8. 妻を、迎えに参った
碑の前には、砦の全員が居る。乾いた土の匂いを含んだ風の中、夫は兵の列を端から端まで眺め、蹄が土を掻く音を背にこちらへ歩いてくる。
その後ろを、代言人が帳面を胸に固く抱えて続く。従者が二人、馬車の脇に控え、まだ荒い馬の息を宥めている。旅装の外套は王都の仕立てで、辺境の乾いた土埃が裾の縁だけを白く曇らせていた。
「帰るぞ。支度をしろ」
短い命令形は、王都の居間で帳面越しに聞いたものと変わらない。ただ、声だけが大きい。石壁に跳ね返り、兵の列の端まで届く声である。
「妻を案じ、ここまで駆けてきた。医者も王都で待たせてある。帰るぞ」
わたしは卓を離れない。除幕の一覧を検めるため、冷えた碑の前へ卓を出させてある。指で押さえた紙が、乾いた風にかすかに鳴る。樫の机は広間に据えたままだ。注文は、あの机で受けるもの。この卓越しに、わたしは夫を見る。
十年、この人の払いを承認してきた。狩りの払い。仕立ての払い。月に一度、居間で額だけを告げられ、わたしは乾いた紙へ名を書いた。さらりと筆が走る音まで覚えているのに、声を張るところだけは一度も見たことがない。
「妻ロザモンドは、旦那様のご注文で、故人でございます」
「妻なら、そこに立っている」
「立っているのは、机に座る者、一名ですわ。妻ロザモンドの葬儀は、旦那様のご注文で、日取りどおりに執り行われました。棺は、お返ししております。ご注文の取りやめには、注文主のご署名が要ります」
「支度をしろ。荷は従者に運ばせる」
「お運びいただく物は、何もございませんの。嫁入り道具は、遺志どおり実家へ運びました。こちらに残るのは、机の紙と、枯れた薔薇の鉢が一つだけですわ」
夫は鉢のことを訊かない。十年、王都の居間の窓辺で、季節ごとの光を受けていた鉢である。乾いた土の匂いだけが、ここまでついてきた。
兵の列がわずかに割れ、葬儀屋が後ろから前へ出てくる。両手で控えを開くと、折り目に染みた墨の匂いが乾いた風へほどける。
「前例のないご注文でございますゆえ、控えは一字も違えておりませんとも。取りやめの欄は、こちらでございます」
控えの頭には、紙の目へ食い込むような夫の言葉がある。棺と、日取り。墨はもう乾いているのに、夫はその紙を見ようともしない。
「ご署名をお願いいたします。皆様の前で、どうぞ」
夫の顎が、かすかに動く。王都の寝室で見たのと、同じ動き方である。署名すれば、控えの言葉は夫のものになる。署名しなければ、妻は故人のまま。どちらも墨で締められ、逃げ道のない帳尻だ。
夫は、署名しなかった。風だけが控えの端を震わせる。
砦の者の前で、妻を生きていると言う男が、妻の葬儀の取りやめには名を書けない。兵たちは口を利かず、乾いた靴音さえ立てない。列の後ろで葬儀屋が控えを閉じると、ぱたりという紙の音が石壁の冷えた面を打った。
「……そんな酔狂に付き合う気は無い」
「では、故人のままでございますわ」
「王都へ戻れ。医者に診せる。そのあと、お前の酔狂は法廷で消す」
「すでに侍医に診ていただいておりますの。病はございません、と」
夫は一度、代言人のほうを見る。帳面の余白へ何かを書き足すような、短く鋭い視線である。
「別の医者だ」
「では、その方の薬礼は、どなたが承認なさるのでしょう? 伯爵家の机は、空いたままでございますわ」
夫の目が、卓の上の紙へ落ちる。除幕の名の一覧に、わたしの署名がある紙だ。指の下でざらつく紙は、風にあおられても逃げない。
夫は答えない。葬儀屋が、閉じた控えをもう一度、胸の前で開く。乾いた紙がこすれ、墨の匂いがまた風に立つ。わたしは、その取りやめの欄を指で示した。
「お消しになるのでしたら、ご署名を。取りやめの控えは、いつでも開いてございますわ」
「手前、筆までお持ちしておりますとも。取りやめの欄は一つきり、注文主のお名前だけで、きれいに消えますとも」
代言人の筆が動き、紙を掻く細い音がする。筆先は、故人、の字の形に走ったのだろう。黒い墨が帳面の上で乾いていく。
