」
「できないの!! そこ、私がずらす場所なの!! あんたがそこにいたら、魔物の目を逃がせない!!」
リシアの声には、いつもの皮肉がなかった。
焦りと、恐怖と、怒りが混じっていた。
「ちょっと!! 聞いてるんでしょ!! 助けたいなら、邪魔しないでよ!!」
レクスは剣を構えた。
裂牙猪型魔物が突っ込んでくる。真正面から受ければ弾かれる。だから横へ流す。ガレンに何度も叩き込まれた動きだ。
止めるな。
流せ。
曲げろ。
けれど、足場が狭い。
右へずれれば食料庫の扉。左へ逃がせば若者がいる。後ろへ下がれば魔物はそのまま食料庫へ入る。
前へ出たはずなのに、足の逃げ場がなかった。
「レクス、そこではありません!! そこは治療に入る道です!!」
ノエルの声も飛ぶ。
「あなたがそこにいると、私が入れません!! 若者の方へ行けない! 下がってください!!」
「下がれない!! ここを抜かれたら食料庫だ!!」
「だから、あなた一人で塞がないでください!!」
ノエルの声が震えていた。
それでも、レクスは剣を上げた。
裂牙猪型魔物の牙が迫る。
レクスは剣の腹を牙へ当て、横へ流そうとした。衝撃が腕を突き抜ける。足元の土が抉れ、膝が沈む。灰牙鼠型魔物が横を抜けようとしたが、レクスは肩で弾くように前へ出た。
「行かせるか!!」
届いた。
レクスは、食料庫へ届いた。
だが、その場所は狭すぎた。
ノエルが通る道を塞ぎ、ユリウスが村人を逃がす線を切り、リシアが魔物の目を逃がす先を潰していた。
届いたせいで、塞いだ。
「くそっ、村人が下がれない!!」
ユリウスが叫んだ。
食料庫へ走った若者は、恐怖で足を止めていた。老婆が扉の近くで動けず、子どもを抱えた母親が井戸側へ逃げようとして、人の流れとぶつかっている。
ユリウスは地図を握りしめ、声を張った。
「井戸側じゃない!! 家畜小屋の横へ回れ!! そこは詰まる!! 若者を引け!! 誰か、鍬を捨てろ!! 持ったまま転ぶな!!」
だが、レクスが立っている場所のせいで、ノエルは若者へ近づけない。
リシアは幻惑を使えない。
魔物の狙いは、完全にレクスへ集中した。
裂牙猪型魔物が再び突っ込む。
レクスは横へ逃げられなかった。
食料庫が背中にある。
だから、受けた。
「ぐっ……!!」
欠けた牙が脇腹を裂いた。
熱い痛みが走り、血が服の下へ広がる。続けて灰牙鼠型魔物の爪が肩口を引っかいた。布が裂け、皮膚が切れ、赤い線が浮かぶ。
村人の悲鳴が上がった。
「あ、あの狼の耳の子が……!」
「血が……!」
レクスの膝が揺れた。
胸の奥で、熱が弾けかける。
犬歯が疼く。爪先が土を掴む。視界が狭くなり、裂牙猪型魔物の喉元だけがはっきり見えた。
使えば、間に合う。
使えば、押し返せる。
「使わないで、レクス!!」
ノエルの叫びが、レクスの耳を打った。
敬語ではなかった。
レクスは歯を食いしばり、胸の奥の熱を無理やり押さえ込んだ。けれど、その一瞬の遅れを裂牙猪型魔物は逃さなかった。
欠けた牙が、もう一度突き上がる。
レクスは剣で受けた。
受けたはずだった。
だが、身体強化を抑えたままでは重さに耐えきれない。
衝撃が身体を持っていく。
レクスは食料庫の壁際へ叩きつけられた。背中に板の硬さが食い込み、脇腹から血が跳ねる。視界が白く揺れた。
「レクス!!」
ユリウスの声。
リシアの声も重なる。
「何してるのよ!! そこにいたら、私がずらせないって言ったでしょ!!」
レクスは壁に手をつき、立ち上がろうとした。
「まだだ……食料庫に……行かせない……!」
「だから一人で止めるなって言ってるんだよ!!」
ユリウスが叫んだ。
その声は、今までのツッコミとは違っていた。
喉が裂けそうな、本気の怒鳴り声だった。
「ノエル、井戸側から回れ!! 俺が村人を引く!! リシア、魔物の目を食料庫じゃなく、柵の外へずらせるか!!」
「今さら!? あんたたち、ほんと無茶苦茶!!」
リシアは泣きそうなほど怒った顔で、食料庫の裏を睨んだ。
「ずらすだけだからね!! 倒せると思わないでよ!! レクス!! そこに立ってるなら、せめて倒れないで!!」
