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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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第18話 名前で呼ばれない村

 グレナ村の朝は、薄い霧の中から始まった。


 鶏の声が低い屋根の間を抜け、井戸の滑車が軋む。家畜小屋の方では羊に似た家畜が鳴き、眠そうな若者が柵の板を打ち直していた。


 食料庫の前では、昨日の老婆が厚い扉に手を当て、鍵が外れていないかを確かめている。


 村は動いていた。


 けれど、どこか肩に力が入っていた。


 朝の空気の中に、笑い声は少ない。誰もが食料庫を一度は見て、柵を見て、山の方を見る。


 そこから何かが来るかもしれない。誰も口にはしないのに、視線だけが何度も山へ戻った。


 レクスは夜明け前から村の外周を歩いていた。


 柵の外側にしゃがみ込み、湿った土に残る小さな爪跡を見ている。耳は山側へ向き、鼻は風を拾っていた。


「夜の間に二匹来てるぞ。小さいやつだ。柵の外で止まってる」


 後ろから眠そうな足音が近づく。ユリウスは地図と村の見取り図を抱え、目元をこすりながら顔をしかめた。


「朝一番の挨拶が魔物の足跡なの、山育ちすぎるだろ!! 普通はおはようからだ!」


 レクスは振り返った。


「おはよう。二匹来てるぞ」


「順番を直しただけで内容が怖い!!」


 ノエルは治療鞄の紐を確かめながら、静かに言った。


「内容としては重要です。ユリウスの挨拶評価より、足跡の方が優先順位は上です」


「朝から味方がいない!!」


 リシアは村の家壁に背を預け、腕を組んでいた。村人の視線が自分へ向くたび、狐耳が小さく動く。逃げ道を確認する目は、昨日の食卓よりずっと硬い。


「味方が欲しいなら、人間の村で狐と狼耳を連れて歩かない方がいいよ」


 ユリウスは言い返しかけて、口を閉じた。


「それを言われると何も返せないんだよな……!」


 レクスは土の跡を見たまま首を傾げた。


「でも、リシアもここにいないと困るぞ。匂いをずらせるやつがいないと、村の人が逃げる時間を作れない」


「……そういうの、真っ直ぐ言わないで」


「真っ直ぐじゃない言い方が分からないぞ」


「でしょうね」


 リシアは皮肉っぽく返したが、声は少しだけ弱かった。


 村人たちは、まだ遠巻きに四人を見ていた。


 井戸のそばで水を汲んでいた母親が、子どもの肩を慌てて引いた。子どもはレクスをじっと見て、無邪気に言う。


「あの耳の人、昨日の人?」


「見ちゃだめ。近づかないで」


 母親の声は小さかった。


 だが、レクスには聞こえた。


 レクスは一瞬だけ足を止める。何もしていない。剣も抜いていない。魔物を追っているわけでもない。ただ、柵の外側を見ていただけだ。


「……俺、まだ何もしてないぞ」


 リシアが横から言った。


「何もしなくても、耳があるだけで十分なんでしょ」


 レクスは自分の耳に触れようとして、途中で手を下ろした。


「耳は取れないぞ」


「取れって言われるよりはマシでしょ」


 ユリウスが顔を歪める。


「リシア、朝から重い!! いや、軽く言ってるけど重い!!」


 ノエルは村人の視線を見て、少しだけ声を落とした。


「冗談に聞こえますが、本気で言っています」


 リシアは笑った。笑っているのに、目は笑っていなかった。


 ユリウスは何か言いたそうに唇を噛んだが、食料庫の扉が開く音に視線を移した。老婆が、昨日と同じ厳しい目でこちらを見ている。


