6. 婚礼一つ。日取りは、注文どおりに
若い兵が机の前に立ったのは、門番を送り、鐘の余韻も石の壁から消えて、砦が元の朝の足音を取り戻したころである。
門の外では、石工の槌が乾いた空気を打つ音が続いている。碑の石は、殿が砦を継いだ年から、冷たい肌をさらして門の外に立てかけてあったものだという。十年、字は一つも刻まれていなかった。帳から名を拾う者が、この家に居なかったからである。石を削る乾いた音が風に乗り、客棟の広間の窓まで届く。
「ロザモンド様! 自分は、家令の孫娘と婚礼を挙げたいのです!」
声が石の壁に跳ね返る。机の上では、墨の匂いを残す請求書の端が、その息にあおられてかすかに震えた。
砦の家令が、若い兵の後ろで額に手を当て、指の下のしわを深くしている。砦の習わしでは、兵の婚礼は主が出す。若い兵は、その主のところへ行かず、まっすぐな靴音で机へ来たのである。
「婚礼のご注文は、殿から承ります。少々、お待ちくださいませ」
「はい! 自分は、机に言えば全部通ると聞いたのです!」
「どなたから、お聞きになりましたの?」
「門番の葬儀で、皆からです!」
砦の家令の額の手が、目のところまで下りる。それから彼は扉の外へ何か言う。その直後、誰かが廊下を駆けていくらしい靴音が、石の壁を伝って遠ざかった。ラインハルトは、すぐ来る。若い兵の顔を見て、それから机のわたしを見た。
「婚礼を出してやれ。全部だ」
「全部、とは?」
「全部だ」
「承知しました」
わたしは新しい紙を出し、指先でその張りを確かめ、墨の匂いの上に頭の一行を書く。
婚礼一つ。日取りは、次の晴れの日で。
棺一つ、の紙に名を書いた手が、同じ紙の目を追い、同じ書き方で婚礼一つ、と書く。項目の並びは変わらない。名簿。鐘。供物。立会人。ただ、墨が乾くより先へ進む筆の速さは、いつもと違う。それは自分でも分かった。
「名簿には、砦の全員を載せますわ」
「自分の名も、載りますか?」
「載りますわ。給金の行にあるお名前は、全部」
若い兵の背筋が伸び、胸元の革が小さく鳴る。給金の行にある名は、この砦では全部が生きている名である。門の外の石に刻まれているのは、帳の行が途中で止まり、続きを持たない名のほうだ。
「花は、要らないのですか?」
「辺境の秋には、花がありますの?」
「……薪と塩なら、幾らでも」
「では、それが花ですわ」
若い兵の口は、花、の形に開いたまま、閉じる時を逃している。
「塩は、どれほど要りますか?」
「卓に皿を一つ、投げるぶんはお集まりの手の数だけですわ」
「誓いの問いは、どなたが読むのですか?」
「名簿の頭にある、砦でいちばん長くお勤めの方がお読みになりますわ」
若い兵の目が、後ろの祖父へ動き、その顔に静かに止まる。
「日取りは、いつですか?」
「次の晴れの日ですわ。辺境の空にも、ご注文を聞き届けていただきます」
「では、雨でしたら婚礼はありませんか?」
「晴れの日、とご注文に記しましたもの。雨なら、日取りは次の晴れの日ですわ」
若い兵が敬礼する。踵が石床を打ち、乾いた音が広間を走る。
「自分は、全部、覚えました!」
何を覚えたのかは、訊かない。訊けば、それはわたしの注文になり、帳に行が増える。承認の欄に署名を入れると、湿った墨が鈍く光る。紙の端を揃え、砦の家令へ回した。
◇
晴れは、翌日に来る。朝の光が石の壁を温め、夜の冷えを隅へ押し戻している。
砦の中庭に、兵が並ぶ。王都なら五十家の並ぶところに、砦の全員が肩を揃えている。鐘は門の上で鳴り、澄んだ響きが中庭を満たす。模様を描いた塩の皿と薪を組み合わせた装飾が卓に載る。雲は薄く、風は乾いた土と埃の匂いを運び、日を受けた石の壁は冬の前の色になる。
孫娘は、白い布を頭に掛けていた。祖母の形見だという。風に揺れる布の端を指で押さえ、小さな声でわたしに言う。
「わたし、王都のお嫁さんみたいです」
「王都の花嫁の帳に、塩と薪は載りませんの。こちらのほうが、ずっと良い品ですわ」
「王都のお嫁さんは、何をもらうのですか?」
「花を、山ほど。次の日には、全部しおれておりますけれど」