「……分かった!!」
レクスは荒い息のまま頷いた。
「三秒だけ、立つ!!」
「三秒じゃ足りないんだよ!! でも立ってろ!!」
ユリウスは村人の腕を掴み、無理やり井戸側から引き離した。
「そっちじゃない!! 食料庫の裏は詰まってる!! 家畜小屋の横へ行け!! 子どもを先に!! 鍬は捨てろ!! 持ったまま走るな!!」
村の若者が転びかける。
ユリウスは肩で支え、歯を食いしばった。
「助けたいなら動け!! そこにいたら、助ける人間の足を止めるだけだ!!」
ノエルは走った。
普段の彼女なら、最短で無駄なく動く。けれど今は違った。治療鞄が揺れ、髪が頬にかかり、足元の泥が跳ねる。
それでもノエルは若者の横を抜け、倒れた老婆の腕を確認した。
「骨折はありません! 立てますか!? 無理なら引きます!!」
「狼の耳の子が……あの子が……!」
「今はあなたが先です!!」
ノエルの声は強かった。
それでも、目は何度もレクスへ向いていた。
レクスの血が見えている。
でも、まだそちらへ走れない。
先に若者を動かさなければ、次の突進で二人とも潰れる。
「ユリウス!! 若者を右へ!!」
「やってる!!」
「リシア、三秒だけ視線を外してください!!」
「もうやってる!! あんたも早くして!!」
「レクス、倒れないでください!! まだ、そこにいてください!!」
ノエルの声は、もう冷静ではなかった。
それでも指示は正確だった。
リシアの幻惑が揺れる。
裂牙猪型魔物の目が、食料庫から柵の外へ流れた。そこに何かがいるように、鼻先が逸れる。灰牙鼠型魔物の一体がそちらへ跳ね、裂牙猪型魔物の突進角度も半歩ずれた。
レクスはその半歩を逃さなかった。
脇腹の痛みで視界が滲む。
それでも、剣を握った。
「今だ!!」
レクスは裂牙猪型魔物の前脚へ刃を入れた。
深くない。
倒しきる一撃ではない。
けれど、膝を崩すには十分だった。
裂牙猪型魔物の体勢が崩れ、灰牙鼠型魔物が逃げ惑う。
ユリウスが鍬を拾い、村の若者へ投げた。
「突け!! 足元だ!! 怖いなら目じゃなく足を見ろ!!」
「う、うわああああ!!」
若者が震えながら鍬を突き出す。
リシアの幻惑で視線を外された灰牙鼠型魔物が、鍬の柄にぶつかって転んだ。レクスは残った力で一歩踏み込み、裂牙猪型魔物の首筋へ刃を入れる。
裂牙猪型魔物が倒れた。
大きな音が、食料庫の裏手に響く。
残った灰牙鼠型魔物は、柵の外へ逃げていった。
戦闘は終わった。
だが、誰も勝ったとは言わなかった。
レクスが、膝をついたからだ。
「……止めた、ぞ」
そう言った直後、レクスの身体が前へ傾いた。
「レクス!!」
ノエルが走った。
治療鞄の留め具が激しく鳴る。髪が乱れ、膝をついた時に泥が跳ねた。いつものように距離を測る余裕も、声を整える余裕もなかった。
レクスは立とうとする。
「まだ……食料庫の裏を見ないと……」
「動かないでください。傷が深いです。今動けば、出血が――」
「でも、まだ村の方に……」
「動かないでって言ってるでしょ……!!」
ノエルの声が、震えた。
レクスは止まった。
「ノエル……?」
ノエルはレクスの脇腹に手を当てた。治癒の光が灯る。けれど、その指先は震えていた。唇は白く、目元には今にもこぼれそうなものがある。
怒っていた。
でも、怒鳴っているのに泣きそうだった。
「なんで分からないの……!」
ノエルは治療の光を絶やさないまま、レクスを睨んだ。
「治せるからって、何回でも壊れに行かないでよ……!」
レクスは息を止めた。
「私、あなたを治す道具じゃない……! でも、あなたも壊れていい道具じゃないんだよ……!!」
ノエルの声が崩れていく。
「お願いだから、今は寝ててよ……! 立たないでよ……! 動かないでよ……! お願いだから、これ以上傷を開かないでよ……!!」
「……悪い。俺、またノエルを減らしたのか」
「違うよ……!!」
ノエルの顔が歪んだ。
「そういう言い方しないでよ……! 減ったとか、使ったとか、そういう話じゃないんだよ……!!」
治療の光が揺れる。
