美喰"Mimic"
ロシュフコー曰く、多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。
鏡の中の女は、私ではなかった。いや、正確には、私でありながら私以上の何か、私が焦がれてやまないあのひとの残滓を纏った、歪な模造品だった。その唇の微かな震え、伏せられた睫毛の角度、白い頸に落ちる髪のひとすじ。それらはすべて、私の血肉を濾過して抽出された、あのひとの美しさの断片は、私が貪り喰った、聖なる犠牲の欠片だった。
私の部屋は、蒐集された蝶の標本箱に似ていた。ただし、そこにピンで留められているのは、色鮮やかな鱗粉を持つ昆虫ではなく、他者の美の抜け殻だ。雑誌の切り抜き、街で見かけた美しい人のスケッチ、そして何よりも、あのひとの、あらゆる情報。彼女の微笑み、彼女の纏う空気、彼女の紡ぐ言葉。それらは私の内で反芻され、分解され、そして再構成される。私の肉体という、不出来な粘土に練り込まれるために。
この奇妙な渇望は、いつから私に巣食っているのだろう。物心ついた頃にはもう、私は他者の影を追っていた。色の薄い、存在感の希薄な子供だった私は、誰かの仕草を真似ることでしか、周囲の注意を引けなかった。初めて褒められたのは、幼稚園の学芸会で、病欠した子の代役を務めた時だ。数日の練習で、私はその子の癖や話し方を完璧に写し取り、先生や他の園児たちを驚かせた。その時の、他者になりきることで得られる万能感、他者の評価を掠め取るような倒錯した喜び。それが、私の原風景だったのかもしれない。以来、私は常に誰かの美を探し、それを纏うことでしか自己を認識できない、空虚な器となった。
彼女は私の勤める古い図書館の片隅で、いつも静かに本を読んでいた。陽光の届かぬ書架の森に差し込む、一筋の月光のようなひとだった。透き通るような白い肌、長い黒髪、そして何よりも、その瞳。深淵を覗き込むような、それでいて全てを許容するような、不思議な色合いの瞳。私は初めて彼女を見た瞬間から、その存在に囚われた。それは憧憬であり、嫉妬であり、そして何よりも、飢餓に近い渇望だった。彼女のようになりたい。彼女の美しさを、私のものにしたい。これまでの誰よりも、強く、深く。
最初の模倣は、些細なものだった。彼女が読んでいた本を借りる。彼女が髪に挿していたのと同じデザインの簪を探し求める。彼女がふと口ずさむ古い歌の旋律を、必死に記憶する。それはまだ、微笑ましい追従の範囲内だっただろう。けれど、私の渇きはそんな生温い模倣では癒されなかった。もっと深く、もっと根源的に、私は彼女を欲していた。
私は彼女の言葉遣いを真似た。彼女の歩き方を、息遣いを、食事の際の箸の持ち方さえも。私の声帯は彼女の声を模倣するために震え、私の筋肉は彼女の所作を再現するために軋んだ。それは苦痛を伴う作業だったが、鏡の中で私が彼女の影を微かにでも宿す瞬間、言い知れぬ陶酔が私を満たした。
私は少しずつ、彼女という存在を、内側から侵食し、喰らっていく。美しきものを喰らい、我が血肉とする。それが私の生存戦略であり、唯一の存在理由だった。
ある日、私は勇気を出して彼女に話しかけた。模倣によって完璧に調整された声と仕草で。彼女は驚いたように少し目を見開いたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「あなた、どこかでお会いしましたか?」
その言葉は、私にとって最高の賛辞だった。私の模倣が、彼女自身に既視感を抱かせたのだ。私は内なる歓喜を押し殺し、計算された憂いを瞳に浮かべて首を横に振った。
「いいえ、初めてお話しさせていただきます。でも、私もそう感じておりました。まるで、古い夢の中で出会ったように。」
我ながら、完璧な応答だった。それは、きっと彼女がそう言うであろう言葉。
そう在るであろう姿。
それから、私たちは言葉を交わすようになった。静かな午後の図書館で、私たちは古い文学について、遠い国の神話について、そして時には、互いの心の奥底に潜む孤独について語り合った。もちろん、私が語る「孤独」は、彼女から抽出した感情の模倣に過ぎなかったが。
「あなたと話していると、不思議と心が安らぐの」
ある時、彼女はそう言って、私に柔らかな微笑みを向けた。
