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英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
第1章 山から来た子

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第17話 名前ではなく血

 グラントの執務室には、朝から重い空気が落ちていた。


 机の上には、南街道の旧道で回収されたものが並んでいる。


 黒い粉の付いた木片。粗悪な封印箱の破片。黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまものの足跡を写した粘土板。そして、作業小屋周辺の地図。


 窓から入る光は明るいのに、机の上の黒い粉だけが、影を吸っているように見えた。


 レクスは腕を組んで、その黒い粉を睨んでいた。


 鼻の奥に、あの嫌な匂いが残っている。


 黒角熊型魔物くろづのくまがたまもの


 黒牙鹿型魔物くろきばしかがたまもの


 黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまもの


 どれを思い出しても、鼻の奥に同じ冷たさが残った。


 グラントは、低い声で言った。


「作業小屋の裂牙猪型魔物れつがいのししがたまものは、黒爪猩型魔物から逃げてきた側だな」


 ユリウスは報告板を抱え直し、いつもの軽さを少し押し殺して頷いた。


「はい。背中に黒い爪跡がありました。爪幅も、馬車で見た黒爪猩型魔物のものと近いです。レクスも同じだと断言しています」


「同じだぞ」


 レクスはすぐに言った。


 あの傷を思い出すだけで、胸の奥がざわついた。


 逃げてきた魔物の背中に残っていた、深い黒い裂け目。そこから、作業小屋や村へ向かって魔物が流れている。


「あいつに追われたやつは、道を選んで逃げてない。木も、柵も、人の場所も見てない。ただ、怖い方から離れようとしてた」


 ノエルは机の地図へ視線を落とした。治療鞄の紐に指を添えたまま、静かに言う。


「逃げた魔物が作業場まで流れているなら、生活圏に入っています。次に被害が出る場所は、作業小屋だけでは済みません」


 リシアは壁際に立っていた。


 椅子には座らない。背中を壁につけ、部屋の出入り口を視界に入れている。狐耳は少し伏せていて、言葉だけが皮肉に尖っていた。


「魔物が逃げて、逃げた先に人間がいる。最悪ね。逃げる方も、待ってる方も、何も選んでない」


 グラントは地図の一点に指を置いた。


「痕跡の先に、グレナ村がある」


 部屋の空気が一段重くなった。


 ユリウスが地図を覗き込む。眉間にしわが寄った。


「グレナ村……食料庫と家畜小屋がある村ですね。冬越しの備蓄を集める場所です。あそこに魔物が流れたら、被害は人だけじゃ済みません」


「村へ行け」


 グラントは短く命じた。


「痕跡を追い、被害を見ろ。黒爪猩型魔物を見つけても討伐するな。今のお前たちの役目は、村がどれだけ危ないかを知ることだ。村が危険なら、滞在して備えろ」


 レクスは眉を寄せた。


「村の人は、俺たちを歓迎するのか?」


 グラントは即答しなかった。


 答えは、すぐに返ってこなかった。それだけで十分だった。


 リシアが小さく鼻で笑う。


「歓迎されると思ってたの? 狼の耳と狐の耳を並べて村へ行けば、出迎えの肉でも焼いてもらえるって?」


 レクスは一瞬だけ目を輝かせた。


「肉は出るのか?」


「そこじゃない!!」


 ユリウスがすぐに突っ込んだが、声にはいつもの軽さが少し足りなかった。


 グラントはレクスをまっすぐ見た。


「村人が歓迎するとは思うな。だが、村が危ないなら、守る形を作れ」


「歓迎しないのに、守るのか?」


 レクスは思ったことをそのまま口にした。


 怒っているわけではない。分からなかった。


