9. 扉は、開けません
夜の客棟を照らすのは、廊下の燭台一つきりである。扉の下の隙間に、その火の色だけが細く届く。
扉の内で、わたしは椅子に座っていた。灯りは消してある。窓の外には雲が厚く垂れ、石の壁の冷えが衣越しに背中へにじむ。隣の部屋からは、未亡人の衣擦れが、乾いた紙を撫でるようにときどき聞こえた。
廊下には若い兵と、もう一人の気配がある。書き付けは、砦の家令から若い兵へ渡った一枚だけで、紙の音からすれば、もう一人は扉の脇に立っているはずである。
靴音が、静まり返った廊下の奥から近づいてくる。
「どけ」
「誰であっても、です!」
若い兵の声は、婚礼のときより大きく、扉の板を震わせた。紙を掲げているのだろう。わたしの署名が、燭台の火を裏から含んで透けているはずだ。あの墨の匂いは、まだ鼻の奥にある。
「私の妻だ」
夫の声は、扉のすぐ向こうにある。隔てるのは板が一枚きりだ。王都の寝室では、これより遠く、閉じた帳の向こうにあるような声を聞いていた。
「故人でございます。扉は、開けません」
一拍置いて、隣の部屋の扉が、蝶番をきしませて細く鳴る。
「あたくしも、開けませんことよ」
未亡人の声である。わたしは冷えた扉の板へ、帳に但し書きを添えるように、もう一言だけ足す。
「お隣は、ご注文の付き添いの方ですわ。身の回りを見てくださっております」
隣の扉の向こうで、扇の骨が乾いた音を立てた。
「あたくしの扉も、きちんと閉まっておりましてよ。見たとおりを、法廷で申しますわ」
廊下で、若い兵の息が喉につかえる音がする。紙を下ろす気配はない。
「伯爵の私に、こんな扉を――」
「殿の言い付けです! 客棟の扉は、机の書き付けどおりです!」
「私も客だ」
「客棟の扉は、日暮れから開けない。誰であっても、です。伯爵様も、客です」
扉の向こうで、靴が一歩、床を強く鳴らす。若い兵の靴音は返らない。たぶん一歩も引いていない。
「使用人ごときが」
「自分は兵です! 給金は、机の署名でいただいています。この書き付けも、机から出たものです!」
夫が扉を叩く。一度、二度。乾いた音が、木の板を通ってわたしの背中まで震える。わたしは椅子から立たない。棺の見積書のざらつきを指先に覚えた朝と、同じ座り方である。
「開けろ。夫の命令に従え」
「旦那様のご注文は、棺一つ、日取りは来月十日でございました。扉の項目はございませんわ」
「……項目、項目と――」
「項目でございます。十年、そればかりを読み続けてまいりましたもの」
板の向こうで、息を吸う音がした。衣の擦れる音が、わずかに遠のく。夫は扉から半歩下がったのだろう。
「私が来たのだ。妻が扉を開けぬ道理はない」
「道理なら、書き付けにございますわ。日暮れからは、誰であっても」
「私は十年、お前に不自由をさせなかった」
「ええ。払いはいつも通っておりました。承認の欄には、いつもわたくしの名がございます」
隣の扉が、また細く鳴る。扇の骨が触れ合う乾いた音は、廊下の板を伝って足元まで届いた。
「伯爵様。あたくし、廊下のお声は全部聞いておりましてよ」
「……明日になれば開ける」
「明日は、日暮れまで開けておりますわ。ご用がおありでしたら、机へお越しくださいませ」
三度目の音は、来ない。遠い炉の火がはぜる音だけが、冷えた石壁へ小さく響く。
代わりに、重い靴音が廊下の奥から近づく。若い兵が、殿、と言う。そのあとの息が、わずかに長い。
「辺境伯、ちょうどいい。この扉を開けろ」
「開けん」
「妻の部屋だ。夫の私が入る。お前が止めるなら、拐かしだ。殴れ。拐かしの証になる」
沈黙が落ちる。扉の板越しに、二人の男の息の間合いだけが分かる。床板は鳴らず、燭台の芯がはぜる音だけが残る。
わたしは膝の上で手を重ねた。帳をめくり続けた掌に、紙の乾きが残る。板の向こうで何が起きているのかは、音でしか分からない。分からないまま、扉は開けない。開ければ、書き付けも署名もただの紙になる。
