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縁迦抄  作者: 撚火
12/12

賛朽界"Sanctuary"

カール・ヒルティ曰く、愛なくしては、なんびとも、すぐれた才能を持っている人でさえ、幸福ではありえない。

 思うに、現実というものと空想というものの間に一体どのような違いがあるというのだろうか? 想うに、事実というものほど脆く崩れやすい物は無い。 私は、永く真実というモノを考えたいと愚考する次第だが、夢がいつか必ず現実になる為の犠牲を要求するが故に、この私の聖域の中にとどまるばかりである。


 夢の中で、隣にいる貴方と語り合うたびに、私は幸せに包まれている。 私は、きっと前の世でも、その前の夜でも貴方と巡り会うたびに生まれてきたのではないかと考えるほどに、また、この世でもそうであるに違いないことを願うほどに、私は、それを真実と受け止めている。 貴方と私がここにいることは紛れもない事実で、私はそれが故に、濃密で、密接な時間を過ごすことを諦めないでいる。


 逆説的に言えば、今、現在のこの状況が著しく私を祝福しているということであろうか。 ジキル博士とハイド氏、あまりと言えばあまりに有名なこの小説は、薬物によって入れ替わる二つの善と悪、多重の人格、多段の魂を描いていたが、私が描くのは単なる朽ちた葉にも似た、独善的で寄せ付けぬ、言うなれば偽善と、冷血と、薄ら笑いの組み合わせからなるものに過ぎない。


 蠅の音が、五月蠅い。 そういえばそろそろ夏だ。 八月は既に過ぎてしまう。


 人の脳は不可思議、人間こそは予測不能、なれど、私自身にとっては私自身が予測不能である。 性格、人格といったものは経験の積み重ねから生まれる、或る事象にとっての対称としての連鎖でしかない。 脆い、モノ。 だが経験が本当に私を変えるのだろうか。 事実として、私は何も変わっていないのではないでしょうかと誰にともなく問いかける。


 罪は、あるのだろう。 記憶と認識は常に存在する。 ただ、それを止めることができないだけだ。 人を裏切った記憶、思い返せば偽善としての私は、跪いて神に許しをこう他は無く、人を傷つけた記憶、忘れようとしても忘れえぬほどの苦痛。 私はそれら全て、自分が自分として行っていることを知っているというのに、その瞬間の私の人格はそれを止めることをまるで許さず、私の手足をまるで糸の植え込まれたマリオネットのようにしなやかに動かし、私の口から奈落を吐き出す。 求めるかのような吐息と言葉が霧のようだ。


 その言葉は偽りでしかない。 私は、知っている。 私は知っている、この体が清らかではないことを。 涙を流そうとそれは代わらない。 心をも清らかでなどあり得ない。 私は凪の上に立つ波のような、黄昏時の梟。 故にこそ、私は貴方に捧げたのだ、偽りでも真実にはなるのではないかと期待をしていた。 今、真実になっているではないか。 私は、マリオネットのようにしなやかではもうないかもしれないけれど、薄ぼんやりとした蛍光灯の下で目をつぶることならばできるのだから。


 さっと、月光が窓辺から落ちてきた。 私を嘲笑うでもなく慰めるでもなく、其処にはただただ寂しさが在った。 想うにこれは現実。 月光は黄泉を照らすとは言うけれど、ここが黄泉ならば、私にとっての苦痛に充ちていた天国で、今は幸福な地獄だ。


 私の魂は所詮作り物。 しかもセルロイドのような硬質の感触が寄せ集められて、脳の中で再構成されただけにすぎない。 吊し上げられた百舌鳥の早贄にも劣る、徹底して意味がない魂。 そして、私の言葉も作り物、作り物から生まれた紛い物。 だから、悲しいという感情も愛しいという言葉も泥まみれ。 泣いているのは私。 隣にいる貴方ではない。 雨の音も聞こえない。 月の光がまだ在ると確信として信仰する。


 嗚呼、貴方の腕の中に入る度に涙が伝う。 意識で真実が霞む。 どろりとした液体のような独特の臭いが私を満たしてくれる。


 やがて、月は沈んで瞳の宵も明けぬままに、朝が来る。

 くるくると回るかのような、朝が来る。


 いつもとまるで変わらない朝。 まるで私自身が無限の時が織るメビウスの輪に紛れ込んだかのような既視感に次ぐ危機感を内包した朝。 嗚呼、だけど、それは。 とてもとても、幸福なものであって。 それを捨てることがためらわれるほどの歪な朝。


 これは私の聖域だ。 朽ちていくことを理性で理解していても。 それならば、私は朽ちていくことすら礼讃しよう。 散逸していくものを寄せ集め、崩れ落ちることをも儀式としよう。 時の流れすら止めよう。 私の腕の中で。 嗚呼、それが私の罪と罰。 それでも私はけたたましく嗤うしかない。 全てが段々と像を結ぶ蜃気楼のようだ。 夢が現実になったことが、まるでふわふわした綿菓子のようにしか感じられないから何も分からず、変わっていない私を白い花のような包帯が飾っている。


 だからこそ私は、やはり知っている。貴方を殺してしまったことを。

 

 そして、そこには虫の声だけが広がっていた。

ゲーテ曰く、愛によってのみ、人は自然に近づく。

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