「見るなら、今のうちに見なさい。昼にはまた閉める」


 食料庫の中は、昨日よりもはっきり見えた。


 穀物袋が壁沿いに積まれ、干し肉が縄で吊るされている。塩漬けの魚が樽に入り、根菜が土付きのまま籠に詰められていた。


 家畜用の餌、薪、乾燥薬草、種籾。


 壁には、冬の間にどれだけ配るかを刻んだ木札が掛かっている。


 レクスは目を輝かせた。


「すごいな……肉もある。根っこもある。干した魚もあるぞ。塩も多い。これだけあれば、しばらく食える」


 ユリウスがすぐに手を伸ばして止める。


「食料庫を見て目を輝かせるのは分かるけど、勝手に食うなよ!!」


「食わないぞ。これは村の冬の分だろ」


 ユリウスは少し驚いた顔をした。


「……ちゃんと分かってるんだな」


「分かるぞ。父ちゃんが言ってた。冬前の食い物は命そのものだ。食ったら腹が膨れるだけじゃない。明日も生きられる」


 老婆がレクスを見た。


 まだ警戒は消えていない。けれど、昨日より少しだけ目が違った。


「……山の子でも、それは分かるのかい」


「山の子だから分かるぞ。山で食い物がなくなったら、強いやつでも動けなくなる。動けなくなったら、次に来た魔物に食われる」


 ユリウスが苦笑する。


「説明がいちいち命がけなんだよな」


 ノエルは食料庫の中を見回し、表情を引き締めた。


「備蓄は十分に見えますが、ここを失えば村全体が持ちません。食料庫周辺の防御と、避難路の確認が必要です」


 その時、食料庫の外から男の声がした。


「分かるからって、信用できるわけじゃない!」


 レクスが振り返る。


 柵を直していた中年の男だった。手には木槌を持っている。表情は険しい。だが、怒りだけではなく、怯えが混じっていた。


「狼の血があるんだろ。いつ牙を向くか分からん!」


 リシアの狐耳がぴくりと動いた。


「便利だね。助けが欲しい時はヴァルクハイン家の人間で、怖い時は狼の血なんだ」


「リシア……!」


 ユリウスが止めようとしたが、リシアは引かなかった。


「何? 間違ってる?」


 男は目を逸らさない。けれど、木槌を握る手に力が入っていた。


「俺は、子どもを守りたいだけだ! あんたらが悪くないとしても、怖いものは怖い!」


 リシアの口元から笑みが消えた。


 ノエルが静かに割って入る。


「その恐怖を否定しても、今は解決しません。ただ、その恐怖を理由に協力できなければ、魔物への対応が遅れます」


「最初から望めないでしょ。協力なんて」


 リシアは吐き捨てるように言った。


 ユリウスは拳を握った。


「それでも、直せるところから直さなきゃいけないんだよ……! 村を守るには、村の人にも動いてもらう必要がある。俺たちだけで全部は見られない。レクスが前に出て、ノエルが治療して、リシアがずらしても、村人が逃げ道を知らなかったら誰かが死ぬ!」


 声が大きくなった。


 ユリウス自身も驚いたように、一度息を吸う。


「……だから、嫌われたままでも話さなきゃいけないんだ」


 リシアは横目でユリウスを見た。


「貴族の子にしては、ずいぶん必死ね」


「必死にもなるだろ! 俺だって、これ以上“見てたのに間に合わなかった”は増やしたくないんだよ!」


 その言葉に、レクスは少しだけユリウスを見た。


 村ではすでに、小さな怪我人が出ていた。


 柵の補修中に腕を切った若者。魔物の影に驚いて転んだ子ども。家畜を引こうとして足を捻った老人。命に関わる傷ではない。けれど、村全体が張り詰めているせいで、誰もが大きな不安を抱えている。


