3. 机は、十年、空いておりました
広間を出るとき、家令が夫の前で足を止めた。手にした紙が、石壁の冷気にかすかに鳴る。今朝鳴らした鐘の請求書である。承認の欄には、故人の署名がもう入っている。
「旦那様。鐘の払いは、奥様のご承認どおり、伯爵家よりお出しいたします」
夫は紙を受け取らない。署名へ目を落としたまま、顎だけがかすかに動く。それでも、唇からは何も出てこない。
受け取らなくても、払いは動く。承認の墨があれば、帳は先へ進む。それがこの屋敷の習わしで、十年、わたしが守ってきたものだ。
「爺。あとの請求も、承認の欄を確かめてから進めてくださいませ」
「かしこまりました。……奥様」
「もう、奥様ではございませんわ」
「……かしこまりました」
「厨房の塩と、猟犬の餌代は、今月ぶんまで承認してございます。その先は、旦那様の机へお回しくださいませ」
家令は口を開く。言葉は載せず、代わりに深く腰を折る。
抱えて出るのは、枯れた薔薇の鉢だけである。家具は実家へ、棺は夫へ。冷えた鉢の縁が掌に食い込む。手に残す物は、これ一つでいい。
◇
馬車は三日、蹄と車輪の音を連れて走った。
字義の男は、喋らない。王都の石畳を打つ蹄の音が途切れ、車輪の下が土に変わって埃の匂いが入り込んでも、腕を組んだまま窓の外を見ている。二日目が終わるまで、言葉は一日目の夕方の一往復だけだ。
「棺は?」
「返した」
訊いたのはわたしで、答えたのは彼である。
二日目は雨、三日目は風である。湿った革の匂いが薄れ、枯れた鉢の土が、揺れるたび乾いた音を立てる。
三日目の昼、彼が鉢を顎で示す。
「それは持ってきたのか?」
「嫁入り道具ですもの。法のとおり、持ち主が動かすのですわ」
「枯れているぞ」
「ええ。けれど、鉢は枯れておりませんわ」
彼は枯れ枝と鉢を見比べるように考え、頷いた。
「そうか」
この人は、昔から言葉を余らせない。帳の余白まで切り詰めるような人だ。
夕方、乾いた風に土埃が混じるころ、砦が見える。
屋敷というより、冷えた石の壁に屋根を載せたものだ。傾いた光を石が鈍く返し、門の前には、白い髭の老人が背筋を伸ばして立っている。
「殿、お戻りであります。……そちらは」
「ロザだ。机を頼む」
老人はわたしを見て、一度だけ瞬きをする。白い髭を息で揺らし、それから深く頭を下げる。
「砦の家令であります。自分はロザモンド様とお呼びいたします。十年、殿からお名を伺っておりますので」
「どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
門を抜けた先の部屋には石壁の冷えが沈み、大きな樫の机があった。上には紙が一枚だけ載っている。ラインハルトが机を顎で示す。
「机だ。全部、頼む」
「承知しました」
十年の癖で、答えは考えるより先に口から出る。そのあとで、彼を見上げる。
「ただし、ご注文は紙でいただきますわ。口だけでは、あとで言葉を違えたと言われますので」
「書く」
彼は机の上の紙を裏返し、筆を取る。乾いた部屋に、筆先の擦れる音と墨の匂いがひろがる。彼は短く書く。
〈机に座る者、一名。給金は辺境の相場。日取りは本日から〉
字が大きい。紙を押さえ込むような、剣を持つ手で書く字だ。
「辺境の相場は、おいくらですの?」
「知らん。家令なら知っている」
「兵と同じであります」
「では、兵と同じでお願いいたしますわ」
承認の欄に署名を入れる。紙の目に筆先がわずかに掛かるが、棺の見積書に名を書いたときと、同じ速さである。
「一名、と書いてくださいましたのね」
「一人しか要らん」
彼は言い切ると、窓の外へ目をやる。
「この机は、以前どなたがお使いでしたの?」
「先の奥様であります。殿のお母上が、ここで請求を読んでおられました」
「その頃の帳は、まだ残っておりますかしら?」
「捨てておりません。倉に、全部そろっております」
「では、明日いただきますわ。読ませてくださいませ」
砦の家令が、裏返す前の紙をそっと表に戻す。端が黄ばんだ古い紙から、乾いた埃と墨の匂いが立つ。そこに一行だけある。
〈請求は、全部払え。ラインハルト〉
「自分は十年、この一枚で払ってまいりました」
机は、十年、空いていた。
