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縁迦抄  作者: 撚火
10/12

蛍"Hot Tar"

蛍兵部卿の宮曰く、鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは。

 灯りの点かない部屋の中で、私は何かを喉に詰まらせたように咳き込んだ。肺からではなく、もっと奥、そう、例えば脳幹のような場所から、咳が上がってくる感覚。

 口を押えて吐き出したものは言葉ではなく、ただ、細く淡い光だった。ほたる。


 それは私の内部から這い出てきた。まるで記憶という記憶がすべて光を帯びて、夜の中を徘徊しようとしているようだった。


 また、出たんだね。


 その声は、私の記憶にしか存在しないはずの姉のものだった。姉は十年前、夜の池に身を沈めた。それ以降、彼女の姿を見た者はないはずだった。


 けれど、私は今ここで、彼女の声を観測している。

 いや、観測している私という主体そのものが、もはや私の肉体の外に追い出されたような、そんな気がしてならない。


 ねぇ、あんた、あのとき、どうしてあたしを引き留めなかったの?


 そうだ。

 あの夜、私たちは互いに体を抱きしめ合っていた。夏の虫の声が耳朶を舐め、彼女の肌が生暖かい泥のようだった。


 言い訳など幾つでもできる。言葉が出なかったとか、足がすくんだとか。だけど、真実は違う。私は、姉がそこに沈むのを、どこかで美しいとさえ感じていたのだ。


 私の中から、また一匹、ほたるが漏れた。喉の奥から、血と共に。


 懐かしいね、あの池。ほら、岸辺に伸びていた草の匂い、覚えてる?


 姉の声はあまりに甘美だった。甘やかで、そして毒がある。

 私はふと、鏡を見る。そこに映っている私は、今の私ではなかった。むしろ、かつての姉の姿に近い。

 頬が痩け、目は深く窪み、爪には泥が詰まっている。


 もうすぐだよ。


 吐き気がした。

 けれども、それは私自身の咽喉からではなく、むしろこの空間そのものが、私という存在に拒否反応を起こしているようだった。


 私は姉になりつつあった。


 そしてそれは、私が望んだことではなかったか?


 嗚呼、螢がまた一匹、私の口から抜け出ると同時に、焦げたような匂いがした。


 それは熱した汚泥のようだった。

渋沢秀雄曰く、死んだ子の年をかぞふる螢かな。

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