5. 棺は、もう空ではない
門番が、今朝、息を引き取った。その言葉は、炉の火がまだ小さい部屋で、帳を閉じる音より重く響く。
砦の家令が机の前でそう報告したのは、まだ火を入れたばかりの刻である。湿った薪が小さく爆ぜ、石の壁は夜の冷えを抱いたままだ。窓の外は朝もやで白く、門のほうから鳥の声が一つだけ聞こえる。
四十年、砦の門に立った人だ。辺境の乾いた土を踏み、冬の霜に靴を白くしながら、この門を守ってきた。昨夜、王都の荷車を門から通したのが、最後の仕事だったという。
「殿には、すでにお伝えしてあります。王都の荷車は、土間にあります」
「門番への払いの行は、帳にきちんと残っておりますわね」
「四十年ぶんであります。給金、靴、それに門の油」
「門の油は、一度も切らしておりませんの?」
「四十年、一度もないのであります」
ラインハルトが廊下から入ってきて、机の前に立つ。乾いた土の匂いも、彼とともに入り込む。
「辺境の土に埋めてやれ。全部だ」
「承知しました」
全部、と言われたら、帳の上でも全部である。棺、鐘、名簿、弔辞。王都の葬儀の項目を、わたしは冷えた指を折って数えた。砦には、そのどれも無い。
「棺はどうする?」
「砦には、棺屋はおりませんの?」
「兵は布で包んで埋める」
「では、その布を。項目は、一つも抜きませんわ」
そこへ、土間のほうで荷馬の蹄が鳴り、そのあとを追うように靴音が来た。
小柄な男で、道中の埃をかぶった黒い上着の袖口だけが白い。夜のうちに着いて、土間で朝を待っていたのだという。昨夜、門番が最後に通した荷車の主である。
「奥様――いえ、これは失礼いたしました。ロザモンド様。手前、昨夜、王都より参りましたとも。門番殿が、お通しくださいました」
「門番が、最後に通した荷車でしたのね」
「はい。灯りを掲げて、荷車の輪を一つずつ検めてくださいましたとも。実に丁寧なお方でございました」
葬儀屋はわたしを土間の荷車へ案内し、王都の紋の布を剥ぐ。布が乾いた音を立て、朝の薄明かりに荷が現れる。
棺が載っていた。まだ新しい漆が、冷えた土間で黒く光っている。
わたしの寸法の、閉じたままの棺である。あの朝、紙の上で読んだ寸法が、木の厚みと影を持って目の前にある。
土間は足裏から冷え、削った木と、まだ新しい漆の匂いが鼻に張りつく。棺のつやだけが、濡れたように明るい。
「伯爵様は、お受け取りを拒まれました。私の注文ではない、との仰せで。手前は控えに、受け取り拒否、と記し、承認の署名の主へお運びした次第でございますとも」
「三日も、かけて?」
「前例がございませんもので」
葬儀屋は楽しげに、黒い上着の前で手を揉んだ。それから声を落として続ける。
「もう一つ、お耳に入れておきます。伯爵様は、控えを金貨で買いたいと仰せでした。手前は注文に忠実で、注文主に忠実ではございません。お断りいたしました」
「お断りになって、王都には居づらくございませんの?」
「手前の得意先は、王都で亡くなる方々でございますとも。伯爵様は、幸いまだ、お亡くなりではございません」
「王都の葬儀の払いは、どうなさいますの?」
「承認のご署名がある以上、伯爵家の帳に立っておりますとも。伯爵様がお払いにならぬなら、法廷で帳ごと申し上げます」
承認された払いは、承認した者がその場に居なくなっても、帳の上で歩みを止めない。十年、わたしが屋敷に教えてきた習わしが、乾いた墨の一行となり、今度は夫の向かい側に立っている。
砦の家令が、荷車の棺とわたしの顔を見比べていた。問いの代わりに、白い息だけがほどける。ラインハルトは腕を組んだまま、棺を見ている。
「門番は小柄だったか?」
「はい。殿の肩ほどであります」
わたしは棺のつやから目を離し、葬儀屋に向き直った。冷えた指を、そっと組み直す。
「注文を、一つ、お願いいたします」
「はい、それはもう、喜んで」
「門番の棺を一つ。日取りは明日で」
葬儀屋は懐から新しい見積書を出し、頭にその言葉を写す。筆先から墨の匂いが立ち、空いた欄が命じられた形を得ていく。夫の言葉が写された一枚と、同じ書式である。
