第20話 前に出ない時間
レクスが目を覚ました時、最初に聞こえたのは木槌の音だった。
こん、こん、と乾いた音が、村の朝に混じっている。窓の外では、村人たちが食料庫の裏手の柵を直していた。昨日、魔物が押し込んだ板が外され、新しい木材が運び込まれている。遠くでは家畜の鳴き声と、子どもを叱る母親の声が重なっていた。
村は動いていた。
レクスが倒れていても、食料庫は守らなければならない。柵は直さなければならない。
水は汲まなければならない。食事も作らなければならない。
レクスは板敷きの床に寝かされていた。肩と脇腹には厚く包帯が巻かれている。少し呼吸を深くしただけで、脇腹の奥が鈍く痛んだ。
それでも、外の音を聞いた瞬間、体は勝手に起き上がろうとした。
「動かないでください」
部屋の隅で薬草を仕分けていたノエルが、振り返りもせずに言った。
レクスは片肘をついたまま止まる。
「まだ起き上がろうとしただけだぞ」
「起きるのも駄目です」
「歩いてないぞ」
「歩く前に止めています。あなたは止めないと、次に『少し見に行くだけだぞ』と言って外へ出ます」
「……言うかもしれない」
「認めたなら寝てください」
ノエルは治療鞄の紐を握り、ようやくこちらを見た。いつもの冷静な顔だった。けれど、目の下には薄く疲れが残っている。昨夜、レクスの傷を塞ぎ、村人の処置を終え、最後まで倒れなかった顔だった。
レクスはノエルを見て、少し首を傾げた。
「ノエル、昨日より声が怖くないぞ」
ノエルの指が、治療鞄の紐をぎゅっと締めた。
「必要なら怖くします」
「……寝てるぞ」
「最初からそうしてください」
レクスは素直に背中を板敷きへ戻した。包帯が擦れて、脇腹に痛みが走る。顔をしかめると、ノエルがすぐに近づいてきた。
「痛みますか」
「少しだぞ」
「少しの顔ではありません」
「山なら、これくらいは動く」
「ここは山ではありません。あなたの身体も、山の石ではありません。割れたら戻すのに手間がかかります」
ノエルはそう言いながら、包帯の端を確かめた。手つきは正確で、無駄がない。けれど、レクスが少し動くたびに目が鋭くなる。
レクスはしばらく黙っていたが、やがて思ったことをそのまま口にした。
「昨日のノエル、いつもと違ったぞ」
ノエルの手が止まった。
視線が、包帯から少し外れる。
「忘れてください」
「忘れないぞ。心配してくれた」
「……そういうところです」
「そういうところって何だ?」
「怪我人は質問を増やさないでください。今は呼吸を整えることに集中してください」
レクスは真剣に考えた。
「質問すると傷が開くのか?」
「私の精神的な傷が増えます」
レクスは目を見開いた。
「それは治せるのか?」
ノエルはほんの一瞬だけ固まった。
それから、ふいと目を逸らす。
「……あなたが寝ていれば、少しは治ります」
「じゃあ寝てるぞ」
「はい。そうしてください」
ノエルは淡々と答えた。けれど、耳の後ろが少しだけ赤くなっていた。レクスはそれを見たが、言うとまた精神的な傷が増えるかもしれないので黙っておいた。
窓の外では、村人たちが動き続けていた。
板を運ぶ若者。食料庫の鍵を何度も確かめる老婆。井戸から水を汲む母親。水桶を小さな手で支えようとして、母親に叱られている子ども。
レクスは寝たまま、その光景を見た。
昨日までは、魔物の匂いがしたら走った。足跡を見つけたら追った。前に出れば、何かが間に合うと思っていた。
けれど今は、走れない。
包帯が脇腹を締めつけ、起き上がるだけでノエルに止められる。その間にも、村人たちは食料庫へ向かい、柵を直し、水を運んでいる。
「……俺が前に出られなくても、みんな動いてるんだな」
ノエルが薬草を包みながら、静かに答えた。
「当然です。村は、あなた一人で動いているわけではありません」
「そうだな」
「昨日、それを忘れましたね」
ノエルの声は冷静だった。
でも、冷たくはなかった。
レクスは少しだけ息を吸った。脇腹が痛む。
「うん。忘れたぞ」
「素直に認めるところは評価します」
「褒めたのか?」
「評価です」
「最近、それは褒めてる時に使ってるぞ」
ノエルは無言で包帯を取り出した。
レクスはすぐに天井を見た。
「寝てるぞ」
「賢明です」
その時、空き家の扉の外で、足音が止まった。