ノエルは涙をこぼさないように、必死に息を整えようとしていた。けれど、声はもう戻らなかった。
「心配したの……!! レクスが倒れるの、嫌だったの……!!」
レクスは何も言えなかった。
山では、怪我は当たり前だった。血が出ても、骨が痛んでも、立てるなら立つ。ガレンもそうだった。レクスもそうするべきだと思っていた。
でも、ノエルは違った。
「……俺が倒れると、嫌なのか?」
「当たり前じゃない!! 嫌に決まってるでしょ……!!」
ノエルは怒ったように言い、すぐに唇を噛んだ。
ユリウスが近づいてきた。
顔は真っ赤で、声は震えていた。
「レクス、お前さ……!!」
彼は拳を握った。
「お前が前に出るのは分かる!! 食料庫を守りたかったのも分かる!! 村人を死なせたくなかったのも分かる!! でもな!!」
ユリウスの声が大きくなる。
「お前がそこに立ったせいで、ノエルが入れなかった!! 俺は村人を逃がせなかった!! リシアはずらす先を失った!!」
レクスは目を伏せた。
言い返せない。
「お前が倒れたら、前が空くんじゃない!! 全部が崩れるんだよ!!」
リシアも歩いてきた。
狐耳は震えていた。顔は怒っている。けれど、その奥に怖さがあった。
「助けたいって顔で、みんなの逃げ道を塞ぐの、やめなさいよ……!」
リシアの声は低かった。
「あんたが前に出たせいで、私の幻の逃げ先がなくなった!! また誰かを変な場所へ走らせるのかと思ったじゃない!!」
レクスはリシアを見た。
リシアは顔を逸らした。
「そういうの、ほんともう嫌なの……!!」
それは、皮肉ではなかった。
リシアの過去から出た、本気の怒りだった。
「……死なれるのも、後味悪いのよ!」
ユリウスが、かすれた声で言った。
「そこは素直に心配したって言えよ……!」
「うるさい!! 今そういう話じゃない!!」
村人たちは、黙って見ていた。
さっきまで「狼の血」と言っていた男も、鍬を握った若者も、食料庫の老婆も、子どもを抱いた母親も。
誰もすぐには近づかない。
でも、目が揺れていた。
「あの子……俺たちを庇って……」
若者が震えた声で言った。
子どもが、母親の袖を握って小さく聞く。
「あの耳の人、痛いの?」
母親は答えられなかった。
レクスはノエルの治療を受けながら、荒い息を吐いた。
「俺……助けに行ったつもりだったんだ」
ノエルは何も言わず、治療を続けた。
「でも、俺がそこに立ったせいで、ノエルが入れなかった。ユリウスが村人を逃がせなかった。リシアがずらす場所もなくなった」
リシアは黙っている。
ユリウスも黙っている。
レクスは、包帯が当てられた脇腹へ視線を落とした。
「俺が届いたせいで、みんなが動けなくなった」
ユリウスが、少しだけ声を落とした。
「……気づいたなら、次は変えられる」
ノエルは涙を拭かなかった。
ただ、治療を続けながら言った。
「次の前に、まず今は動かないで」
「……分かったぞ」
「本当に?」
「本当だぞ。ノエルが怖い」
ノエルの手が一瞬だけ止まった。
それから、少しだけ目を伏せる。
「……怖くしてるのは、あなたです」
レクスは、何も言い返せなかった。
その日の午後、レクスは村の空き家に寝かされた。
脇腹には包帯が巻かれ、肩にも布が当てられている。ノエルはすぐ隣で薬を確認し、ユリウスは村の見取り図を握り直していた。リシアは扉の近くに立ち、外と中の両方を見ている。
外では、村人たちが食料庫の柵を直していた。
まだ距離はある。
まだ名前では呼ばれない。
それでも、さっきまでとは少し違う沈黙があった。
レクスは、初めて前に出られないまま村を見た。
食料庫へ向かう村人。
怯えながら水を運ぶ子ども。
柵を直す若者。
その全部が、自分の足では届かない場所にあった。
だからこそ、分かった。
走れば守れると思っていた。
でも、走った先が、誰かの道を塞ぐこともある。
レクスは包帯の巻かれた脇腹に手を置いた。
「……次は、みんなが動ける場所を残すぞ」
ノエルが、すぐ隣で小さく息を吐いた。
「まずは、動かないでください」
「……分かったぞ」
その返事を聞いて、ノエルはようやく少しだけ目を伏せた。