孫娘が、卓の塩の皿を見る。白い粒が、花びらより固い光を返している。
「塩、なのですか?」
「冬を越せるのは、花ではなくて、塩と薪のほうですもの」
「ロザモンド様も、花を?」
「ええ。山ほど」
十年前の広間に飾られた花の名を、わたしはもう一つも覚えていない。帳をめくる指に残っているのは、その日の払いの額と、翌朝、しおれた花を運び出した使用人の数だけである。
帳の言葉に直せば、王都の婚礼で最も高い項目は花で、最も安い項目は塩になる。辺境では、花と塩の行が逆になる。
ラインハルトが卓の端で、風に鳴る見積書を指で押さえていた。紙越しの指先だけが、日の中で動かない。
「婚礼一つ、と書いたのか?」
「ええ。棺一つ、と同じ書き方ですわ。数えられない項目では、払いが通りませんもの」
「数えられる婚礼か」
「数えられない婚礼では、払いが通りません。十年、そうしてまいりましたもの」
誓いの問いは、砦の家令が読む。声が途中で詰まり、紙を持つ指が折り目を深くする。若い兵は耳まで赤くして誓い、孫娘も答え白い布の端が、乾いた風に持ち上がった。
婚礼は、締めまで注文どおりに進む。二人が鐘の下をくぐり、兵たちが塩を一つまみずつ投げる。白い粒が日を散らして石畳へ落ち、その音は、雨の降りはじめに似ている。
ラインハルトが隣に立ち、卓の上の見積書へ目を落とす。紙の端が、わたしと彼のあいだで風に鳴る。
「次の注文は、俺が書く」
「注文は、まだ受け付けておりませんわ」
「そうか」
彼は見積書から目を離さない。わたしは紙を裏返す。乾いた音がして、まだ何も載らない裏が日に白く浮く。
◇
重い蝶番が石をこする音を立てて、門が開く。埃の匂いが中庭へ流れ込む。
その埃の向こうから、黒い布が中庭に入ってくる。
喪服である。襟の形は、葬儀屋の仕立てだ。日の満ちた婚礼の中庭で、その黒だけが光を吸い、布のひだへ沈めている。兵たちのざわめきは細くなり、塩の皿の上で止まった。
「まあ。あたくし、婚礼だなんて聞いておりませんわ」
男爵未亡人は扇を開く。扇越しにわたしを見て、それからラインハルトへ目を移す。
「あたくし、伯爵様のご注文で参りましたの」
「ご注文で?」
「ええ。まず、この文をお読みになって」
差し出された文の紙は、指にかたい上等なものだ。折り目から新しい墨の匂いが立ち、その頭に、夫の言葉が写してある。
〈妻の身の回りを見よ〉
見積書を読む速さで最後まで目を通し、わたしは文を元の折り目どおりに畳む。見るのは未亡人で、わたしではない。執り行う者がわたしでない注文は、紙がどれほど上等でも、わたしの机には載らない。
「これは、あなたが執り行うご注文ですわ。見るのはあなたで、わたくしではありませんもの」
「では――どこを見ればよろしいの?」
「お好きなだけ、どこでも。ただし、客は客棟――というのが、殿の則ですわ」
砦の家令が鍵の束を鳴らす。金属の音が石の壁の冷えをなぞる。火の入っている客間は、わたしの隣しか無い。ラインハルトが、卓の向こうから短く言う。
「客は、客棟だ」
「隣のお部屋からご覧になれるのは、わたくしの机と、十年ぶんの請求書だけですけれど」
「紙、ですか?」
「ええ、紙ですわ。伯爵様は、紙をお読みにならない方でしたもの。読むのは、十年、わたくしの役でしたの」
夫の文は、わたしの机に一項も載らず、木の面に触れもしない。送り込まれた女は、この家の則の側に置かれた。
「喪服で婚礼に出るのは、あたくしが初めてでしょうね」
「王都では、そうでしょうね。わたくしがこの砦で執り行う、最初の婚礼ですもの。何もかも初めてですわ」
「こちらの帳では、喪服はどの項目に入りますの?」
「今日の項目は、塩と薪と鐘だけですわ。喪服を記す行はございませんの」
塩の皿の前で、喪服の黒だけが婚礼の項目から外れている。未亡人は扇を閉じ、開き、また閉じる。
「……よろしゅうございますわ。辺境の客棟とやらを、拝見いたしますことよ。伯爵様ご本人も、じきにお越しですもの。妻を迎えに、ですって」




