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縁迦抄  作者: 撚火
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堕落"Dark"

アリストテレス曰く、深い闇の中にいるときにこそ、光を見つけることに集中しなければならない。

 誰もが、陽の差す方へ行きたがる。

 けれど私は、それが痛かった。光の粒が肌に触れるたびに、私の内側の影が軋んで悲鳴をあげた。

 だから、私は背を向けた。何度でも、何年でも。


 影に包まれることが、堕ちることだと誰かが言った。

 それは正しかったのかもしれない。けれど、私は救われていた。


 電球の切れた部屋のなかで、私は静かに息を吐いた。

 ベッドの端には、本が一冊、ページを開いたまま伏せられている。もう数日そのままだ。文字は読み取れる。だが、意味が胸に落ちてこない。

 読んだそばから、記憶が後ろへ溶けていく。


 時間だけが、私を通り抜けていた。


 携帯電話の着信は止んで久しい。SNSの通知も、今では誰の足跡も残さない。

 世界は賢明だった。私のようなものを、忘れることに長けている。


 窓の外から子どもの声がする。夏休みだろうか。ひどく遠い世界に思える。

 私は、そっと立ち上がり、冷蔵庫の前に立つ。水が少し残っていた。

 瓶の口に触れると、微かに唇が震えた。それは、泣いているわけではない。もう涙の出し方を、忘れてしまっただけだ。


 部屋の片隅に、小さな鏡があった。

 その表面には埃が積もっている。私はそれを拭わなかった。

 映らない自分を見る方が、映る自分を見るより楽だった。


 かつては違った。

 私は光を目指していた。純粋で、清らかで、傷のない場所を求めていた。

 だが、どれだけ登っても、そこに届くことはなかった。むしろ、

 登るたびに、

 昇るたびに、

 私の影だけが濃くなった。


 そして私は気づいたのだ。

 上ではなく、下へ。

 陽ではなく、闇へ。

 求めるのではなく、拒まれることでこそ、私は私になれるのだと。


 それが堕落と呼ばれるなら、それでもいい。

 私は、その呼び名に、奇妙なほどのやすらぎを覚えた。


 真夜中。

 私は布団に入る。

 照明はつけない。

 目を閉じたとき、瞼の裏に広がる漆黒が、唯一の居場所だと思えた。


 光の中では、自分が見えすぎる。

 闇の中では、自分がようやく、在ってもいいと思える。

樋口一葉曰く、清いものは常に穢れたものの中から生まれいで、光り輝くものは常に暗闇の中か生まれでる。

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