4. 故人は、お返しできません
代言人が来たのは、書状の三日あとである。乾いた蹄の音が砦の門で止まり、ほどなく埃の匂いが広間まで入り込んだ。
客棟の広間は、客を通すための部屋だ。石の壁には冷えが染みつき、色の褪せた織物が一枚だけ掛かっている。古い糸は光を失い、空気には石と灰の匂いが混じる。窓が高く、光は床の真ん中に四角く落ちるだけで、部屋の隅までは届かない。
本棟の樫の机は、兵が総出でここへ運んでくれた。重い脚が石床をこすった跡には、まだ白い粉が残っている。注文は机で受けるものだから、以後の在り処もこの広間になる。
わたしはその前に座る。樫の天板は指先に冷たく、脇では砦の家令が鍵の束を提げて立ち、壁際にはラインハルトが腕を組んでいた。机を任せてから、口を開かない。その沈黙も、まだ記入されていない欄のように重い。
代言人は痩せた男で、胸の前に帳面を抱えている。革表紙を押さえる指だけが白い。腰を折る角度は浅く、靴の縫い目には三日ぶんの埃が乾いたまま残っていた。辺境の土の匂いが、足もとからかすかに立つ。
「小職、ヴァイセンベルク伯爵の代言人と心得ます。奥様に、書状を読み上げさせていただきます」
「奥様ではございません」
代言人の筆が、帳面の上で止まる。穂先には、落ちきれない墨が丸く膨らんだ。
「では、何とお呼び申し上げればよろしいのでしょうか?」
「まず先にお読みくださいませ。呼び名は、そのあとで」
代言人は石壁に響く咳払いをして、書状を広げた。乾いた紙の音と、紙に染みた墨の匂いが冷えた広間にひろがる。頭の一行は、早馬で届いたものと同じである。
「妻ロザモンドを、速やかに返されたし。葬儀は妻の酔狂であり、法務官の認定は取り消しを申し立てる。応じねば、辺境伯を妻の拐かしとして王の法廷へ訴える。――以上、伯爵様のお言葉のままでございます」
言葉のまま、と言った。葬儀屋と同じ、耳に馴染んだ習わしである。誰が、どの口で、何を頼んだかを、紙と墨にそのまま残す。
十年、わたしが読んできた紙も同じ書式だった。指に馴染んだざらつきまで思い出せる。頭に注文の言葉、その下に項目、いちばん下に承認の欄。ここでも読み方を変える必要はない。
書状を受け取り、指に残る紙の硬さと墨の匂いごと、見積書を検めるときの速さで一度読む。端を揃えて机に置くと、薄い紙が樫の上でかすかに鳴った。
「承知しました」
代言人の口もとがわずかに緩み、顔に窓の光が戻る。
「では、さっそくお支度を――」
「ご注文は、妻ロザモンドを、速やかに返されたし、でございますわね」
「はい、伯爵様はそのように仰せでございます」
代言人は書状を折り、帳面の新しい頁を開く。折り目をなぞる指が、さきほどより速い。
「では、確認のため伺いますわ。旦那様は、何をお返しせよと仰せですの?」
「……奥様ご本人を、との仰せでございます」
「奥様ではございません」
「失礼いたしました。……そちら様を、との仰せでございます」
呼び名を訂正するたびに、筆の先が少しだけ戻る。紙には、書きかけの言葉が薄い傷のように残っていく。
「妻ロザモンドの葬儀は、旦那様のご注文に従い、日取りどおり執り行われました。棺はお返しし、案内も旦那様のお名前で出ております」
「その件は、小職も承知しております。ですが、そちら様は、こうしてお元気でいらして――」
代言人は帳面から顔を上げ、わたしを見る。その目がわたしの顔と喪服の襟を往復し、行き場をなくして紙へ落ちる。
わたしは見積書の項目を読むときのように、指先で紙の端を押さえ、一つずつ言った。声は石の壁に返され、どの言葉も同じ重さで机へ戻ってくる。
「棺一つ、喪服一着、日取りは注文どおり」
「……はい、相違ございません」
「三つとも、ご注文のまま納めております。品違いがございましたら、承りますわ」
