1. 妻の棺を一つ
「妻の棺を一つ。日取りは来月十日で。喪服も一着――寸法は、別に渡す」
葬儀屋の見積書は、頭に注文主の言葉をそのまま写す習わしである。誰が、どの口で、何を頼んだか。あとで言葉を違えたと言わせぬ知恵だと、いつか葬儀屋本人から聞いた。その一枚が、いつもの請求書の束に紛れ、指先にだけ違う重みを寄越している。朝の光が窓から斜めに差し、紙の粗い目と、まだ新しい墨の黒を浮かせていた。
伯爵家の払いは、一枚残らずわたしの机で承認される。署名が無ければ、暖炉にくべる薪の一本も、厩に敷く藁ひと束も買えない。三十のわたしが十年、この机で指を黒くしながら見てきた紙は、全部そうだった。仕立屋、酒屋、蹄鉄屋、薬屋。どの紙にも、品目と数が並んでいる。
棺一つ。
棺の寸法は、わたしのものだった。
喪服一着。
喪服の寸法は、わたしのものではない。
日取りは来月十日。案内状は名簿の五十家へ、三日前に葬儀屋が出す。供物の花、弔いの鐘、祭壇の布の色まで書いてある。よく出来た注文である。わたしが直すべき帳尻は、どこにも残されていない。
扉が開き、廊下の冷えた空気が足元を滑ってくる。夫がこの居間へ来るのは、狩りの払いのときだけだ。今朝は、狩りの季節ではない。
「顔色が悪いな。医者には私から話してある。滋養の薬を、毎朝欠かさず飲め」
「承知しました」
茶色の瓶と匙が、硬い音を立てて机に置かれる。見積書のすぐ横である。栓の隙間から、薬草の苦い匂いが漂う。夫は自分の置いた瓶も、その横の紙も、見ようとしない。
「瓶が空になるまで続けろ」
「はい。ひと月ほどでございますね」
「数えるな。医者の見立てに従って、飲め」
夫は返事を待たずに出ていく。靴音が廊下を遠ざかり、扉の閉まる音でぷつりと切れる。顔色が悪い、と言われた。ならば、悪くしてみせる。頼まれた務めは、何であれ、そのとおりに果たすのがわたしの仕事である。
家令が束を取りに来て、見積書の前で足を止めた。紙をめくる乾いた音まで止まり、居間には時計の針だけが残る。この屋敷に来た日から、わたしの署名を最初に受け取ってきた人だ。
「奥様、この棺の寸法は……」
「仕立屋の請求書で、毎季見慣れている数ですわ」
棺の行を指でなぞる。この地方では棺に遺体の身体に合わせた装飾が施されるが、その長さと、幅に見覚えがある。ざらつく紙の上を、仕立屋の寸法を見るときと同じ速さで指が進み、自分の体を囲う数を読む。どれも、皮膚へ定規を当てたようにぴたりと合っている。
「ええ、ぴったりですわ」
「奥様。この見積書は、まさか……」
「さて……。どなたの葬儀かわかりませんが、この葬儀は、わたくしが仕切りますわ」
署名を入れる。筆先が紙を引っかく音も、墨の匂いも、黒が乾いて鈍くなる早さも、ほかの請求書と変わらない。自分の寸法が請求書に載ったのは、十年でこれが初めてである。家令は束を胸に抱え、紙を潰さぬよう腕へ力を込めたまま、低く言った。
「爺は十年、奥様の署名で給金をいただいてまいりました」
「では、この一枚も、いつもと同じように」
◇
翌日、侍医を呼ぶ。薬礼も、十年わたしの机を通っている。呼べば来る人であり、来れば本当のことを言う人だ。
老いた侍医は脈を取り、瞼の裏を見て、舌を見る。乾いて温かい指から、薬草と石鹸の匂いがかすかにする。
「奥様に、病はございません」
「あら、そうですの?」
「旦那様が先にお話しになったと、伺っております」
侍医は膝の上で指を固く組み、しばらく黙った。窓の外では庭師の鋏が葉を断ち、そのたび、澄んだ音が静かな部屋へ刺さってくる。
「先週、『妻はひと月ともたぬ。衰えの診断書を用意しておけ』と仰せでした。書けませんと申し上げ、奥様のお顔を診てから動くと決めておりましたが……。今日のお呼びが先でしたな」
「書かずにいてくださいまし」
瓶を差し出す。侍医は栓を抜いて匂いを吸い、すぐに顔を背けて眉をしかめる。
「わしの処方ではございません。薬師に検めさせましょう。小瓶に分けて、封を」