「俺も、入れない。書き付けに、誰であっても、とある」
「お前の屋敷だ。お前の書き付けではない」
「机の書き付けだ。机は、あの人のものだ」
「……字義の男め」
「そうだ」
板が一枚、二人の声を薄くしている。それでも、どちらの声も低くならない。言葉が、閉じた帳の表紙のように硬くぶつかる。
「その字義で、私の妻をこの屋敷に囲っている」
「囲ってはいない。客棟だ。鍵は、家令が持っている」
「鍵の話ではない」
「鍵のお話でございますわ。この扉は、鍵と書き付けで閉まっております」
代言人の筆が紙を擦る音が、廊下の端から届く。辺境伯も入れず、と書いたのだろう。墨の匂いまで、扉の隙間から入る気がする。
夫は、それきり扉を叩かない。代わりに靴音が客棟の奥の客間へ遠ざかり、扉が乱暴に閉まる音が石壁を打つ。廊下には、若い兵と、もう一人と、それからもう一つの靴音が残っているのだろう。動く気配は、板越しには来ない。
わたしは椅子に座ったまま、朝まで灯りをつけなかった。扉の板一枚の向こうには、人の気配が同じ場所に留まっているらしい。棺の見積書に署名した朝、家令が束を抱えて立っていた場所と、同じ近さだ。あの紙の重みが、膝の上の手へ戻ってくる。
夜のあいだに、雨の匂いが窓の隙間からしみ込んでくる。膝は石のように冷え、指もこわばっていく。それでも、板の向こうの気配は、一度も場所を変えない。
◇
朝の白い光が窓へ差すと、廊下の物音が静かになる。
扉を開けた。冷えた朝の空気と、燃え尽きた蝋の匂いが流れ込む。若い兵が、目の下を赤くして立っている。
「殿は、一晩、ここに立っておられました。一歩も動かれずに。今しがた、門へ」
「一晩?」
「誰であっても、です。殿も」
若い兵の襟は、夜のあいだの湿りを吸って色が濃い。廊下の板には、靴の跡が二つ、同じ場所へ沈むように残っている。
「あなたも、一晩ですわね」
「自分は、婚礼を出していただいた身です!」
声が大きく、朝の石壁に跳ね返る。廊下の奥で、未亡人の扉が細く開いて、また閉まる。
「では、今日の払いに、一晩ぶんを足しておきますわ」
「一晩ぶんとは、幾らですか?」
「日当どおりですわ。夜の割増は、砦の帳にございませんもの。今日から、帳へ足しておきます」
「……はい!」
字義の男は、自分の言葉だけでなく、他人の言葉も字義で守る。わたしは廊下の燭台に残る、燃え尽きた蝋を見た。冷えて固まった白さが、朝の光を鈍く返している。
門の前では、朝の風が辺境の乾いた土を巻き上げ、その埃の向こうで夫は馬車に乗るところである。代言人が、法廷の日取りを耳元で告げている。
夫は馬車の段に足を掛け、埃を含んだ風の中で振り返った。
「辺境伯の屋敷にいる。それが、お前の落ち度になる」
「客棟でございます。鍵は、砦の家令が持っておりますわ」
門の内で、兵が馬を引いてくる。蹄が乾いた土を打つ音と、埃の匂いが近づく。夫は、その音のほうを見ない。
「法廷で、お前が生きていると言わせる」
「法廷では、王のお呼びどおりにいたします」
「妻として呼ばれるのだ」
「呼ばれた名で、参りますわ」
夫は段に足を掛けたまま、しばらくわたしを見ている。埃まじりの風が頬をかすめる。王都の居間で、月に一度、狩りの払いを言いに来たとき、帳の数字だけを見ていた顔とは違う。
「……お前は、十年、一度も私に逆らわなかった」
「ええ。今も、逆らってはおりません。ご注文どおりに、しているだけですわ」
馬車の扉が乾いた音を立てて閉まる。若い兵と兵たちが、蹄で土を鳴らしながら馬を並べる。ラインハルトが門の脇で、砦の家令に短く言う。
「客は、領境まで送る」
砦の家令が頭を下げ、兵が馬を出す。蹄が門前の乾いた土を打ち、埃の匂いが朝の風にほどける。馬車が門へ向かう。その窓の布を、夫は下ろした。
若い兵が、土を蹴り、門の外からわたしのほうへ駆け戻ってくる。夜を越した声が弾んでいる。
「ロザモンド様。門の外に、王の使いです!」




