7. 名は、全部
翌る朝、未亡人は喪服の裾をかすかに鳴らし、客棟の広間へ降りてきた。昨夜から、わたしの隣の部屋にいる。客は客棟、というのが殿の則で、火の入っていた客間はそこしか無い。探りに来た者が、薄い石壁を挟んで探られる側の隣に住む。わたしが執り行ったのではない。この家の則が、そう置いただけである。
「隣は、ずいぶん壁が薄うございますこと。夜中には、紙をめくる音まで」
「請求書ですわ。十年ぶん、溜まっておりますもの」
「十年ものあいだ、どなたもお払いになっていないの?」
「払いはしておりますわ。ただ、読んでから払う者が、十年おりませんでしたの」
未亡人は返事をせず、炉の火も届かない石壁に掛けられた、褪せた織物へ目を据えている。
「あたくし、身の回りを見よ、と言われて参りましたのに。どちらを見ても、紙ばかり」
「その紙こそが、わたくしの身の回りですもの」
「夜中にも、灯りをおつけになるの?」
「請求書を読むのは、昼のうちですわ。夜は、数を合わせるだけですの」
未亡人は扇を半分だけ開き、広間の窓へ目を逃がす。薄い朝の光を受けた喪服の袖は、墨を水でほどいたような灰色に見えた。
「殿は、夜になると、こちらへは?」
「殿は本棟でお休みですわ。客棟の鍵は、砦の家令が預かっております」
「では、朝は?」
「朝も、机におりますわ。ご覧になりたければ、椅子をもう一つ運ばせます」
扇の先が、机に積んだ紙の束を指す。数えるふりをしながらも、白い指は束の端で動かない。
「お食事も、ご一緒に?」
「わたくしは机で頂きますの。殿は、本棟で召し上がります」
「それは、お寂しゅうございますこと」
「請求書が十年ぶんございますもの。寂しがる暇など、ございませんわ」
未亡人は扇を閉じ、その乾いた音の向こうへ耳を澄ます。門の外から響いていた槌の音も、いつしか止んでいる。
「それで今日は、何がございますの?」
「碑の除幕ですわ。門の外に、石が立ちます」
「碑、ですか?」
「殿のご注文ですわ――戻らなかった者の名を、全部」
扉の脇から、ラインハルトの低い声が短く落ちる。
「客は、客棟だ。見るのは、勝手だ」
未亡人は、少しだけ目を細める。喪服の襟は、婚礼の日と同じ形のまま、喉もとを隙なく囲んでいる。
◇
碑の注文は、門番を送った日に出ている。戻らなかった者の名を、全部刻め。石は前から切ってあり、石工はその日から、乾いた土へ槌の音と白い粉を落としながら、門の外で名を刻んでいた。国境の守りの十年で、砦から出て戻らなかった者の碑である。
名は、門番を送った日のうちに、わたしが帳から拾った。指に古い紙のけばを感じながら、墨の薄れた給金の行を追う。途中で止まった者が、戻らなかった者である。兵の名。荷を運んだ村人の名。行の途中で、名の代わりに〈名を知らず〉とだけ書かれた行が幾つかあり、石工には〈名の無い者〉と刻ませてある。国境で拾われ、名を言う前に逝った者たちだ。
除幕の前に、冷えた石へ刻んだ名を、帳から拾った一覧と突き合わせる。砦の家令は帳を抱え、わたしの隣に立つ。
「名の無い者は、四つでありましたな」
「四つですわ。照合して、一つも抜けておりません」
「上から、砦へ来た順でありますな」
「ええ。給金の行の順ですわ。位では分けておりません」
砦の家令が、かさりと帳の頁を繰る。乾いた指の腹が、墨の行を上から下へ、名をこすらないよう辿っていく。
「石工は、字数を数えて嫌がっておりましたが」
「石工への払いも、全部ですわ」
砦の家令は、石の下のほうへ目を移す。名の無い者、の行は、名のある者の行よりも溝が長く、刻んだ字も多い。
「字数のぶんまで、でありますか?」
「刻んだ字のぶんも、全部ですわ。抜けば、ご注文と違いますもの」
「……自分は長く払いを見てまいりました。字を数えて払うのは、初めてであります」
「わたくしも初めてですわ。けれど項目は、数えられなければ払えませんもの」
砦の家令は何も言わず、風に浮きかけた帳の端を、指でそっと押さえる。
「この一覧は、どちらへ納めるのでありますか?」