ノエルが先に気づき、視線を向ける。レクスも鼻を動かした。村の粥の匂い。薄い塩気。根菜を煮た甘い匂い。それから、緊張した人間の汗の匂い。
扉が少しだけ開いた。
昨日、食料庫の前でレクスを避けていた若い村人が立っていた。手には木の椀を持っている。湯気が上がっていた。
「……これ、置いとく」
若者は部屋へ入らず、戸口に立ったままだった。
レクスは顔を上げる。
「俺にか?」
「婆さんが、血が出たやつは食った方がいいって。俺が作ったわけじゃない。運んだだけだ」
どこかで聞いたような、照れ隠しの言い訳だった。
レクスの目が輝く。
「食っていいのか!!」
若者がびくっと肩を跳ねさせた。
「声がでかい!! 怪我人だろ!」
「食えるなら元気出るぞ!」
「だからって叫ぶな!」
ノエルが椀を受け取り、中身を確かめる。
「急に食べすぎないでください。傷より先に胃が暴れます」
「胃も戦うのか?」
「あなたが毎回戦わせています」
若者は戸口で少しだけ口元を緩めた。すぐに隠すように顔を背ける。
「狼耳の……いや、あんた。寝てろよ。昨日みたいに飛び出されたら、こっちも困る」
レクスはその言い直しに気づいた。
「今、耳じゃなくなったぞ」
若者の顔が赤くなった。
「うるさい!! 粥食って寝てろ!!」
そう言って、逃げるように扉を閉めた。
レクスは扉を見つめたまま、少しだけ笑った。
「ノエル。今、少し変わったぞ」
「そうですね。ただし、名前ではありません」
「うん。でも耳だけでもなかったぞ」
ノエルは小さく息を吐いた。
「その程度で嬉しそうにできるのは、あなたの強みなのか弱点なのか、まだ判断に困ります」
「嬉しいのは悪いことじゃないぞ」
「……そうですね」
ノエルは粥の椀を手渡した。
「半分だけです」
「全部じゃないのか?」
「半分です」
「残りは?」
「時間を空けて食べます」
「粥にも食う順番があるのか」
「怪我人にはあります」
レクスは真剣に頷き、椀を受け取った。
粥を一口食べる。薄い塩味と根菜の甘さが口に広がった。山で食べた雑な煮込みとも、屋敷の料理とも違う。村の食べ物の味がした。
「うまいぞ!」
「静かに食べてください」
「うまいものは、うまいと言った方がいいぞ!」
「声量の問題です」
ノエルがそう言った時、また扉の外で足音が止まった。
今度は、もっと軽い足音だった。近づいて、止まり、離れようとして、また止まる。扉の向こうで、迷っている。
レクスは椀を持ったまま言った。
「リシア、そこにいるぞ」
扉の向こうで、気配が跳ねた。
「……見張りのついでよ」
声だけが返ってくる。
レクスは首を傾げた。
「見張りなら外だぞ」
「細かいこと気にする怪我人ね。寝てれば?」
「怪我人だから動けない。だから見えるぞ」
「何がよ?」
「リシアの狐耳が動いてる」
扉が勢いよく開いた。
リシアが立っていた。腕を組み、壁にもたれるような姿勢を作っているが、狐耳はぴんと立っている。尻尾は後ろに隠そうとしているが、先が少しだけ揺れていた。
「動いてない!」
「今止まったぞ」
「見ないで!!」
レクスは粥を持ったまま、真顔で頷いた。
「見えたぞ」
「見ないでって言ってるでしょ!!」
リシアは部屋に入ったが、レクスの近くまでは来なかった。壁際に立ち、窓と扉の両方が見える位置を選ぶ。いつでも逃げられる立ち方だった。
レクスは椀を置く。
「近くに来ないのか?」
「近くに行ったら、怪我が治るの?」
「治らないけど、話しやすいぞ」
「話しやすさを理由に距離を詰めるの、野生の罠みたいで嫌!」
「罠じゃないぞ!」
「でしょうね。あんたは罠を張る前に“罠じゃないぞ”って言いそうだし」
ノエルが薬草を仕分けながら、淡々と言った。
「否定しきれないのが困りますね」
「ノエルまでそう言うのか?」
「あなたは正直すぎます。罠には向いていません」
リシアは少しだけ肩の力を抜いた。だが、すぐに袖の下で手首の鎖跡を握る。
その仕草を、レクスは見逃さなかった。
「リシア、何か持ってるのか?」
リシアは一瞬だけ目を泳がせ、後ろに隠していた包みを差し出した。
「これ、置いてあったから持ってきただけ」
木の葉に包まれた、小さな焼き菓子のようなものだった。少し焦げた匂いがする。穀物を固めて焼いた、保存食に近いものだ。
