第6話 管理人は鍵を一本なくしている
イアムは、なくしたことにしている鍵を、毎晩寝る前に確かめていた。
古い机の一番下。靴下を丸めたもの、妻ミレナの眼鏡入れ、十三年前の新聞。その下に、薄い布へ包んだ平鍵がある。
水滴を二つに分けた印。
壁の金属箱から出てきた真鍮の鍵と、対になる形だった。
五月三十日の朝、イアムは引き出しを閉め、いつもどおり水路荘の共用廊下を掃いた。
昨夜の番組について、住人たちはまだ話している。リオンはオルガへ未編集音源を届けるため早く出た。アウネは彼を許したわけではないが、録音の使用確認書を作って台所へ置いていた。
問題を口にしなければ、少なくとも朝食までは静かに過ぎる。イアムは長いあいだ、その静けさを平穏だと思ってきた。
「イアム」
階段の下からナサンに呼ばれた。
彼は金属箱から出た真鍮の鍵を持っている。
「これ、箱の鍵じゃないですよね」
「箱は別の鍵で開けただろう」
「だから、中に入っていたこれは別の場所の鍵です。柄の印が同じです」
台所には、イザベラ、ラビー、アウネ、ドアルもいた。朝食の途中だったらしく、全員の前に食べかけのパンがある。
イアムは鍵を受け取らなかった。
「昔の点検口に使った平鍵だと思う」
「どこの点検口?」とイザベラ。
「対になった鍵があったはずだ。もう一本は昔なくした。どこに合うかまでは覚えていない」
余計な説明を足せば、自分の口から真実がこぼれそうだった。イアムはそこで言葉を切った。
アウネがじっと彼を見た。
「本当に忘れた?」
「人は年を取る」
「便利」
「年を取れば分かる」
「その頃には、今の質問を忘れているかもしれない」
ラビーが間へ入った。
「鍵そのものを調べよう。町の古い設備なら、役場か学校に同じ印が残っているかもしれない」
「勝手に開けるな」
思ったより強い声が出た。
全員が黙る。
イアムは箒の柄を握り直した。
「古いものは、古いまま閉じた方がいいこともある。点検口の中が崩れていれば危険だ。水路を残したいからといって、先に怪我人を出してどうする」
正しいことを言っている。
だからこそ、胸の奥が苦しかった。
午前八時、イアムは町立小学校へ向かった。
週に三日、校内の簡単な修繕と用務の補助をしている。古い机のがたつきを直し、落とし物を保管し、花壇の水やりをする。子どもは忘れ、壊し、なくす。けれど、たいていは悪気がない。
玄関脇の忘れ物棚には、今日も片方だけの手袋、蓋のない水筒、名前の消えた帽子が並んでいた。
ベニーが、骨の折れた黄色い傘を抱えて来た。
「直りますか」
「骨が一本曲がっている。布も破れている」
「つまり?」
「昼まで待て」
「直るんだ」
「直すとは言っていない」
「でも、昼まで待てって言った」
ベニーは都合のよいところだけ聞く。
イアムは作業室へ傘を持ち込み、曲がった骨を外した。予備の傘から同じ長さの部品を取り、糸で布を縫う。
ベニーは隣で町報の原稿を清書していた。
「昨日、公認カップルを取材しました」
イアムの針が止まる。
「誰だ」
「イザベラさんとラビーさん」
「本人たちは知っているのか」
「水路荘公認だと、リオンさんが言いました」
「何について公認した」
「二人について」
イアムは額を押さえた。
「原稿は大人の担当者に見せろ」
「もう送りました」
「見せたのか」
「送りました」
答えになっていない。
傘を直し終える頃には、給食前の鐘が鳴った。
ベニーと一緒に校内を回り、忘れ物を届ける。帽子は一年生の教室、水筒は体育館、手袋はなぜか理科室の人体模型がはめていた。
「まとめて放送で呼べば早いのに」とベニーが言う。
「自分の物をなくしたと皆に知られたくない子もいる」
「悪いことじゃないのに」
「悪くなくても、恥ずかしいことはある」
イアムは一つずつ持ち主を探した。
最後に残ったのは、名前の消えた青い帽子だった。校庭へ出ると、風が土の匂いを運んでくる。
ベニーが帽子をかぶり、ぶかぶかのつばを持ち上げた。
「これ、僕のじゃないです」
「知っている」
校庭の端を歩いていた時、ベニーが地面の四角い石蓋を踏んだ。
「ここ、音が違う」
彼は何度も靴底で叩く。
石蓋の中央に、長年泥で埋もれていた金属板があった。イアムは布で表面を拭った。
水滴を二つに分けた印。
その下に、細い鍵穴がある。
「水路荘の鍵と同じだ」
ベニーがしゃがみ込む。
「触るな」
「なくした鍵、ここかもしれませんね」
イアムは返事をしなかった。
「鍵をなくす大人は、忘れ物をした子を叱れませんね」
「私は叱っていない。届けている」
「そういうことにしておきます」
どこで覚えた言い方なのか。おそらく水路荘だ。
イアムは校長へ石蓋のことを報告し、周囲へ立入禁止の柵を置いた。鍵を持ってくるとは言わなかった。
夕方、水路荘へ戻ると、ナサンが点検口の位置を地図に書き込もうと待っていた。
「学校に同じ印がありましたか」
「古い石蓋はあった。開けてはいない」
「鍵は?」
「試していない」
「なくしたから?」
「許可がないからだ」
嘘ではなかった。
真実の一部だけを差し出すと、それは時々、嘘より扱いにくい。
深夜、イアムは自室の引き出しを開けた。
平鍵を取り出し、掌へ載せる。
その下から、十三年前の新聞が現れた。
『短時間豪雨、低地倉庫街に甚大な被害』
紙面の端には、浸水した倉庫の写真がある。泥水に浸かった木箱、泣く経営者、消防の車両。
小さな囲み記事には、学校側の被害が軽微だったことも書かれていた。
イアムは倉庫街の見出しへ指を置き、文字を隠した。
隠したところで、起きたことは消えない。
鍵をなくしたのではない。
使わないと決めて、持ち続けている。
あの夜と同じ選択を、もう一度迫られるのが怖かった。