「帳の隣へ。碑も帳も、同じ順ですもの」
わたしは石に刻まれた名を一つずつ、一覧の行と合わせていく。払いの行を検めるのと同じ手つきである。ただ、行の終わりに承認の印が無い。代わりに、突き合わせを終えた一覧の末へ、わたしの署名を入れる。新しい墨の匂いが、石の粉を含む風に混じった。刻んだ名、全部、注文どおり。
除幕は、石の粉まで白く照らす昼である。
砦の全員と、村の者が門の外に集まる。乾いた土を踏む靴音が絶えると、口を利く者はいない。布を掛けた石の前にラインハルトが立ち、わたしは署名の紙を胸に、一歩下がって立つ。
「布は、俺が引く」
「そのご注文は、ございませんでしたわ」
「今、注文した」
「では、そのあとの布は、どちらへ?」
「石工にやる。次の石を包ませる」
彼が布を引く。厚い布が石肌を擦り、乾いた音を立てた。
冷えた石の面に、名が並んでいる。上から順に、帳の順である。位では分けていない。給金の行の順は、砦に来た順だ。兵の名、村人の名、名の無い者、名の無い者。日の光を受け、刻んだ溝の影が細く、乾いた土へ向かって伸びる。
ざわめきは起きない。息をのむ音さえ乾いた風に消え、代わりに砦の家令が前へ出る。石の真ん中あたりで、指が止まった。
「……自分の倅の名が、ここに」
孫娘の父である。砦の家令の唇は、それきり音を結ばない。若い兵が孫娘の肩を抱き、孫娘は祖父の背中だけを見つめている。
わたしは帳の行を並べただけである。払いが止まった名を、止まった順に。けれど帳を出た行は、この人たちの前で、こういう形を持って見える。胸の前で、署名の入った一覧を畳む。紙の縁が指の先へ食い込み、石の冷えまで移ったように冷たい。
「ロザモンド様。……全部とは、こういうことでありましたか?」
「ええ。一つも抜かない、ということですわ」
「自分は十年、全部払え、を、払いのことだと」
「払いのことですわ。名も、払いの行から拾いましたもの」
砦の家令は帳を開いたまま、石の面と紙とを見比べている。薄い墨と深い溝、手ざわりの違う二つの場所に、同じ字がある。
「……行が、名でありましたな」
「行が、名ですわ。どちらも同じ帳に載っております」
砦の家令の指が、帳の途中で止まる。探す間もなかった。倅の行の場所を、この人の指は覚えているのだろう。
「……倅の行は、消さずにおいてよろしいのでありますか?」
「残しておりますわ。行は、消しません」
砦の家令は帳を胸へ抱き込んだまま、冷えた石の面へ深く頭を下げる。
未亡人が扇の陰から、日の光に白く浮く石の面を眺めている。
「まあ。王都の碑は、位の高い順ですのに」
「帳の順ですわ。給金の行に、位はございませんもの」
「名の無い者、までお刻みになるなんて」
「一人も抜くな、とのご注文でしたから」
未亡人の扇が、名の無い者、の行のあたりで止まる。喪服の袖は石の面に触れそうなほど近づき、その黒い影が刻み跡へ落ちている。
「あの方は、こういうお払いをなさるの」
「ご注文が、そうでしたの。門番の名も、いちばん下に載っております」
「この石も、布も、あなたの署名で?」
「石も、字も、布も。全部、わたくしの署名ですわ」
石のいちばん下に、まだ白い粉を溝に残す、刻まれたばかりの名がある。四十年、門から戻り続けた人の名。その名が、戻らなかった者の列の終わりに並んでいる。
未亡人の扇は、少しのあいだ動かない。乾いた風に扇の紙が鳴ってから、喪服の袖が石の面を離れていく。
ラインハルトは石の前から動かず、背に昼の光を受けたまま、名の列を上から下へ見ている。
「名は全部か?」
「全部ですわ。一つたりとも抜いておりません」
「そうか」
人が散りかけたころ、門の外から蹄と車輪の音が近づく。乾いた風に、埃の匂いが混じった。
王都の紋を付けた馬車が、碑の前できしんで止まる。扉が開き、埃をかぶった黒い靴が石畳に降りる。喪服ではない。旅装の伯爵である。
夫は碑を一度も見ず、乾いた旅の埃を肩にまとったまま、真っ直ぐわたしだけを見た。
「妻を、迎えに参った」