 ノエルは井戸の近くに布を敷き、治療を始めた。


「出血は止めます。歩ける状態にします。全快はできません。今必要なのは、命に関わる傷と、移動できない傷を優先することです」


 腕を切った若者が顔をしかめる。


「治癒魔法師なんだろ!? 痛みも消してくれよ!!」


 別の母親が子どもを抱えながら、涙目で訴える。


「子どもなんです……ちゃんと治してやってください。怖がって眠れもしないんです!」


 ノエルの手が止まらない。


 声も冷静だった。


「痛みを完全に消す治療は魔力を多く使います。全員を完全に治せるほどの魔力はありません。今は村全体の危険に備える必要があります」


「じゃあ何のための治癒魔法なんだよ!!」


 空気が凍った。


 レクスの眉が吊り上がる。


 だが、その前にユリウスが一歩前に出た。


「ノエルは便利な道具じゃない!!」


 広場に声が響いた。


 ユリウスは自分でも驚いたように息を吸った。けれど、引かなかった。


「今は村全体を守るために、魔力を残す必要がある!! 目の前の痛みだけを全部消したら、次に本当に死にかけた人を助けられないかもしれないんだ!」


 ノエルの指が一瞬だけ止まった。


 リシアが低く呟く。


「貴族の子が、治癒役を道具じゃないって言うんだ」


 ユリウスは振り返らない。


「言うよ!! 言わなきゃ、俺がここにいる意味ないだろ!!」


 ノエルは何も言わず、治療を続けた。


 けれど、レクスは見ていた。治療鞄の紐を握る指に力が入っている。呼吸が少し浅い。顔色も、朝より白い。


「ノエル、減ってるぞ」


「問題ありません」


「問題ない手は震えないぞ」


 ノエルはほんの一瞬だけ、レクスを見た。


 それから視線を戻す。


「……今は、村人の確認が先です」


 声は冷静だった。


 でも、完全な壁ではなかった。


 リシアへの視線も、村では刺さり続けた。


 子どもが母親の服を掴み、リシアを見ながら小さく聞く。


「あの狐の人、嘘を見せるの?」


 母親が慌てて子どもを抱き寄せる。


「見ちゃだめ。騙されるよ」


 リシアは笑った。


 その笑い方は綺麗だった。だから余計に痛かった。


「そうだよ。狐は嘘を見せる。だから近づかない方がいいよ」


 レクスは眉を寄せる。


「リシア、そういう言い方するな」


「じゃあ何て言うの? 嘘じゃないって? 幻じゃないって? 私の力は綺麗な守りの力ですって?」


 レクスは言葉に詰まった。


 リシアの声が少し震えた。


「嘘は嘘だよ……使い方を変えても、臭いは残る」


 レクスは、南街道旧道で見たリシアを思い出した。壊れた檻の中で、他の獣人奴隷を守るために、必死に匂いと視線をずらしていた姿を。


「でも、前にリシアがずらしたから助かったんだぞ」


 リシアの目が揺れた。


 すぐに、皮肉で塗りつぶす。


「助かった人がいても、私が嘘を見せたことは変わらないでしょ」


 ユリウスもノエルも、何も言えなかった。


 村人は、レクスたちから距離を取っていた。


 それでも、村の朝は止まらなかった。


 子どもが食料庫の前で薄いパンを受け取っている。老婆が穀物袋の数を確認している。若者が壊れた柵を直し、家畜を守るために眠れなかった男が大きなあくびをしている。


 それでも、食料庫を見つめる目は本気だった。


 レクスは村の広場の端で、しばらく黙っていた。


「ユリウス。俺、よく分からないぞ」


「何がだ?」


「あの人たちは俺たちを怖がる。でも、魔物も怖がってる。食い物も守りたい。子どもも守りたい」


「そうだな」


「じゃあ、やっぱり守らないと駄目だぞ」


 ユリウスは少し笑った。


「そこに行くのが、お前らしいな」


 リシアが腕を組んだまま言う。


「怖がられても?」


 レクスは頷いた。


「怖がられても、魔物は来るぞ」


 リシアは言葉を返さなかった。


 ユリウスは村の見取り図を地面に広げていた。


 食料庫。井戸。家畜小屋。避難できそうな広場。柵の弱い場所。ノエルが治療に入れる場所。リシアが幻惑(げんわく)を使うなら、見える位置が必要だ。レクスが前に出た時に戻れる道。


 彼は木炭で線を引きながら、ぶつぶつ言っている。


「レクスが前に出るなら、ノエルまでの道は空けておきたい。リシアが幻惑を使うなら、見える位置が必要だ。村人は井戸の裏へ……いや、そこは食料庫から遠すぎるな。家畜小屋を捨てる判断も必要か……」


 レクスが覗き込む。


「ユリウス、何をそんなに書いてるんだ?」


「お前が突っ込んだ後に、俺たちが置いていかれないための地図だ!!」


「俺、置いていくのか?」


 リシアが即答した。


「置いていきそうな顔してるよ」


 ノエルも淡々と続ける。


「過去の行動から見ても、否定は難しいです」


「そうなのか!?」


 ユリウスが頭を抱えた。


「そこで驚くのが一番怖い!! 頼むから自覚してくれ! お前の足は速い! 判断も速い! でも俺たちはその後ろで普通に置いていかれてるんだよ!」


 レクスは真剣に考え込む。


「じゃあ、ゆっくり走ればいいのか?」


「そういう単純な話じゃない!」


 その時だった。


 村の外から、見張りの叫びが上がった。


「柵の外に魔物だ!!」


 村が一気にざわめいた。


 水桶が倒れ、子どもが泣き、若者が鍬を掴む。老婆は食料庫の鍵を両手で握りしめた。ノエルは治療鞄を取る。リシアは一歩下がり、耳を山側へ向けた。


 続けて、別の見張りが叫ぶ。


「食料庫の裏手だ!! 小さいのが三体!! いや、一体大きいのがいる!!」


 レクスの顔が変わった。


「食料庫の裏か!!」


 ユリウスが地図を掴んで叫ぶ。


「待て、レクス!! 先に位置を見る!!」


 だが、村人の一人――若い男が鍬を持って食料庫へ走り出した。


「俺が行く! あそこをやられたら終わりだ!」


「待て!! そっちは――!」


 レクスの声より先に、若者の足が動いた。


 食料庫の裏手で、木の柵が嫌な音を立てた。板が軋み、何か重いものがぶつかる。村人の悲鳴が上がり、子どもの泣き声が重なる。


 レクスの胸が熱くなった。


 食料庫。


 冬の命。


 さっきパンを受け取っていた子どもの顔。


 名前ではなく耳を見た村人たち。


 それでも、失えば死ぬ場所。


「俺が絶対止める!!」


 レクスが地面を蹴ろうとした瞬間、ユリウスの声が飛んだ。


「レクス!! 前だけ見るな!!」


 けれど、レクスの視線はもう、食料庫へ向かう魔物だけを捉えていた。


 ユリウスが歯を食いしばり、地図を握り潰す。


「くそっ……! だから、それが一番怖いんだよ!!」


 レクスは走った。


 誰もまだレクスの名を呼ばない村で、命が詰まった小屋へ向かって。

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