女主人の署名が要る払いを、当主の一枚で通してきた家である。
「王都の酒屋の請求も、これで通したのですの?」
「はい、であります。王都の値のままで」
「辺境で、王都の値を払っていたのですね。値を訊いたことは、一度もございませんの?」
「訊けば、殿のお手を煩わせてしまいますので」
「では、これからは煩わせて差し上げてくださいませ。実際に煩うのは、わたくしですけれど」
ラインハルトは何も言わない。乾いた風に紙の端だけが揺れる。全部、と書いた本人である。
わたしは古い紙のざらつきを指先に受けながら、新しい紙の下へ重ねる。
「この紙は、今日で役目を終えますわ」
「はい、であります」
「明日から、請求は全部わたくしが読みますわ。払うのは、読んでからです」
砦の家令が、腰の鍵の束を持ち替える。
「兵の給金も、この机でお扱いになりますか?」
「ええ。名と額を、一つずつ帳へ写してくださいませ」
「……一つずつ、でありますか?」
「払いは、人の数だけございますもの」
砦の家令は、それを聞いて初めて、白い髭の奥をやわらげて笑った。
◇
客棟は本棟と廊下で繋がっている。鍵は砦の家令が持ち、扉を開けてわたしを通す。
客間には、炉の火が赤く息づいている。頬へ届く熱が、石壁の冷えを押し返す。
今夜のために焚いた火ではない。炉の石が奥まで黒く、灰は厚い。薪の爆ぜる音に、木と煤の匂いが重なる。
窓辺には、鉢が一つ。何も植わっていない。辺境の乾いた土だけが縁まで入り、表には細いひびが走っている。
「この火は、今夜のために焚いたものではありませんわね」
「客間の薪は、十年、この一枚で」
「十年も。誰も泊まらない部屋に」
「殿の言い付けであります。迎えに行く先の火を、絶やすな、と」
炉のほうへ目をやる。火が薪の内側を赤く噛み、ぱちりと爆ぜる。
「殿はこの部屋をご覧になりますの?」
「いいえ。十年、一度もご覧になっておりません」
「火を絶やさぬために、薪は毎晩ですのね」
「毎晩であります。当番を決め、その名を帳に載せております」
窓辺の鉢へ目を移す。乾いた土のひびが、帳に引いた線のように見える。
「……では、この鉢は」
「土だけは、毎年入れ替えております。辺境の土であります」
「土を入れ替える、というご注文でしたの?」
「土を絶やすな、と。それだけであります」
砦の家令は、それだけ言って扉を閉める。廊下から、鍵の束が触れ合いながら遠ざかるような音だけが残る。
『死ぬときは辺境の土に。迎えに行く』
十年前、辺境の門で、乾いた土と蹄の音のなか聞いた言葉である。あのとき、わたしは舞う埃の向こうへ笑って手を振っただけで、次にその言葉を帳から取り出したのは、見積書が届いた朝である。
この人は、その言葉を帳へ書いた注文のように、字義どおり守っていた。迎えに行く先を用意し、炉の火を絶やさず、乾いた土まで入れて、わたしを待っていたのである。
十年、他人の払いばかりを承認してきた。そのあいだずっと、この部屋の薪の払いは、受取人の名を空けたまま、わたしのために帳へ立っていたことになる。
枯れた薔薇の鉢を、空の鉢の隣へ置く。底が窓台に触れて、乾いた音がした。二つ並べると、片方だけが茶色い。
息を吸うと、乾いた土の匂いが、炉の煙とともに胸の奥へ落ちる。
帳の言葉で言うなら、十年ぶんの薪の払いが、今夜ようやく品目と受取人の欄に合った。
翌る朝、机に着くなり、石壁の向こうから蹄の音がせわしなく響く。埃の匂いをまとった早馬が来る。
砦の家令が王都の紋の封を切り、外の冷えを含んだ紙をわたしの前へ置く。封蝋の細かな粉が樫の木目へ落ちる。書状の頭に、夫の言葉がそのまま写してあった。
〈妻ロザモンドを、速やかに返されたし〉
見積書を読むのと、同じ速さで読む。紙の冷たさだけが指先へ残る。棺を注文した男が、今度は妻を注文している。
「ロザモンド様、この書状は……」
「こちらも、ご注文ですわ」
砦の家令が、封蝋の欠片を掌に集める。粉まで逃がさぬ手つきである。
「お返事は、いかがなさいますか?」
「承れる項目と、承れない項目とがございますわ」
「返す、とは……何を、でありますか?」
「返す物は、葬儀の朝に、全部お返ししましたのに」