代言人の筆が、次の言葉を待っている。穂先にたまった墨が、帳面へ落ちる手前で震える。
「故人は、お返しできません」
窓の高いところで、乾いた風が細く鳴る。音は石の壁を撫で、袖口から冷えが入り込む。
代言人の筆が動き、止まり、また動く。紙を掻く音だけが、風のあとを埋めていった。
「小職は、記録に留めます。……何と書けばよろしいか。奥様は、故人であると」
「旦那様がそうご注文になりました。ご注文を取りやめるには、注文主の署名が要ります。葬儀屋の控えにございますから、王都でどうぞ」
「……故人、と」
筆が紙を引っかく音がする。奥様、と書きかけた字の上に、線が一本引かれた。乾ききらない墨の匂いが机の上まで届き、訂正された呼び名だけが黒く滲んでいる。
わたしは受け取りの紙を書く。ざらつく紙を手の腹で押さえ、書状一通、確かに受け取った、という一行を墨にする。署名は、喪主ロザモンド。指先には、紙の粉と墨の匂いが残る。それから弔辞の写しを一枚、上に重ねる。
「こちらをご遺品として、旦那様へお届けくださいませ」
「こちらが、弔辞でございますか?」
「故人が読んだものですわ。旦那様は、最後まで確かにお聞きになりました」
代言人は写しを受け取り、紙の端を固くつまんだまま、しばらく読む。それから帳面に何か書く。字義のままに記録する男は、頁を埋めるたびに唇から色を失い、紙と同じ顔色になっていった。
「……まことにつかぬことを伺いますが、そちら様がお休みになる場所は、どちらでございましょう?」
砦の家令が、鍵の束を鳴らす。金属の乾いた音が石壁に当たり、広間の冷えまで硬くなる。
「客棟であります。鍵は、自分が預かっております」
「客棟……本棟とは、別でございますか?」
「別であります。廊下で繋がってはおりますが、鍵は自分の腰にあります」
「夜も、同じでございましょうか?」
「夜も、であります。日暮れには、自分が締めます」
代言人はそれも写した。わたしは注文書を机の上で滑らせる。紙の擦れる音の先に、ラインハルトの大きな字と、わたしの署名が並んでいる。
「机に座る者、一名。給金は辺境の相場。日取りは本日から。こちらが、雇いの紙ですわ。辺境伯様のご注文で、机に座っております」
「雇い。……給金は、いかほどでございますか?」
「兵と同じですわ。帳にも、そのとおり載っております」
「記録に留めます」
帳面が、また一枚埋まる。増えた墨の重みを確かめるように、代言人が頁を押さえた。壁際で、ラインハルトが初めて口を開く。
「棺は返した。空だと言ったのは、伯爵が名簿に入れた法務官だ」
「……記録に留めます」
三度目である。代言人は帳面を閉じ、腰を浅く折って立った。固い表紙の音が石壁に返る。扉の前で、一度だけ振り返る。
「一つ、申し添えさせていただきます。葬儀の払いは、妻の酔狂として、伯爵様がお払いになりません。葬儀屋が、承認の署名の主のところへ参るでしょう。――この辺境まで」
「承認は、わたくしの署名ですもの。参る先なら、ここですわ」
扉が閉まる。厚い板の向こうで靴音が薄れ、やがて砦の門が鳴った。残った埃の匂いに、机の墨が重なる。
床に落ちていた光の四角が、いつのまにか机の脚まで動いている。舞う埃の向こうで炉の火が低く揺れ、机の書状だけが、まだ閉じられない帳のように白い。
ラインハルトが壁を離れ、机の前に立った。石床を踏む靴の音が近づき、大きな影が注文書へかかる。
「……帰るのか?」
「返す物は、返しました」
「……そうか」
彼は窓の外を見る。辺境の空は、王都より高い。乾いた土の果てまで、淡い光が伸びている。
「あの男は、また来る」
「ご注文が続くのでしたら、執り行うだけですわ」
「冬一つ、増えるだけだ」




