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縁迦抄  作者: 撚火
11/12

孕供"Hug"

和泉式部曰く、黒髪の、乱れも知らず、うち臥せば、まづかきやりし、人ぞ恋しき。

 私は、どうしてしまったというのか。


 私の、髪の感触だけが、やせこけてしまったであろう私の感覚に反比例して、やけに強く感じられた。 寂しさはとても、良く聞こえる。 遠く耳鳴りの音がして、じっとりと肌に染みこみ尽くしたかのような、粘着質な水がこれ以上ないというくらいの異常な私の眼球、というよりはむしろ今は只の空虚になりさがった其れをさらに冒して涙のように腐汁がだくだくと滴った。


 ここは海の底だから、アナタはいないから、とても寂しいのだと、私は唐突に気付いた。 それから、ゆっくりと、私は足を不格好にばたつかせて、本当にゆっくりと、感じられるその方向に向かって進みはじめた。 黒々とした海水は光を通さないけれども、私は私の指先の隅々まで澄み渡り突き抜けるような強烈な衝動と快感と悪寒にも似た喜びの震えに充たされていた。 もうすぐ、漂った年月にすればほんの僅かの後に、あなたにあえる。


 暗黒の海を渡る時、話す相手も無い。 のっぺりとした貌の深海魚たちや後はどうにも名状しがたい形状の、まるで磯巾着のような者達で、昏海の底では私はただ泳ぐ他は無い。


 泳ぎはじめてからますます貴方に逢いたい気持ちは募っていく。 何故なのかは分からないし、これは恋とかそういうものでないことを知っているのだけれども、まるで凄烈が整列しているかのような当然の陶然に押し流されていくかのように気持ちは重なり澱のように凝っている。 ゆっくりと液体と同化しつつあった私の躯は、染みこんでくる潮流と、フジツボのアクセサリーを纏って漂う大きな海草のように、見えるかも知れない。


 やがて私は、魚の群が躯を通過するのを感じた。 光が僅かに射し込むところまで昇っていた私の肋骨の間をするすると抜けて、小さな小さな愛しい稚魚が、一時体を震わせながら、向こう側に抜けていく感じの光景だった。そのうちの何匹かが弾いた白い欠片は砂のそこに沈んでいった。 私は段々と躯を失っている。


 私は海辺に近づこうとして、波に巻き上げられた屑の山に突っ伏した。私はほとんど髪の毛だけのようになってしまっていたから、どうということもないのだけれど、髪の毛に絡んだ網の切れ端が酷く不快だ。 編み込まれた繊維の束が、私の髪に食い込んでいる。 痛みはないのだけれども酷く不格好だろう。 それでは意味がない。私は僅かばかり残った歯を立てた。 何度も何度も。 網が藻屑に変わってしまうまで。


 私は砂浜を昇った。 すっかり小さくなってしまった私は、夜の中では大きく黒い亀のように見えるかもしれない。 そう言えば亀も背中の甲羅に苔が生え、まるで髪の毛の用に長くなることがあるとも聞いたことがあった、ように思う。 海の冷たさは夏も冬もそう変わるとは思えないくらいに深いのだけれど、今は少なくとも夏ではない。 海の家が閉じているから。 私が海に棲み憑いたのは何時だっただろうか。 私の足はもうなかったけれども亀のような歩みというよりは転がって、ゆっくりと進んだ。 ああ、だけれども、朝が来てしまうから。 私は饐えた匂いを蓄える、黒々洞とした土管に潜り込んだ。 下水だろうか。 鼠のキィキィという鳴き声の他には、どこからかこの腐った臭いのする液体が流れ込む音が断続的に、微かに聞こえる。 私はゆっくりと奥に進んだ。 洞穴に立ち入ることはどこか隠されたものを感じずにはいられない。 私も子供の頃、色々な穴に立ち入ったものだった、はずだ。 近所の洞穴から秋芳台の鍾乳洞まで思い出すことができなくもない。 鍾乳石は今の私のように艶々としていたことを良く覚えている。 ああ、やはり寂しさは聞こえる。 早く、この刮目せざるをおえない渇望を満たすことはできないものか。 脳裏に濃密な濃淡が描かれて、貴方の影を形作る。 きっともうすぐだろう。


 下水道のその先から、下水より下種な貴方の存在が香る。 待ち望んだものだ、是は。 ほんの僅かな、だけど確かに香る鉄の匂い、芳香にも似た、体液の香りが確かに掴める。


 私は思いだした。 貴方に逢いたいその理由を。 私は、もう、頭蓋骨に黒髪がへばりついただけの存在に過ぎないけれども、眼窩に填る水晶もないけれど、身を飾り立てるのは香水ではなくて下水の香りで、髪に飾るのは単なる枝の欠片にすぎないのだけれども。


 貴方が私にしたように。

 きっと私も、貴方を殺してあげる。


 この体を砕きながら、貴方の場所に遡って、貴方の為に大事に大事にしたこの長い髪で、貴方の息をそっと止めてあげましょう。 ゆっくりと貴方が私のようになっていくのを、よろこびもしないでひっそりと見つめていましょう。 ぷっつりと糸の切れた操り人形のように、貴方の手が段々と下がって、青白い棒のようになって、貴方が辺りにたちこめるまでずっとそこに居てあげたい。


 貴方を殺して私は海に還ります。


 あゝ、あゝ、本当に。 

 私は母に成りたかった。

太宰治曰く、地獄の思いの恋などは、ご当人の苦しさも格別でしょうが、だいいち、はためいわくです。

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