レクスの目が輝く。
「リシアがくれるのか!」
「違う!! 置いてあったものを運んだだけ!!」
「運んでくれたなら、リシアがくれたんだろ?」
「なんでそうなるのよ!!」
レクスは包みを見て、鼻を近づける。
「うまそうだぞ」
「食べる前から分かるの?」
「焦げがいい匂いだ。あと、腹が減ってる」
「怪我しても食欲だけは無傷なのね」
「食えない怪我は危ないぞ」
リシアは少しだけ黙った。
レクスは包みから一つ取り、半分に割った。そして片方をリシアへ差し出す。
「リシアも食うか?」
「見舞いに来た相手から食べ物を分けられるって、どういう状況?」
「俺だけ食うのは変だぞ」
「怪我人なんだから食べなさいよ」
「リシアも腹が減ってる匂いがする」
「匂いで言わないで!!」
狐耳がぴくっと動いた。
レクスはそれを見た。
「今、当たったか?」
「当たってない!!」
「耳が動いたぞ」
「耳は関係ない!!」
ノエルが横から冷静に補足する。
「空腹時の反応としては自然です」
「治療判断みたいに言わないで!!」
リシアは顔を赤くしながら、結局、焼き菓子を受け取った。ほんの小さく噛む。表情は変えまいとしている。けれど、狐耳の先がぴょこっと揺れた。
尻尾も、隠しきれずに少し動いた。
レクスは真顔で言った。
「うまいんだな」
「言ってない」
「耳が言ってる」
「言ってない!!」
「尻尾も言ってるぞ」
「見ないで!!」
ノエルが少しだけ口元を緩めた。
「少なくとも、拒絶反応ではなさそうです」
「だから治療判断みたいに言わないで!!」
リシアは慌てて尻尾を押さえた。だが、押さえたことで余計に分かりやすくなっている。
レクスは焼き菓子を食べながら言う。
「怒ってる時と違う動きだぞ」
「なんで分かるのよ!!」
「山で尻尾を見るのは大事だぞ。獣は尻尾で次の動きが分かる」
「私を獣扱いしないで!!」
「リシアはリシアだぞ。でも尻尾は分かりやすい」
リシアは耳まで赤くして、顔を背けた。
「ほんと、腹立つ……!」
笑いが少しだけ部屋に残った。
けれど、その笑いは長くは続かなかった。
レクスは、リシアが焼き菓子を持つ手に力を入れているのに気づいた。手首の鎖跡を、もう片方の手で隠すように握っている。狐耳はまだ立っているのに、目は窓の外を見ていた。
「リシア、心配してくれたのか?」
リシアは即座に振り返った。
「してない!!」
耳がぴょこっと動いた。
レクスは指差さなかった。だが、視線で見た。
「耳が動いたぞ」
「耳の話から離れて!!」
「じゃあ、心配じゃないのか?」
「死なれたら後味が悪いだけ!! あんたがあそこで倒れたら、また私が変な場所を見せたせいみたいになるでしょ!!」
声が少し荒くなった。
リシアは手首の鎖跡を握りしめる。爪が食い込むほど強く。
「昨日、あんたが食料庫の前に立った時、嫌な感じがした。私がずらす場所がなくなって、誰かがまた変な方へ走る気がした」
ノエルは何も言わなかった。
レクスも、焼き菓子を置いてリシアを見た。
リシアの声は震えていた。怒っているようで、怖がっているようでもあった。
「ああいうの、もう嫌なのよ……! 私が見せたものを信じて、誰かが違う場所へ走って、そこに魔物がいたらどうするのよ。私の嘘で、また誰かが死んだらどうするのよ……!」
レクスはゆっくり頷いた。
「悪かった。俺、リシアの場所も潰した」
「謝れば戻る話じゃない」
「うん。だから次は残すぞ」
リシアが眉を寄せる。
「何を?」
「リシアがずらす場所だ。俺がそこに立たない。リシアが嘘を置く場所を、俺が塞がない」
リシアの目が見開かれた。
ノエルも、ほんの少しだけ顔を上げる。
レクスは言葉を探しながら続けた。
「昨日は、俺が前だけ見た。食料庫と魔物しか見てなかった。リシアがどこをずらすか、ユリウスがどこを通すか、ノエルが誰を見るか、見てなかった」
「……分かってるなら、次はしないでよ」
「するかもしれない」
「そこは否定しなさいよ!!」
「嘘はよくないぞ」
リシアは言葉に詰まった。
レクスはまっすぐ言った。
「でも、次は聞く。ユリウスにも聞く。ノエルに止められたら止まる。リシアがずらす場所も、ちゃんと見る」
「私のため?」
「村を守るためだぞ。でも、リシアが嫌な顔しないためでもある」