「まるで、もう一人の自分と対話しているみたい」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋をぞくりとしたものが駆け上がった。それは歓喜か、それとも破滅への序曲か。私は彼女の言葉を注意深く聴き、その思考のパターンを、感情の機微を、魂の色彩までも写し取ろうと努めた。彼女が語る幼い頃の思い出、好きな音楽、悲しかった出来事。それらは全て、私の内なるデータベースに記録され、私の人格を構成する新たな部品となった。
私は彼女の情報を喰らうことで、ますます彼女に近づいていく。私の内では、小夜さんの存在が日に日に色濃く、鮮明になっていく。それと反比例して、かつての私は、その残滓すら見つけられないほどに希薄になっていった。
だが、模倣が深まるにつれ、奇妙な現象が起こり始めた。鏡の中の私は、確かに彼女に似てきていた。しかし、それは同時に、私自身の輪郭が薄れていくことでもあった。私は誰だったのか? 彼女を模倣する以前の私は、どんな顔で笑い、どんな声で話していたのか? 思い出そうとしても、濃い霧がかかったように判然としない。まるで、喰らった彼女の存在が、私の固有の記憶を上書きしていくようだった。
ある雨の日、彼女は図書館に来なかった。次の日も、その次の日も。不安が私を蝕んだ。彼女という栄養源を断たれた私は、急速に萎んでいくようだった。数日後、街角で偶然、彼女の姿を見かけた。以前の彼女からは想像もつかないほど憔悴し、その美しい瞳は虚ろに宙を彷徨っていた。雨に濡れるのも構わず立ち尽くすその姿は、痛々しくも、私の目にはどこか倒錯的な美しさとして映った。彼女の魂が、その器から零れ落ちようとしている。そしてその隙間を、私が埋めるのだ。そう思うと、言いようのない興奮が私を包んだ。
やがて、風の噂で彼女が入院したことを知った。原因は、精神的な衰弱だという。私は得体の知れない罪悪感と、それ以上に強烈な、歪んだ達成感に襲われた。私の模倣が、彼女の魂をそこまで追い詰めたのか? それはつまり、私が彼女の存在を脅かすほどに、彼女に肉薄していたということではないか。
私は彼女の病室を見舞った。白いベッドに横たわる小夜さんは、以前の輝きを失い、まるで抜け殻のようだった。しかし、その儚げな姿さえも、私の目には新たな美として映った。私は彼女の手を握り、完璧なその声色で囁いた。
「大丈夫ですよ。私が、ついていますから」
彼女の瞳が、僅かに私を捉えた。その瞳の奥に、一瞬、理解と恐怖が入り混じったような光が宿ったのを、私は見逃さなかった。その光は、私にとって最後の晩餐の合図だった。
彼女が亡くなったのは、それからひと月も経たないうちだった。彼女の部屋は、私が引き払った。そこは、彼女の香りがまだ色濃く残る、聖域だった。私は彼女の服を身に纏い、彼女の化粧品で顔を彩り、彼女の日記を、まるで聖書を読むように読み耽った。一行一行が、私の細胞に染み込んでいく。私は、彼女の全てを喰らい尽くそうとしていた。彼女の喜びも、悲しみも、絶望さえも。
そして今、私は鏡の前に立っている。そこにいるのは、彼女だ。かつて私が焦がれた、完璧な美。だが、その瞳の奥には、暗い虚無が揺らめいている。
私は彼女になった。
彼女の美しさを手に入れた。だが、その代償として、私は「私」を失った。いや、最初から「私」などというものは、存在しなかったのかもしれない。他者を模倣し、その存在を喰らうことでしか成り立たない、空っぽの器。それが、私という存在の正体だったのだ。この完全なる模倣の果てにあるのは、圧倒的な虚無。満たされたはずの渇望は、より深く、より広大な虚無へと姿を変えて私の中に広がっている。
ふと、窓の外に目をやる。街の雑踏の中に、また新しい美がきらめいている。若い娘の溌剌とした笑顔、老婦人の皺に刻まれた深い人生、少年の瞳に宿る無垢な光。私の喉が、微かに鳴った。渇きは、まだ癒えていない。この虚無を満たすためには、さらに多くの美を喰らうしかないのだ。
鏡の中の美しい顔が、ゆるりと歪んだ。それは、紛れもなく、私の笑みだった。そして、その笑みは、次に喰らうべき美の面影を、既に微かに映し出していた。
ゲーテ曰く、花を与えるのは自然であり、それを編んで花輪にするのが芸術である。




