2. 弔辞は、故人が読みます
ひと月が過ぎる。瓶は日ごとに減り、窓辺の薔薇は花を落とし、葉を縮れさせて、茶色の骨のようになった。乾いた葉からは、指で触れずとも苦い匂いがする。夫は日に一度、瓶の減りを見に来る。瓶の首へ目を寄せ、減っているのを確かめると、何も言わず扉を閉める。七日には、案内状が五十家へ出ている。
十日の朝。屋敷は光を吸う黒布に覆われ、弔いの鐘が鳴る。低く長い音が床板から足の裏へ這い上がり、燭台の火を細く揺らす。冷えた寝台から起き、嫁入り道具の黒を着る。鏡の中の顔色は、白粉を落とせば戻った。
夫が寝室の扉を勢いよく開け、黒布の影を背負って立つ。喪服ではない。
「何の真似だ、これは?」
「旦那様のご注文どおりですわ。棺も、日取りも、名簿も、一項も変えておりません」
「取りやめだ」
「ご注文の変更には、注文主の署名がいります。葬儀屋が広間で控えを開いております。皆様の前で、どうぞ」
夫の顎が動くのに、言葉は出ない。廊下の向こうで、弔問客のざわめきが波のように上がる。馬車の音が門の外で幾つも重なり、窓硝子をかすかに震わせる。
「……酔狂だと言っておく」
「ご随意に。弔辞は、そのあとにいたします」
◇
広間に五十家の客が並び、祭壇には閉じた棺が横たわる。黒布の染料と百合の甘い匂いが混じり、燭台の火は息を潜めるように揺れている。喪主席に、わたしが座る。五十家の視線が、生きている喪主へ集まる。扇の陰で、囁きが行き来する。亡くなったはず。立っておられる。言葉は黒布に吸われても、耳には届く。夫は祭壇の脇の長椅子に、背を固く伸ばして座った。
弔辞を、故人が読む。わたしは紙の手ざわりを指に確かめ、墨の黒い行へ目を落とす。
「故人ロザモンド・ヴァイセンベルクは、十年、この屋敷の払いを一枚残らず検めてまいりました。冬の薪。使用人の給金。厨房の塩。猟犬の餌代。承認、ロザモンド。承認、ロザモンド。十年で何枚になったかは、故人も数えておりません」
家令が最初に泣いた。使用人が続く。厨房の者も、厩の者も、廊下に並び、声を漏らさぬよう肩を震わせる。薪の一本、塩のひと匙。わたしの目には帳の小さな行でしかなかったものが、紙の裏では温かな食事や明るい炉になり、こんなに大勢の暮らしを支えている。
「故人は、この屋敷の灯りを一度も絶やしませんでした。今朝の鐘の代金も、故人が承認しております。これが、最後の承認でございます」
夫は一項ごとに青ざめ、鐘のところで目を伏せた。扇が幾つか動くのをやめ、広間には燭台の芯が爆ぜる音まで響く。
「故人が承認しなかった紙は、十年で一枚もございません。本日の見積書もまた、故人の承認でございます。棺一つ、喪服一着、日取りは本日。すべて、ご注文のとおりに」
夫の目が、棺から床へ落ちる。そこにも、逃げ込める欄はない。
「故人の遺志により、嫁入り道具は法のとおり、実家へお返しいたします」
嫁入り道具は妻の持ち物で、生きているあいだはどこへでも動かせる。家令の合図で、使用人が銀器を、燭台を、壁の織物を、扉の外へ運ぶ。磨いた銀の光も、火も、壁を飾った色も、音を立てて広間から引いていく。
家令が足を止め、わたしの顔を確かめるように振り返る。
「奥様、紋のある物だけを、間違いなく運んでおります」
「ええ。その紋が、嫁入り道具の印ですもの」
広間が一つずつ、嫁いできた日の前へ戻っていく。飾りを失った壁は白く冷え、靴音ばかりを返した。
夫の座る長椅子の前で、家令が背筋を伸ばして足を止める。
「旦那様、その長椅子も嫁入り道具でございます。恐れ入りますが、お立ちくださいませ」
夫は立つ。長椅子が床を擦って運び出され、夫は祭壇の脇に、立ったまま残る。扇の陰で幾つかの肩が震え、押し殺した息が黒布を揺らした。
扉が開く。遅れて入ってきた女の喪服は、襟の形が葬儀屋の仕立てだ。新しい黒布だけが燭台の火を艶やかに返す。名簿の名と、廊下を走った噂の名が、一つの体に重なる。
「その喪服は、見積書にございました。寸法は、旦那様が別にお渡しになったもの。――よくお似合いですわ」
「まぁそうですの?! あたくし、本当に何も存じませんわ」
「お届け先は、男爵未亡人様のお屋敷でございましたとも。伯爵様から、そのようにご指示をいただいております」
