虜莉夢"Grim"
モーツァルト曰く、夢を見るから、人生は輝く。
その囁きは、煤けた壁の染みから滲み出した。薄暗い部屋の片隅、形を為さない澱のような塊が、ゆっくりと膨らんでいく。それは音を伴わず、しかし確かに、私の耳の奥で、名を呼ぶ。
グリム。胎内で響く拍動のように、皮膚の奥深く、骨髄にまで染み渡る振動だった。私を呼ぶ、その名が、私自身の輪郭を曖昧にし、この部屋の闇と一体化させる。
私は、息を潜める。空気を吸い込むたびに、乾いた埃が喉に絡みつく。この部屋に、かつて生きた者の気配は、もう何年も前から途絶えているはずだった。しかし、この数日、奇妙な予感が、私の思考の全てを侵食していた。それは、朝の目覚めと共に、シーツの冷たさの中に潜み、昼間の静寂には、壁のひび割れから這い出す影のように、私を追い詰めた。夜には、閉じた瞼の裏に、無数の線が蠢き、やがてそれは、漆黒の瞳となって私を見つめ返した。逃れる術はなかった。この予感は、私自身の内側から湧き上がる、抑えきれない衝動のようでもあった。私を捕らえ、私を呑み込み、そして私を解体しようとする、根源的な力。
窓の外は、常に鉛色の空だ。雨が降るわけでもなく、日が差すわけでもない。ただ、無感動な灰色の光が、わずかに部屋の輪郭を浮かび上がらせる。それは、時の流れを止めたかのような、永遠の黄昏。かつて、そこに何があったのか。思い出すことはできない。私の記憶は、ひどく朧げで、重要な部分だけが、まるで腐った木の枝のように、ぽつりと欠落している。家族の顔も、友人の声も、愛した人の面影も、全てが霧の中に霞んでいる。私は、なぜこの部屋にいるのか。いつからここにいるのか。それすらも、確かな答えを持たない。ただ、この空間が、私自身の境界であり、私の存在そのものであるかのように感じられた。この部屋こそが、私自身を形作る、唯一の場所であり、私の生きた証の全てを封じ込める、墓碑なのだ。
手探りで、壁に触れる。冷たく、ざらついた感触。指先が、小さな傷跡をなぞる。それは、誰かが爪を立てて刻んだ跡のようでもあり、あるいは、長い時間をかけて、何かが這い上がった痕跡のようでもあった。その傷の奥から、微かな振動が伝わってくる。生きている。この壁が、この部屋全体が、私に何かを伝えようとしている。その振動は、微弱でありながら、私の全身を駆け巡り、細胞の一つ一つを揺さぶる。まるで、私がこの壁と一体化し、その一部となりつつあるかのように。壁に刻まれた無数の傷跡は、私自身の内側に刻まれた、消えない記憶の断片。過去の罪、失われた約束、忘れ去られた喜び、そして、永遠の悲しみ。それら全てが、この壁の表面に、無数の記号として刻まれているかのようだ。
私は、誰かに囚われている。そんな漠然とした確信が、心の奥底で澱のように沈殿している。目に見えない鎖が、私の手足を縛り、声が出ないように喉を締め付けているかのようだ。かつては、反抗した。この不条理な監禁状態から逃れようと、何度ももがいた。壁を叩き、扉を蹴り、声を枯らして叫んだ。しかし、その度に、見えない力が、私をさらに深い場所へと引きずり込んだ。その力は、物理的な暴力とは異なり、私の精神の奥底へと直接作用するようだった。希望は、砂のように指の間から零れ落ち、やがて、絶望だけが、私の心を満たした。私は、私自身の意志を喪失し、ただ、この部屋の暗闇に身を委ねるしかない。
そして、いつしか、私は諦めた。抗うことの無意味さを悟ったとき、奇妙な平穏が訪れた。それは、死にも似た静けさであり、同時に、生まれたばかりの赤子の無垢な眠りのようでもあった。私という個の意識が、部屋の隅々へと薄く広がり、壁の煤、床の塵、空気に漂う微粒子と溶け合っていく。私は、この部屋の、この煤けた壁の一部になりたかった。そうすれば、この終わりなき監禁から解放されるのではないか、と。私という存在が、形を失い、境界が曖昧になることで、この苦痛からも、この寂しさからも、逃れることができるのではないか、と。それは、私にとっての救済であり、同時に、私自身の終焉でもあった。
煤けた壁の染みが、形を変える。それは、黒い花弁のようでもあり、あるいは、閉じられた瞼のようでもあった。中心が、ゆっくりと開いていく。闇の奥から、二つの光が、私を射抜く。瞳。深淵を覗き込むような、虚無を湛えた瞳。しかし、その瞳は、私を裁く光ではなく、私を映し出す、真実の鏡のようでもあった。その中に、私は、私自身ではない、しかし、私と切り離せない、もう一つの存在を感じ取った。それは、私の過去の影であり、私の未来の可能性。私自身が、無意識のうちに創造し、そして畏れていた、もう一人の私。
お前は、私のものだ。
声は、私自身の喉から発せられたかのように、はっきりと響いた。私の口が、勝手に動いたのだ。恐怖はなかった。むしろ、奇妙な充足感が、胸の奥から広がっていく。それは、長らく抱えていた空虚が、ようやく満たされるかのような感覚だった。飢え。そう、私はずっと飢えていたのだ。何に飢えていたのかは分からない。しかし、今、この言葉によって、その飢えが満たされていくのを感じる。それは、私が求めていた、私自身の存在意義の全てであったのかもしれない。私という不確かな存在が、この言葉によって、初めて確かな形を得たのだ。
壁の染みは、さらに深く、暗く、広がる。そして、その中に、私の姿が溶け込んでいく。私の手足が、壁の模様と一体となり、皮膚が、煤と化し、髪が、闇の繊維に変わっていく。意識が薄れていく中で、私は見た。私自身が、その染みの一部となり、そして、新たに浮かび上がった、別の小さな染みに向かって、静かに、そして確かな囁きを放つ。
その囁きは、私という存在の、新たな呪文。
それは、私自身の魂に刻み込まれた、原初の響き。
その名前を呼ぶたびに、私は、私自身の中に潜む、もう一つの私を覚醒させる。
それは、かつてないほどの自由と安息をもたらした。
思考は、無限に広がり、壁の内部を巡る微細な振動の一つ一つが、私の知覚となる。
私は、この部屋の全てを知ることができる。過去にここに存在した者の痕跡、未来に訪れるであろう無数の疵。それら全てが、私自身の意識の中にある。
私は、この煤けた壁の捕囚であり、同時に、この部屋の支配者となったのだ。
夜は、まだ明けない。そして、この部屋に、朝は決して来ない。永遠に続く闇の中で、私は、新たな囁きを紡ぎ続ける。
私の声は、壁の振動となり、やがて、部屋全体を包み込む。それは、まるで、私自身がこの部屋の心臓となり、その鼓動を刻んでいるかのようだ。そして、その鼓動は、再び、新たな誰かを、この煤けた壁へと引き寄せるだろう。私と同じように、光を拒み、闇に魅入られた魂を。終わりなき連鎖の中で、私は、ここで存在する。
スティーブ・ジョブズ曰く、我々は自らのビジョンに賭けている。