リシアの狐耳が、今度は大きめにぴょこっと動いた。
「……見ないで」
「見えたぞ」
「見ないでって言ったでしょ!!」
レクスは少し笑った。
リシアは照れ隠しのように、そっぽを向く。
「ほんと、変な人間!」
「俺、人間じゃないぞ」
「そこ、今は訂正しなくていいの!!」
「でも、人間じゃないって村でも言われたぞ」
部屋の空気が、少し止まった。
リシアも、自分の言葉がどこに触れたのか分かったように、唇を噛んだ。
「……そうね。あんたは、そう言われる側だった」
「俺は俺だぞ」
レクスはすぐに言った。
迷わなかった。
リシアは顔を背ける。
「そういうの、すぐ言えるところは嫌いじゃない」
「嫌いじゃないのか!」
「そこだけ拾わないで!!」
リシアが怒鳴ったところで、窓の外に小さな影が映った。
昨日、母親に引っ込められていた子どもだった。窓の縁から、そっと中を覗いている。リシアに気づいた瞬間、びくっと肩を揺らした。
リシアの顔が硬くなる。
だが、子どもは逃げなかった。
「狐の人も、お見舞い?」
リシアが固まった。
レクスは迷わず答える。
「そうだぞ」
「違う!! 見張りのついで!!」
子どもは首を傾げた。
「見張りって、中でするの?」
レクスは嬉しそうに頷く。
「俺もそう言ったぞ」
「二人で責めないで!!」
リシアが声を上げると、子どもは少しだけ笑った。
その笑い声に気づいた母親が、慌てて子どもを連れていく。けれど、昨日ほど強く引きずるようには見えなかった。子どもも、何度か振り返っていた。
リシアは窓の外を見つめる。
「……怖がるくせに、見に来るのね」
「気になるんだろ」
「怖いもの見たさってやつ?」
「違うかもしれないぞ」
「何が?」
レクスは少し考えてから言った。
「名前を覚える前かもしれない」
リシアは何も返せなかった。
ノエルも、静かにレクスを見た。
リシアは目を逸らす。
「……ほんと、都合よく前を向くわね」
「前を見ないと、後ろで痛かった場所ばっかり見ることになるぞ」
リシアの手が、手首の鎖跡から少しだけ離れた。
そこへ、勢いよく扉が開いた。
「レクス、起きてるか!? いや、起きるなよ!? 起きて話を聞けって意味じゃなくて、寝たまま聞け!」
ユリウスが入ってきた。
腕には村の見取り図を抱えている。目の下には疲れがあるが、声には力があった。
部屋に入った瞬間、リシアを見て目を丸くする。
「……お、なんだ。見舞いか?」
「見張りのついで!!」
「室内の見張りって何だよ!!」
「俺も言ったぞ」
「やっぱりおかしいよな!?」
ノエルが机の上の薬草を整えながら、淡々と言った。
「会話が進まないので、本題に入ってください」
「ああ、そうだった。ノエルに怒られる前に進める」
「もう少し遅ければ怒っていました」
「危なかった!」
ユリウスは板敷きの横に膝をつき、見取り図を広げた。
村の中心に食料庫。井戸。家畜小屋。柵の弱い場所。昨日、レクスが飛び出した場所には大きな丸がついている。
レクスは身を起こしかけた。
「見るぞ!」
ノエルの視線が刺さる。
レクスはすぐに寝たまま首だけ伸ばした。
「寝ながら見るぞ」
リシアがぼそっと言う。
「本当に寝ながら見てる」
ユリウスは木炭で線を引いた。
「レクス、明日から村の防衛線を作る。お前が動けない間に、俺が村の動きを見る」
「俺も見るぞ!」
「あなたは寝ています」
ノエルが即座に言った。
ユリウスは頷く。
「ノエルの言う通りだ。でも、お前の山の目は必要だ。俺は村の道や人の動きは見られる。でも、魔物がどこから来るか、どこを嫌がるか、どこなら食料庫へ抜けるかは、お前の方が分かる」
レクスは真剣な顔になった。
「俺は前に出られないぞ」
「だからいいんだ」
ユリウスの声が、少しだけ低くなる。
「昨日みたいに、食料庫の前に飛び込むだけじゃ駄目だ。次は、お前一人が届く場所じゃない」
ユリウスは食料庫の横に線を引き、井戸の裏に丸をつけた。それからリシアを見て、ノエルを見た。
「次は、全員が届く場所を作る」
レクスは、その言葉をゆっくり繰り返した。
「全員が届く場所……」
外では、まだ木槌の音が続いていた。
前に出られないまま、レクスはその音を聞いていた。
今度は、自分が走る場所だけではなく、みんなが動く場所を見るために。