家令が燭台の火へ蝋をかざし、封の上へ落とす。机に小さな音が鳴った。まだ赤く、冷えきらない蝋の上に署名を入れ、日付を添える。墨の黒が、蝋の照りに映る。
「封は、爺が確かに見届けましてございます」
「ええ。それも、忘れず書いておいて」
「はい」
侍医が椅子を軋ませ、机を越えるほど身を乗り出す。
「奥様、これは今すぐ、法務官へお届けください」
「それではダメですわ。見積書は、ただの備えと言い抜けられます。瓶は、騙されて買ったものだと」
侍医の眉が深く寄り、組んだ指の節から色が失せる。
「では、どうなさいますか?」
「旦那様のお言葉を、旦那様のお客の前で、ご自身に認めていただきます。葬儀は、ご注文どおりに執り行います」
「死んでもおられぬ方の葬儀を、執り行うのですかな?」
「棺は注文済み、日取りも、名簿も揃っております。足りないのは、故人だけですわ」
侍医は当日の証言を約束して帰った。窓辺の薔薇の鉢は、嫁入り道具の一つ、辺境の株だ。王都の土では育ちが悪く、それでも十年、春ごとに小さな花をつける。匙に一杯。匙から落ちた液は、湿った土へ音もなく吸われていく。鼻を刺す匂いだけがしばらく漂い、土の上には色も跡も残らない。
薬は毎朝、薔薇の鉢へ注いだ。
◇
その翌日、葬儀屋が来る。署名が戻ると本人が確かめに来る習わしである。小柄な男で、黒い上着の袖口だけが、紙を扱う手のそばで妙に白い。指へ染みた墨を隠すように手を揉みながら、楽しげに喋る。
「ご承認、確かに頂戴いたしました。さて、ご変更はございますか?」
「一項も変えません。足すだけです。喪主は、妻本人。それから――」
弔辞を読む者の欄が、口を開けたように空いている。喪主の欄も、同じに空いている。夫は、その二つだけを埋めなかった。
「弔辞は、故人が読みます」
葬儀屋の手が止まる。揉んでいた指が宙で開き、袖口の白さが目につく。
「前例がございません。……ですが、前例を作るのは葬儀屋の本懐でございますとも、はい」
「本懐でしたら、どうぞご遠慮なく」
「はい。それはもう。喪主席は、お棺のお隣でよろしゅうございますか?」
「ええ。そのほうが、読みやすいでしょうから」
葬儀屋が控えに書きつける。走る筆先を、わたしは請求の内訳を検める目で追う。
「弔辞のご用意は、手前どもにお任せいただきましょうか?」
「いいえ。故人が書きます」
「お棺の蓋は、閉じたままになさいますか?」
「ええ。中身は、皆様のご想像にお任せします」
葬儀屋は控えを繰り、喪服の欄を指で軽く叩く。
「喪服のお届け先につきましては、伯爵様から別に伺っておりますとも」
「ご注文どおりに」
「鐘は、何度お打ちいたしましょう?」
「ご注文どおりに」
訊かない。一項も変えないとは、そういうことだ。訊けば、その言葉が帳へ移り、わたしの注文になる。
名簿を繰る。五十家。厚い紙の上に、黒い名が整然と並んでいる。法務官の名がある。貴族の死は法務官が検めて認めるから、喪家は必ず名簿に入れる。男爵未亡人の名もある。噂は、屋敷の払いより早く耳に入り、帳より長く残る。
「案内状を、一通だけ足します」
案内状の文言を、自分の手で写す。宛先はヴェストマルク辺境伯。十年前、辺境の門でわたしを見送った人だ。馬車の窓越しに、乾いた風と馬の匂いをまとい、いつもの声で言った。死ぬときは辺境の土に。迎えに行く。そう言った人である。あのとき、わたしは笑って手を振った。二十の娘には、帳のずっと先にある遠い話である。
文は読まれるものとして書く。実家の習わしだ。生きているとは書かない。案内の文言だけを写し、その下に名を書く。墨をよく乾かしてから封をし、家令を呼ぶ。
「早馬で。辺境伯領までは、馬で三日ですわ」
「はい、奥様」
「戻りは待たなくてよいと、そう伝えて」
「はい」
その日から、白粉を薄くし、食事は半分残す。頬へ影を落とし、食卓では匙を早く置く。顔色は、作るものである。
鏡の中の顔へ、声に出して言う。
「では――故人の支度に、かかりましょう」