わたしはざらつく紙を押さえ、承認の欄に署名を入れた。筆の軸は冷たいのに、指の腹だけが熱を持つ。自分の口から出た言葉が頭の行に載っている紙に、名を書くのは初めてである。
「棺は、あの棺でお願いいたします。一項も変えませんわ」
「ですが、寸法は――」
「合いますわ。門番は、殿の肩ほどの方でしたもの」
「鐘と、名簿と、弔辞のほうは――」
「鐘は砦の鐘を。名簿には砦の全員を。弔辞は、わたくしが務めますわ」
葬儀屋は項目を一つずつ、控えへ写していく。墨の匂いが濃くなり、さらさらと走る筆は、どの欄の前でも止まらない。
「案内状は、いかがいたしましょうか?」
「門の内に、みなそろっておりますもの。触れは、鐘で足りますわ」
「では、手前は……」
「昨夜、門番が最後に通した荷車の主ですもの。名簿にお入れいたしますわ」
葬儀屋は控えを繰る手を止める。紙の端がかすかに鳴り、それから深く頭を下げる。
「前例が、これで二つ目でございますとも」
◇
翌る朝、砦の門の前に、兵が並ぶ。夜明けの光は薄く、石壁から戻る冷えが頬を刺す。
空は高く、風がない。乾いた土の匂いが、足元から立つ。鐘は砦の鐘を使う。名簿は砦の全員。供物は薪と塩。王都の項目を、辺境の品で一つずつ埋めていく。飾りはなくても、空いた欄はない。
門番の棺は、門のすぐ内側に置かれた。四十年、彼が立っていた場所である。踏まれ続けた土はそこだけ固く、棺の下にも、立つ者の形が残っているように見える。
棺は、もう空ではない。
わたしは弔辞の紙を開く。砦の家令が倉の帳を全部出してくれた。乾いた紙と古い墨の匂いが立つ。机が空いていた十年も、その前も、門番の四十年は払いの行として途切れず残っている。
紙を持つ指が、少し冷たい。紙の端が爪に当たるのを確かめ、力を入れ直す。息を吸うと、乾いた土と塩、その奥に薪の煙の匂いがする。
「門番は、四十年、この門に立ちました。門の油は、四十年、一度も切れておりません。冬の朝の薪を門の脇で最初に燃やすのは、いつも門番です。靴は、砦の誰よりも早く底が抜けました。門を出入りした者を、門番は一人残らず見ております。今朝は、門番が出ていく番です」
若い兵が最初に泣いた。声を出すまいと唇を噛み、肩だけが動いている。鎧の革が、息に合わせてかすかに鳴る。砦の家令が続き、兵たちが続く。誰も、目を拭う手を隠さない。
「ロザモンド様。……門の油の壺は、これから自分の役目であります」
「帳の行は、そのまま残しておきますわ。名だけ、書き替えます」
わたしの声は震えなかった。十年、他人の払いを読んできた声である。喉の奥だけが乾く。読み上げているあいだ、門の油の壺と、底の抜けた靴と、冬の朝の火が、帳の行から浮かぶように、順に目の裏を通っていった。どれも払いではなく、門番がここに立った跡である。
葬儀屋は、笑わない。控えを胸に抱え、白い袖口を重ねたまま、棺を見ている。
夫の注文した棺が、夫の知らない男を、黒い漆に空の光を載せて、辺境の乾いた土へ運んでいく。一項も変えていない。棺一つ、日取りは、注文どおり。
乾いた土が棺を叩く音を聞きながら、ラインハルトが隣に立つ。
「俺のときも、頼む」
「故人が読めるのは、自分の弔辞だけですわ」
「そうか」
「ご自分でお書きになり、ご自分でお読みになるのでしたら、日取りはお決めくださいませ」
「まだ決めん」
彼は少しだけ口の端を上げる。頬は痩せ、辺境の光が刻んだ線もあるのに、その形だけは十年前と変わらない。それから、土の掛かった棺のほうへ顎を向けた。
「碑を立てる。戻らなかった者の名を、全部刻め」
「門番の名も、でございますわね」
「今朝、門を出た。戻らん。一人も抜くな」
「では、名は帳から拾います。刻むのは石工、拾うのはわたくし」
葬儀屋が土を踏んで近づき、胸の控えを押さえて声を落とす。
「もう一つ、お耳に。男爵未亡人様が、伯爵様のご注文を受けて、辺境へ向かっておられますとも」
「ご注文で……ございますの?」
「喪服で、ございます」