 助けたあとに耳を見られる。


 礼を言われても名前では呼ばれない。


 怖がられる。


 遠ざけられる。


 守りたくないわけじゃない。けれど、胸の奥に引っかかるものがあった。


 グラントの声は低かった。


「守る相手が礼を言うとは限らん。だが、死なせていい理由にはならん」


 レクスは息を止めた。


 リシアは顔を背けた。ユリウスは何か言いかけて、口を閉じた。ノエルだけが、静かにその言葉を受け止めるように目を伏せた。


「……分かったぞ」


 レクスは短く言った。


「礼を言うかは、後だな。死んだら、礼も文句も言えない」


「そうだ」


 グラントは頷いた。


「行け」


 山外縁部に入ると、レクスの顔つきが変わった。


 屋敷で食べ物に目を輝かせていた少年でも、街で礼儀に首を傾げていた少年でもない。足音が消え、視線が低くなり、土、草、木の傷、風の向き、鳥の声を拾っていく。


 歩く速度は速くない。


 けれど、迷いがなかった。


 ユリウスは地図と報告板を抱えながら、必死についていく。


「毎回思うんだけどさ、山に入った途端に別人になるの、ずるくないか? 昨日まで肉の焦げ方で騒いでたやつと同一人物とは思えないんだが!」


 レクスはしゃがみ、土に指を入れたまま答えた。


「肉は逃げない。でも魔物は逃げるし、来るぞ」


「料理も冷めるから広い意味では逃げるぞ!」


「冷めた肉も食える」


「そこは譲らないのかよ!」


 ノエルは少し後ろで記録を取りながら、淡々と言った。


「ユリウス、声量を落としてください。山では、あなたの感想より周囲の音の方が重要です」


「ノエル、俺の存在を感想扱いするのやめてくれないか!?」


 リシアが木の根を避けながら、小さく笑う。


「うるさい人間がいると、魔物にも村人にも見つかるよ」


「リシアまで!? 初任務からずっと俺への評価が低い!」


 レクスは土を見たまま言った。


「でもユリウスは、人の間に入るのがうまいぞ。俺は村の決まりは分からない。どこで話せば怒られないかも分からない」


 ユリウスが一瞬黙った。


 そして、少しだけ照れくさそうに咳払いする。


「……そう言われると、怒りづらいな。いや、褒められたんだよな? 今のは褒めたよな?」


「評価です」


 ノエルが即座に言った。


「ノエル! それは俺がレクスに言う流れだった!」


 レクスは指についた土の匂いを嗅いだ。


 笑いが、すぐに消える。


「ここだぞ」


 四人の空気が変わった。


 木の幹に、深い爪跡が残っていた。普通の獣の爪ではない。幹の表面だけでなく、中の白い木肌まで裂け、裂け目の端には黒い粉のようなものが薄く付着している。


 周囲の土には、いくつもの足跡が乱れていた。


 狼型魔物の細い足跡。


 猪型魔物の深い蹄跡。


 小さな爪を持つ魔物の軽い跡。


 それらが、同じ方向へ逃げている。


 レクスはしゃがみ、土の削れ方を指でなぞった。


「こっちは逃げてる。足跡が浅い。でも爪先だけ深い。振り返りながら走ってるぞ」


 ユリウスは地面を覗き込み、心底困った顔をした。


「足跡で振り返ってたかどうかまで分かるのか!? 俺には地面が荒れてるようにしか見えないんだが!」


「爪が横に引っかかってる。前だけ見て走ってたら、こうはならないぞ」


「なるほど……分からん!」


「ユリウス、あなたの感想は記録価値が低いです」


「ノエル、俺の存在価値ごと削るのはやめてくれ!」


 リシアは木の傷へ近づき、鼻先を少し動かした。すぐに顔をしかめる。


「……嫌なにおい。あの馬車の時と同じ。黒い欠片を食ったあいつのにおいが、まだ木に残ってる」


 レクスは頷いた。


「黒爪猩型魔物が村へ真っ直ぐ行ったんじゃない。でも、逃げた魔物がこっちへ流れてる。この足跡、三つとも違う魔物だぞ。狼型、猪型、小さい爪のやつ。全部、村の方へ逃げてる」


