蛍"Hot Tar"
蛍兵部卿の宮曰く、鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは。
灯りの点かない部屋の中で、私は何かを喉に詰まらせたように咳き込んだ。肺からではなく、もっと奥、そう、例えば脳幹のような場所から、咳が上がってくる感覚。
口を押えて吐き出したものは言葉ではなく、ただ、細く淡い光だった。ほたる。
それは私の内部から這い出てきた。まるで記憶という記憶がすべて光を帯びて、夜の中を徘徊しようとしているようだった。
また、出たんだね。
その声は、私の記憶にしか存在しないはずの姉のものだった。姉は十年前、夜の池に身を沈めた。それ以降、彼女の姿を見た者はないはずだった。
けれど、私は今ここで、彼女の声を観測している。
いや、観測している私という主体そのものが、もはや私の肉体の外に追い出されたような、そんな気がしてならない。
ねぇ、あんた、あのとき、どうしてあたしを引き留めなかったの?
そうだ。
あの夜、私たちは互いに体を抱きしめ合っていた。夏の虫の声が耳朶を舐め、彼女の肌が生暖かい泥のようだった。
言い訳など幾つでもできる。言葉が出なかったとか、足がすくんだとか。だけど、真実は違う。私は、姉がそこに沈むのを、どこかで美しいとさえ感じていたのだ。
私の中から、また一匹、ほたるが漏れた。喉の奥から、血と共に。
懐かしいね、あの池。ほら、岸辺に伸びていた草の匂い、覚えてる?
姉の声はあまりに甘美だった。甘やかで、そして毒がある。
私はふと、鏡を見る。そこに映っている私は、今の私ではなかった。むしろ、かつての姉の姿に近い。
頬が痩け、目は深く窪み、爪には泥が詰まっている。
もうすぐだよ。
吐き気がした。
けれども、それは私自身の咽喉からではなく、むしろこの空間そのものが、私という存在に拒否反応を起こしているようだった。
私は姉になりつつあった。
そしてそれは、私が望んだことではなかったか?
嗚呼、螢がまた一匹、私の口から抜け出ると同時に、焦げたような匂いがした。
それは熱した汚泥のようだった。
渋沢秀雄曰く、死んだ子の年をかぞふる螢かな。




