第7話 洗練された靴は泥を避ける
ドアルの靴は、泥に入ることを想定して作られていなかった。
薄い革は磨かれ、縫い目は細く、つま先には朝の窓が映る。水路荘の廊下を歩くだけで、床板の方が身なりを正したくなるような靴だった。
「その靴で地下へ降りるの?」
イザベラが尋ねた。
「靴は歩くためにある」
「泥を避けて歩くためでしょう」
「泥にも種類がある。粘土質か、砂質かで話が変わる」
「靴の話よ」
五月三十一日。町役場から、建物外周と既存の点検口を目視する許可が出た。開閉や通水は禁止。立ち会う職員を手配する余裕はないため、地上から確認できる範囲に限るという条件だった。
許可書を読み終えたドアルは、台所の壁へ大きな紙を貼った。
「まず、残したいという気持ちと、残せるという判断を分ける」
紙には四つの項目が書かれている。
崩落。
誤操作。
所有権。
維持費。
「旧水路は八十年以上前の石造りだ。内部へ入れば崩落の危険がある。水門を誤って開けば、A線ではなくB線へ水が偏る可能性がある。土地と建物は町有で、住人だけでは決められない。仮に使えるとしても、誰が点検し、誰が費用を負担する?」
ラビーが腕を組んだ。
「修理できるかどうかを見る前に、修理代の話をするんだね」
「直した後に払えないと分かるよりいい」
「現実的ね」
イザベラが小さく頷く。
イザベラは『現実』を先に置かれると、自分の望みを引っ込める。反論できないのではない。望んだあとで失うのが怖いのだ。
「水路荘を残すより、退去先を探す方が――」
「まだ見ていないでしょう」
ナサンが遮った。
普段、誰かの言葉へ重ねて話すことのない青年だった。本人も驚いたらしく、声を出した後で唇を結ぶ。
ドアルは急かさず待った。
「続きを」
「図面では廃止でも、壁の音は上流の放水と変化が合っています。学校の点検口も残っている。現地を見ないで、危険だから封鎖するのは順番が逆です」
「危険を知るために現地を見る。その点は同意する」
「では、結論を先に言わないでください」
「私は条件を言った」
「同じに聞こえます」
ナサンは目を伏せたが、謝らなかった。
午前十時、一行は水路荘の裏庭へ出た。
イアムが昨日見つけた学校の点検口は許可の範囲外なので触れない。今日は、建物北側にある小さな保守口と、床下へ続く換気穴を見る。
保守口は、黄昏色の草に半分埋もれていた。蓋を持ち上げると、梯子が三段だけ見える。その先は土と石で塞がれているように見えた。
「降りられません」とナサン。
「三段目までは地上確認の範囲だ」
「そんな解釈を町役場が認めますか」
「認めない可能性があるから、蓋を開けるところまでと書面にある」
ドアルは縄を腰へ結び、上半身だけ穴へ入れた。
「それ、降りてる」とアウネが言う。
「観察している」
「靴から先に降りている」
ドアルの右足が二段目へ乗った瞬間、泥が崩れた。
洗練された靴が、音もなく茶色へ沈む。
彼は慌てて左足へ重心を移し、今度は左の踵まで泥へ入れた。
ラビーが縄を引き、ナサンが肩をつかむ。穴から引き上げられたドアルは、両足だけ別人のようになっていた。
沈黙の後、イザベラが言った。
「泥にも種類があるのよね」
「粘土が多い」
「靴の話よ」
最初に笑ったのはナサンだった。
口元を押さえたが間に合わず、短い音が漏れた。それにつられてラビーが笑い、リオンが腹を抱える。アウネまで壁に手をついて肩を震わせた。
イアムだけは笑わず、穴の中を見ていた。
「何かある」
彼の声で、皆が静かになる。
ドアルは靴の泥を気にせず、携帯用の照明を差し入れた。塞がれていると思った土の横に、幅の狭い隙間がある。
石の表面へ、白っぽい擦れ跡が続いていた。
「古い傷ではない」
ドアルは指へ泥をつけ、跡の端をなぞる。
「周りは黒ずんでいるのに、ここだけ新しい。何かが最近通った」
「水?」とナサン。
「水だけなら、もっと広く濡れる。流木か、砂利か。少なくとも、完全に乾いたままではない」
換気穴へ細い鏡を差し込むと、奥の石壁に湿り気が見えた。
ドアルは、朝に貼った四項目の紙を思い出していた。
危険だから閉じる。
危険だから閉じる。その判断自体は正しい。だが、今も水が通る場所なら、閉じ方を誤った時の危険も同じだけ考えなければならない。
「見立てを変える?」
イザベラが尋ねる。
「結論は変えない。調査が必要だという結論に変える」
「それを、結論が変わったと言うのよ」
ドアルは答えず、泥のついた靴で石の縁をまたいだ。
その時、上着の内側で携帯電話が震えた。
表示された名前を見て、彼は住人たちから少し離れた。
「マルタ課長」
『許可の範囲は守っていますね』
「目視だけです」
『あなたが住んでいる建物だからといって、助言契約の条件は変わりません。封鎖計画に必要な危険箇所の確認をお願いします』
ドアルは背中へ視線を感じた。
ナサンがこちらを見ている。
「新しい擦れ跡があります。旧枝線が生きている可能性を、報告へ入れます」
『保存を求められているのですか』
「現地で確認した事実を報告します」
『住民側の相談役ではなく、町側の助言者だということを忘れないでください』
「分かっています」
電話を切る。
「役場?」とナサン。
「ああ。今日の確認範囲についてだ」
「何て?」
「許可を守れと」
嘘ではない。
それでも、ドアルは自分の返事が薄い布のように真実を覆ったことを知っていた。
水路荘へ戻ると、彼は靴を玄関の端へ置いた。
いつもなら、その日の汚れはその日のうちに落とす。革が傷む前に泥を拭き、形を整え、乾いた布で磨く。
しかし、その夜は手をつけなかった。
白い擦れ跡を見た時、心のどこかで安堵したことが許せなかった。
旧水路が生きていれば、十年前の自分の判断が揺らぐ。
それなのに彼は、揺らいだことを少しうれしいと思ってしまった。




