第8話 七日間だけ、水路を疑う
六月一日の朝、水路荘の郵便受けへ町報が届いた。
最初に見つけたのはラビーだった。
彼は店のシャッターを半分上げたところで、束になった紙を一部抜き、いつもの癖で新しい修理相談の広告を探した。そして三面の下、小学生記者欄に目を止めた。
『消えそうな水路を守る、水路荘の公認カップル!』
見出しの下には、ベニーの文章が載っていた。
『イザベラさんとラビーさんは、火花が出た日からいつもいっしょに水路を調べています。リオンさんも、水路荘公認の二人だと言っていました。二人は充電器の無実を守るため、今日も力を合わせています』
ラビーは三回読んだ。
一回目は意味を理解するため。
二回目は、自分の見間違いではないと確かめるため。
三回目は、どこから訂正すべきか考えるためだった。
「おはよう」
背後からイザベラが現れた。鮮やかな黄色の上着を着ている。朝から曇っている日は、自分が太陽の代わりをすると決めているらしい。
ラビーは町報を背中へ隠した。
「今日は読まない方がいい」
「そう言われて読まない人がいる?」
「イザベラは、読むべき物を三週間読まなかった」
「その件を一生使う気?」
「八月三日までは」
イザベラは紙を奪った。
見出しを読み、瞬きを一度した。
「公認したのは誰」
「水路荘」
「水路荘は意思表示できないわ」
「アウネなら、壁が公認したと言うかもしれない」
「本人の確認なく霊感を巻き込まないで」
ちょうど二階から降りてきたアウネが言った。
その後ろにリオンがいた。町報を見た途端、階段の途中で止まる。
「僕は、火花について公認した」
「見出しに火花はないわ」
「本文にはある」
「カップルが大きくて、充電器が小さいの」
「新聞は見出しが大事だから」
「あなた、昨日、人生を切りすぎたと反省したばかりでしょう」
イザベラの声が一段低くなる。
リオンは口を閉じた。
午前九時、七人は共用台所へ集まった。
町報の訂正は後回しにし、七人は本題へ移った。
八月三日の退去期限まで九週間。建物を残す可能性があるのか、退去準備を優先するのか。最初の一週間で集まった情報をもとに、方向を決めるためだった。
イザベラは机の中央へ、二つの紙を置いた。
一枚には「保存を求める」。もう一枚には「退去の準備を進める」。
「どちらかへ名前を書いて」
最初にペンを取ったのはアウネだった。
「保存」
「理由は?」
「壁がまだ働いている」
「人に分かる理由も添えて」
「上流の放水と壁音が連動している。古い水路が完全には死んでいない可能性がある」
ナサンも保存へ名前を書く。
「模型では、A線が果樹園方向へ残っている可能性があります。高低差を測れば、使えるか判断できます」
リオンは保存。
「町の人の記憶が集まり始めている。番組を続ければ、資料も協力者も増やせる」
オルガの件を思い出したのか、最後に「確認を取って」と小さく付け足した。
ラビーも保存へ書いた。
「直せるか調べる前に、捨てると決めたくない」
ドアルは、どちらにも書かなかった。
「現時点では、安全条件が分からない。保存を求めるにも、退去を決めるにも資料が足りない」
「それは三枚目の紙が必要ということ?」
「調査継続だ」
「選択肢を増やす人がいるから会議が終わらないのよ」
イザベラは言いながら、自分もまだ名前を書いていない。
イアムは退去準備へ書いた。
「建物は古い。水路は危険だ。住む場所を失ってから探すより、今から動いた方がいい」
全員の視線が、最後にイザベラへ集まる。
彼女は退去準備の紙へペン先を置いた。
「現実的に考えれば、こちらよ。八月三日までに、店と住居の両方を移さないといけない。保存の審査に何か月かかるかも分からない」
「書かないの?」とアウネ。
「書くわよ」
だが、名前は書けなかった。
昨日、店の荷物を数えた。
衣装用の棚が十二。写真機材の箱が九。祖母の時代から残る背景布が二十七枚。母の遺品箱は、数えないことにした。
移転先の候補は三軒見た。
一軒目は家賃が高く、二軒目は写真撮影の天井高が足りず、三軒目は住居として使えない。
現実的に退去するとは、現実的な行き先があるという意味ではなかった。