わたしは懐から、今朝届いた早馬の文を出す。蹄に蹴られた埃の匂いが残る紙には、ノルトハイムの紋がある。指に触れる折り目は固く、弟の字は十年前より少し大きくなっていた。
「弟から、文が届いております。旦那様の代言人が、妹を戻せば持参金の半分を渡す、と持ちかけたそうですわね」
「知らん」
「弟は、お断りしました。それから――持参金は、一枚も届いていない、と」
法務官が実家へ返せと認めた金は、まだ夫の手の内にある。届いていない金の半分を、弟へ持ちかけたのである。帳面に載せれば、初めから払いのない約束だ。
「金貨三千枚は、帳の上でも、まだ一枚も動いておりません。半分をお約束なさるのでしたら、まず全部をお渡しくださってからですわ」
ラインハルトが、碑の脇から一歩出る。傾いた日の影が卓まで伸び、乾いた土が靴の下で低く鳴る。
「ノルトハイムは、俺の隣だ。半分など、通さん」
代言人の筆が、止まった。穂先にふくらんだ墨が、帳面へ落ちそうに揺れる。
夫が目だけを横へ動かす。客棟の窓の下、石壁の影から黒い喪服が現れ、門をくぐってくるところである。未亡人は扇を開き、裾に乾いた土をまとわせながら夫へ歩み寄る。
「伯爵様。あたくし、ご注文どおり、お身の回りを見ておりましてよ」
夫は未亡人を見て、砦の者を見て、それからわたしを見る。帳面のどこかに、自分に都合のよい誤記を探すような目だった。
「知らぬ女だ。付き添いなど、頼んでいない」
扇が、止まる。黒い喪服の胸元で、縁だけがかすかに震えている。
「まあ!」
未亡人の声は、冷えた碑に当たり、門の外の風へ鋭く返ってくる。
「知らぬ女、ですって? 喪服の寸法を葬儀屋にお渡しになったのは、伯爵様でしてよ。葬儀のあと、あたくしを伯爵夫人にすると仰ったのも、伯爵様でしてよ」
「だっ、黙れ!」
「黙りませんことよ。あたくし、辺境まで参って知らぬ女にされる謂れなど、ございませんわ!」
「喪服の寸法は、ご注文の時点から別口でございました。その別の寸法の方が、いまここにお立ちですわ。払いはわたくしの署名で済んでおりますから、お召しのまま、法廷で仰ってくださって結構ですの」
「ええ、この襟のままで」
代言人の筆が止まり、動き、また止まる。帳面の頁が風で少しめくれ、まだ乾かない墨の匂いがこちらまで届く。
夫は未亡人に背を向ける。向いた先に、ラインハルトが立っている。碑よりも濃い影が、乾いた土の上で夫の影を塞いでいた。
「辺境伯! いいから私の妻を返せ!」
「迎えに行く、と言ったのは、俺が先なんだが?」
「そんなの十年前の口約束だ!」
「十年前に言って、今年、迎えに行った。約束は――果たした」
字義の男は、約束を帳面の一項のように言い切り、それ以上は口にしない。夫は歯を見せて笑う。けれど、その形には炉の火ほどの温度もない。
「辺境伯が私の妻を囲っている、と法廷で言うぞ!」
「客は客棟だ。俺も、客間には入らんよ?」
「ならば、今夜は私も客だ。伯爵を追い返せば、拐かしの証になる」
砦の家令が、わたしを見る。問いは声にならない。追い返すか、泊めるか。一項も変えないのなら、答えは帳面を開く前から決まっている。
「客は、客棟でございます。奥の客間を開けて、火を入れて。わたくしの隣は、もう塞がっておりますもの」
未亡人が扇の陰で、小さく笑う。声にはせず、扇の縁だけがゆるく揺れる。
わたしは卓の上の紙を一枚取り、指に返るざらつきを確かめながら、砦の家令へ渡す書き付けをしたためた。新しい墨の匂いが、乾いた風の中でも濃い。
〈客棟の扉は、日暮れから開けない。誰であっても〉
署名を入れると、墨が紙の繊維へゆっくり沈む。砦の家令は紙を受け取り、若い兵を呼んだ。
日が碑の向こうへ落ちていく。石の面の名が、下の行から順に影へ沈み、触れずともわかる冷えを濃くする。夫は馬車の脇で従者に外套を渡す。馬が鼻を鳴らし、蹄で乾いた土を掻く。舞った埃の匂いの向こうで、夫は客棟の窓を見上げた。
「妻の部屋に、夫が入る。当然だ!」