 ノエルは地図へ視線を落とす。


「逃げた魔物が食料の匂いに寄れば、村の被害になります。家畜小屋、食料庫、畑。狙っていなくても、結果として襲撃になります」


 その足跡を見た瞬間、レクスの脳裏に古い声がよみがえった。


 まだ幼かった頃、山の奥で、骨だけになった小型魔物を見つけたことがある。レクスは真っ先に、骨の周りの肉が残っていないかを見て、ガレンに笑われた。


『父ちゃん、これ食われてるぞ。こいつを食った魔物を追えばいいのか?』


『ガハハ! 食うことだけは一人前だな、レクス! でも今日はそこじゃねえ。食った奴だけ見るな。逃げた奴も見ろ』


『逃げた奴?』


『追われてる奴は道を選ばねえ。腹が減ってなくても村へ行く。水が飲みたくなくても川へ落ちる。怖え奴から逃げる時、魔物も人間も、正しい道なんか選べねえんだ』


 冷たい風が、レクスの頬を撫でた。


 レクスは土に残った乱れた足跡を見つめる。


「……父ちゃんが言ってた。追われてるやつは、道を選ばない」


 ユリウスの顔が引き締まる。


「じゃあ、この魔物たちは村を狙ったわけじゃない。でも、逃げた先に村がある」


「そうだぞ」


 レクスは立ち上がった。


「こいつら、村を狙ってるんじゃない。でも、逃げた先に村がある。だったら、村から見れば同じだ。魔物が来る!」


 リシアは山奥を見た。


 狐耳が小さく伏せる。


「逃げた先に誰かがいるなんて、逃げてる方は考えない。……考える余裕なんて、ないものね」


 ノエルはリシアをちらりと見たが、何も言わなかった。


 その沈黙が、少しだけ優しかった。


 四人は村へ向かった。


 道は次第に緩やかになり、木々の間から畑が見え始める。畑の端は荒れていた。柵は新しい木で雑に補修され、家畜の足跡が泥の中で乱れている。小さな石碑が道端にあり、その横には古い墓がいくつも並んでいた。


 リシアが足を止める。


「見られてる」


 レクスもすぐに気づいた。


 畑の向こう。小屋の陰。柵の隙間。複数の視線がある。狩る目ではない。けれど、近づいてほしくない目だった。


「俺も分かるぞ。狩る目じゃない。でも怖がってる」


 リシアは口元だけで笑った。


「それ、慣れると嫌な見分け方ができるようになるよ」


 ユリウスが苦い顔をする。


「慣れなくていいやつだな、それは」


 村の入口には、数人の男たちが立っていた。


 鍬や木槍を持っている。武器と呼ぶには頼りないが、何も持たずにいられなかったのだろう。


 ユリウスが一歩前へ出た。背筋を伸ばし、報告板を脇に抱える。


「ヴァルクハイン家から来ました! 黒爪猩型魔物の痕跡を追っています! 村周辺に魔物被害が出ていないか確認させてください!」


 村人たちは、ヴァルクハイン家の名に一瞬だけ安堵した。


 しかし、その安堵はすぐに強張りへ変わった。


 彼らの視線が、リシアへ向く。


 狐耳。


 次に、レクスへ向く。


 狼の耳。


 誰かが息を呑んだ。


「狐を村に入れるな」


 低い声だった。


 別の男が、レクスを指差しかけて、途中で手を下ろした。


「狼の耳の子もいるぞ」


「子どもを近づけるな」


「ヴァルクハイン様は、こんなものを連れてきたのか……」


 レクスは固まった。


 名前より先に、耳を見られた。


 顔より先に、血を見られた。


 リシアが薄く笑った。


「ほらね。名乗る前に、耳を見る」


 レクスは自分の耳に触れかけた。


「……俺、まだ名前言ってないぞ」


 その声は、思っていたより小さかった。


 ユリウスが前へ出る。


「待ってください! 彼らは今回の調査に必要な同行者です! 実際に黒爪猩型魔物の痕跡を追い、作業小屋でも負傷者を助けています。耳だけで判断しないでください!」


 村人の一人、年老いた男が唇を噛んだ。


 怒っているというより、怯えている顔だった。


「悪いとは思ってる。でも、うちの息子は獣人戦争から帰ってこなかった。狐だろうが狼だろうが、耳を見ると、どうしても思い出すんだ。怖がるなと言われても、無理なんだよ」


 ユリウスは言葉に詰まった。


 リシアの目が冷える。


「守りたいものがあるなら、誰かを外に置いていいってことね」


 村人が顔を歪める。


「こっちは村を守りたいだけだ!」


 ノエルが静かに言った。


「恐怖があることと、相手を傷つけていいことは別です。ただ、恐怖が簡単に消えないことも事実です」


 その言い方は冷たく聞こえるほど正確だった。


 レクスは何も言えなかった。村の奥に、子どもがいた。家の陰からこちらを見て、すぐに母親に引っ込められる。


 胸がちくりと痛む。


 でも怒りきれなかった。


 この村人たちも、何かを失っている。何かを怖がっている。怖がっているから、レクスとリシアを見ている。そう分かってしまったから、怒鳴る言葉が喉の奥で止まった。


 ユリウスは深く息を吸った。


「村周辺の確認だけでもさせてください。魔物の流れは、もう生活圏に入っています。あなたたちが僕たちを嫌でも構いません。でも、魔物は嫌いだから避ける、なんてことはしてくれません」