葬儀屋が控えから顔を上げて言う。女は喉元を隠すように扇を開く。
「まぁ……、なんて失礼なことですこと」
「喪服は、そのままお持ち帰りくださって結構ですわ。払いは、わたくしの署名ですでに済んでおります」
「ふんっ!」
女は衣擦れの音を引きずりながら、壁際へ退いた。
家令が祭壇へ、鉢と封をした小瓶を運ぶ。湿り気を失った土の匂いが広がり、百合の甘い匂いを押しのける。
祭壇には、枯れた薔薇の鉢。
「こちらの薔薇には、滋養の薬を毎朝欠かさず注ぎました。旦那様のお言い付けどおりに」
「なっ! こ、これは……妻の病を案じて、備えただけだ」
侍医が衣の裾を整え、杖を床へついて立つ。
「伯爵様はわしに、『衰えの診断書を用意しておけ』と仰いました。ですが、奥様に病はなく、処方もしておりません」
法務官が夫から小瓶へ視線を移し、低い声で問う。
「処方が無いのなら、その瓶は何だ?」
「薬師に検めさせました。灰の根――毎朝ひと月飲めば、衰えて死ぬ毒ですな。封をした小瓶は、家令が見届けております」
「封には、わたくしの署名と日付を入れてございます」
葬儀屋が笑うのをやめ、両手で控えを開く。紙の擦れる音だけが、広間の張りつめた空気に立つ。
「妻の棺を一つ。日取りは来月十日で。――こちらは、伯爵様ご本人のお言葉でございます。前例のない注文ゆえ、一字も違えておりません」
「そ、備えだ備え!」
法務官が法衣を鳴らし、夫を正面から見据えて立つ。
「伯爵夫人の死は、認めかねる。代わりに、伯爵の害意を認める」
ざわっと広間の空気が、一度に抜ける。燭台の火が細くなり、誰かの扇が床へ触れた。
「離縁を、ここに申し立てます」
離縁届をうやうやしく法務官に手渡した。
「うむ……。妻の離縁の申し立ては、本官がこの場で認める。妻が没すれば伯爵の手に残るはずだった持参金金貨三千枚は、法のとおりノルトハイム子爵家へ返還する。伯爵は、王の法廷へ出頭されたい」
「――私の屋敷だ」
「もちろん屋敷は伯爵のものである。だが妻は、違う」
その時だった。荒々しい蹄の音が、門から広間まで一息に駆けてくる――。
石を打つ響きが床を揺らし、乱暴に扉が開く。汗ばんだ馬と乾いた埃の匂いが流れ込み、黒布の染料と百合の匂いを鋭く割る。燭台の火が、吹き込んだ風に大きく傾いた。
濃い金色の髪を揺らし、体格の良い男が靴音を響かせながら故人に歩み寄る。
「おぉ、ロザモンド! 文が追いついたのは、国境の砦だ。三日、駆けた」
「お疲れ様でございます。ずいぶん、埃だらけですわ」
「ははっ! 三日ぶんだ」
ラインハルト・ヴェストマルク辺境伯は、棺へと歩き、ガシッと蓋つかむと強引に開けた。埃だらけの外套から乾いた匂いを振りまきながら、中を覗き込む。
もちろん棺は、空である。
「ふっ、なんという話だ……。ははっ」
わたしを見て、一度だけ短く笑う。十年前と同じ、片方の口の端だけが上がる笑い方だ。馬車の窓越しに見たその形が、古い帳の文字のように胸の奥へ残っている。
「故人もビックリでしてよ、ふふっ」
「生きているなら、連れて帰る」
「故人ですが、まだ、死んではおりません」
「死ぬときは辺境の土に、俺が迎えに行く。十年前に言った。生きているなら、話が早い」
「薔薇は、枯れてしまいました」
「株なら、辺境にいくらでもある」
埃だらけの手が、鉢の縁に触れる。乾いた土が指先へつき、辺境の風に似た匂いが立つ。
「王都の土では、十年かけても、小さな花しか咲きませんでしたわ」
「辺境の土なら、放っておいても咲く」
署名のときも震えなかった指が、今は言うことをきかず震えている。棺の見積書に名を書いたときも、弔辞を読んだときも、紙の上では動かなかった指だ。
「ライ……」
「ああ」
彼はゆっくりとうなずいた。
「棺は、空のまま旦那様へお返しいたします。ご注文の品ですもの」
「そうしろ」
自分の指を強く握り込み、震えを掌の内側へしまう。弔辞の紙を置き、黒布に囲まれた弔問客のほうへ向き直る。
「本日はわたくしの葬儀にお運びいただき、ありがとうございました。――では、行ってまいります」
パチパチと、まばらな拍手が巻き起こり、使用人たちは目頭を押さえた。