「七日間だけにしよう」
ラビーが言った。
「何を?」
「どちらを選ぶか決めるための調査。今日から七日間、役割を決めて調べる。その間、退去先も並行して探す。七日後に、町へ何を求めるか決める」
「もう一週間使ったでしょう」
「この一週間は、火花を消して、箱を開けて、壁の音に驚いて、僕たちが町報で交際を始めるために使った」
「最後は使っていない」
「使われた」
ナサンが小さく笑った。
ドアルが新しい紙を出す。
「期限がある調査なら、担当と成果物を決めるべきだ」
「成果物という言い方、少し嫌」とアウネ。
「七日後に何が残るか、だ」
役割が書き込まれていった。
ナサンは水路模型の修正と高低差の整理。
アウネは台帳、聞き書き帳、筆跡の調査。
リオンは旧水路を使った住民の証言集め。
ドアルは崩落、誤操作、費用を含む安全条件。
イアムは町と学校へ、点検口の所在と開閉許可を確認する。
ラビーは照明、湿度計、水位計など、調査に必要な機器の準備。
イザベラは建物の現状、住人の仕事、旧水路跡の写真記録。
「責任者は?」とドアル。
「専門家のあなた」とイザベラ。
「町との契約上、住民側の責任者にはなれない」
「契約?」
ナサンが顔を上げた。
ドアルは一瞬だけ間を置いた。
「町の水環境に関する助言をしている。住民代表を兼ねれば立場が曖昧になる」
嘘ではないが、封鎖計画の助言者であることまでは言わなかった。
「ならラビー」とリオン。
「僕は機械を直す。人の予定は直せない」
「ナサン」
「人前で説明する役は……まだ」
「アウネ」
「反対意見を聞く前に怒るから向いていない」
「自覚があるんだ」
リオンの言葉に、アウネが睨む。
「リオンは?」とラビー。
「人を集めるのはできる。でも、まとめるのは別の人がいい」
「イアム」
「私は保存に反対している」
全員が、最後にイザベラを見た。
「どうして私なの」
「契約更新の輪番担当だから」とドアル。
「店と住居の両方があるから」とラビー。
「写真で全部を見るから」とナサン。
「断る決断を後回しにしているから」とアウネ。
「最後のは推薦理由になっていない」
「今決めれば、後回しではなくなる」
イザベラは七人分の予定表を見た。
自分の名前を書く場所だけが空いている。
ペン先を紙へ置いた。
「七日間だけよ。六月八日の夜に、必ず結論を出す」
名前を書いた瞬間、胸の奥が少し重くなった。
同時に、不思議なほど足元が定まった。
会議の後、イザベラとラビーは町報の編集部へ送る訂正文を作った。
最初の案は、イザベラが書いた。
『私どもは交際関係になく、火災原因となった延長コードおよび旧水路の調査について協力しているだけです』
ラビーが首を傾げる。
「私ども、って夫婦みたいじゃない?」
「では、あなたが書いて」
ラビーの案。
『イザベラさんとラビーは、互いを尊重する良好な関係ではありますが、公認カップルではありません』
「良好な関係を入れる必要がある?」
「悪い関係だと思われたくない」
「訂正文で互いを尊重しないで」
三案目。
『両名は現在、公認カップルではありません』
イザベラが紙を指す。
「現在、を消して」
「未来まで否定する必要はないでしょう」
「そういうところが誤解を生むのよ」
四案目を作っていると、リオンが覗き込んだ。
「共同声明みたいだ」
二人は同時に振り返った。
「誰のせいだと思ってるの」
「誰のせいだと思ってるの」
声がぴたりと重なった。
リオンは笑いをこらえながら、台所を出ていった。
結局、訂正文は一行になった。
『前号の「公認カップル」は事実確認のない誤記でした。お二人と読者の皆様へお詫びします』
主語も関係も、編集部に任せた。
夜、イザベラは調査予定表を自室の壁へ貼った。
八月三日の退去期限を書いた紙の隣だった。
七日間で、水路を残せるかどうかは分からない。
それでも七日間なら、自分の明日を他人任せにせずに済む。
廊下の向こうで、ラビーが焦げた延長コードを分解している音がした。
壁の奥からは、まだ名前のつかない水音がする。
イザベラは未開封の郵便を一通だけ手に取り、その場で封を切った。