 村人たちは顔を見合わせた。


 やがて、老婆が前へ出た。背は曲がっているが、目は強い。彼女はレクスとリシアを見て、怖さを隠せないまま、それでも村の中央を指差した。


「……食料庫を見なさい。あれがやられたら、この村は終わりだ」


 村の中央に、厚い木の扉を持つ大きな倉があった。


 鍵が二つ。扉には古い補修跡がいくつもある。中には袋詰めの穀物、干し肉、塩漬け、薪、家畜用の餌が積まれていた。


 土と穀物と塩の匂いがする。


 レクスはその匂いを吸い込んで、目を見開いた。


 これはただの食べ物ではない。


 冬まで生きるための匂いだ。


 老婆は扉の前に立った。


「この中身がなくなったら、雪が降る前に村を捨てるしかない。人が食われなくても、食い物を奪われれば村は死ぬ」


 レクスの中で、ガレンの声が響いた。


 食える殺し方をしろ。


 肉を無駄にするな。


 食い物を粗末にする奴から死ぬ。


 レクスは食料庫の扉へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。勝手に触れてはいけない気がした。これは村の命だ。自分のものではない。


「この小屋は、村の命なんだな」


 老婆が驚いた顔でレクスを見た。


「……分かるのか」


「分かるぞ。食い物がなくなるってことは、雪が降った日に死ぬってことだ」


 村人たちの空気が、ほんの少しだけ変わった。


 リシアは食料庫を見つめていた。狐耳が伏せ、口元には皮肉が浮かんでいる。けれど、目はどこか遠い。


「いいね。守る小屋がある人たちは」


 レクスは振り返った。


「リシアにはなかったのか?」


 リシアは笑った。


 けれど、笑えていなかった。


「あったら、ここにいないでしょ」


 空気が重くなる。


 ユリウスが何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。ノエルが静かに一歩前へ出る。


「食料庫が狙われるなら、人的被害だけでは済みません。防衛線の確認が必要です」


 その時、レクスは食料庫の裏手に残る小さな傷を見つけた。


 しゃがみ込む。


 防柵の外側に、細い爪跡がある。餌袋の匂いを追った小型魔物のものだ。さらに少し離れた土には、逃げてきた猪型魔物らしい足跡が浅く残っている。


 レクスの顔から迷いが消えた。


「もう来てるぞ」


 ユリウスがすぐ隣にしゃがむ。


「何が?」


「逃げてきたやつだ。食料庫の匂いを覚えてる。次に来るなら、ここだぞ」


 村人たちがざわついた。


 老婆の顔が青ざめる。年老いた男が木槍を握り直す。誰かが「まさか」と呟いた。


 村長らしき男が、硬い声で聞いた。


「では、どうすればいい」


 ユリウスはグラントの言葉を思い出すように、一度だけ目を伏せた。


「村に滞在します。防柵、食料庫、避難路を確認します。魔物が流れてくる前に、守る形を作ります」


 リシアが小さく笑った。


「入れるなって言った村に、泊まるんだ」


 村人たちの顔が強張る。


 レクスは彼らを見た。怖がっている。嫌がっている。自分の耳とリシアの耳を見ている。それでも、食料庫の裏には爪跡がある。


 魔物は、村人の気持ちを待たない。


「嫌なら、近づかない」


 レクスは言った。


「でも魔物は来るぞ」


 村人たちは、まだレクスの名前を聞いていない。


 狼の耳の子。


 山の子。


 ガレンの子。


 獣人混じり。


 そのどれかで見ていた。


 けれど、食料庫の前に残る爪跡は、名前を待ってくれない。魔物は、誰が怖いかなど考えない。ただ匂いを追い、腹を満たし、逃げ道を探して村へ来る。


 レクスは食料庫の扉を見た。


 その向こうには、冬まで生きるための命が詰まっている。


「ここは、守らないと死ぬ場所だぞ!!」


 誰も返事をしなかった。


 それでも、レクスはもう目を逸らせなかった。

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