第5話 声を集める男、声を切る男
リオンが「水路の記憶を集めよう」と言い出したのは、アウネが壁の音を説明し終えた直後だった。
彼は台所の棚へ置いた録音機を見ながら、両手を膝の上に置いている。触ればまた怒られると理解している子どものようだった。
「昔、水路を使っていた人の話が必要なんだろう。だったら、町の人に聞けばいい。短い番組にして流せば、情報も集まるし、水路荘がなくなることも知ってもらえる」
「短い番組って、何分?」
イザベラが尋ねる。
「最初は七分。反応があれば十五分」
「七分で、人の暮らしが分かるの?」
アウネの声には、昨日の録音をまだ許していない硬さが残っていた。
「全部は分からない。でも、入口にはできる」
リオンはそこで一度言葉を切った。
「録音する時は、必ず先に聞く。使う部分も確認してもらう」
「今、決めた?」
「昨日から決めていたことにしたい」
「だめ。今、決めたと記録する」
アウネが帳面へ書き、ラビーが吹き出した。
退去通知を開けてから四日目。水路荘の住人たちは、まだ保存を求めるのか、退去先を探すのかさえ決められていなかった。それでも、古い水路が本当に使われていた頃を知る人が減っていることだけは、全員が認めていた。
翌日、リオンは商店街へ出た。
肩から録音機を下げ、胸元には局名の札をつける。水路町の小さなラジオ局「セレナ声便り」は、商店の特売情報、学校行事、迷い犬の特徴まで放送する。町民にとっては新聞より遅く、井戸端会議より少しだけ確かな媒体だった。
最初に話を聞いたのは、パン屋の裏で椅子を干していた老人だった。
「旧水路? 夏になると足を浸したよ。母親には怒られた。洗い物の水だってな」
「その頃、どこまで水が来ていました?」
「どこまでって、あっちからこっちまでだ」
老人の指は山と空をまとめて示した。
二人目は薬局の主人で、水路に落とした眼鏡を三日後に果樹園で見つけた話をした。三人目は、洗濯場の石鹸がよく泡立った日と立たなかった日の違いを、月の満ち欠けで説明した。
役に立つのか分からない話ばかりだったが、リオンは楽しかった。
話す人の目が、現在の通りを見ながら、そこにない水面を追っていく。その瞬間が好きだった。録音開始前の三秒間、相手が何を話そうかと息を整える音も好きだった。
午後、旧共同洗濯場の近くに住むオルガを訪ねた。
八十歳を越えた彼女は、玄関先の椅子へ腰掛け、録音機を見て言った。
「顔が映らないならいいよ。今日は眉を描いていないから」
「音だけです」
「声にも眉があるだろう」
リオンは意味を尋ねかけ、やめた。そのまま残した方がよい言葉もある。
オルガは、若い頃に洗濯場で夫と出会った話をした。
彼が落とした赤い靴下を拾い、持ち主を探した。見つけた男は、片方だけ青い靴下を履いていた。色を合わせる気がないのかと叱ったことが、最初の会話だったという。
「それから五十年、あの人は靴下を揃えなかった」
「仲がよかったんですね」
「悪い日もあったよ」
オルガは笑わずに答えた。
夫が病気になってから、彼女は十年間、朝と夕方に身体を拭いた。洗濯場が閉じた後も、そこで覚えた布の絞り方が役に立った。年金だけでは足りず、夜に他人の洗濯物を請け負った。水道料金が払えない月には、洗う順番を変えた。
「水路の思い出は、恋の話だけじゃない。水がある日は働けたし、水が少ない日は喧嘩になった。順番を譲れば、うちの洗濯が夜になる。夜になれば、夫の薬を取りに行けない。そういう話だよ」
リオンは録音機の赤い灯を見つめた。
十五分番組の中へ、オルガの話をどこまで入れられるだろう。
土曜日の夕方、最初の番組が流れた。
軽い音楽の後、リオンの声が旧水路の説明をする。老人の足を浸した話、薬局主人の眼鏡、月で泡立ちが変わった話。そして最後に、オルガの声が入った。
『赤い靴下を拾ったのが始まりだったんだよ』
『それから五十年、あの人は靴下を揃えなかった』
番組は、リオンの「水路はたくさんの出会いを運んでいました」という言葉で終わった。
放送後、水路荘の台所は明るい空気に包まれた。
「聞きやすかった」とラビーが言い、イザベラも「赤い靴下は絵になる」と頷いた。
ナサンは地図へ、眼鏡が流れ着いた場所を書き込んでいる。
アウネだけが、何も言わなかった。
「何?」
リオンが尋ねると、彼女は聞き書き帳を閉じた。
「オルガの介護の話は?」
「七分に入らなかった」
「水の順番で薬を取りに行けなかった話は?」
「重くなりすぎる」
「誰にとって?」
返事ができないうちに、台所の戸が叩かれた。
オルガが立っていた。手には紙袋があり、中には赤と青の靴下が一足ずつ入っている。
「番組、聞いたよ」
リオンは立ち上がった。
「ありがとうございました。反響も来ています」
「そうかい」
オルガは椅子へ座らず、録音機の入った鞄を見た。
「私の人生は、そこだけじゃないよ」
怒鳴りはしなかった。
その静けさが、リオンの胸へ深く刺さった。
「楽しいところだけ使われたら、苦しかった十年がなかったことになる。苦しいところだけ使われても、赤い靴下を笑った日がなくなる。どちらも私だよ」
「……すみません」
「謝ってほしくて来たんじゃない。残りを返しておくれ」
リオンは鞄から録音機を出した。未編集の音源を複製し、翌朝、オルガが使える小さな再生機と一緒に届けると約束した。
「次に使う時は、切ったものを聞いてもらいます」
「次があるならね」
オルガは紙袋をイザベラへ渡した。
「展示をするなら使いな。夫の靴下だよ。捨てる機会を逃して二十年になる」
「大切な物では?」
「大切だから、私一人の箪笥に置いておく必要はないんだ」
オルガが帰った後、リオンは番組の編集画面を開いた。
使わなかった部分が、使った部分の三倍以上ある。
彼は放送データを消さなかった。消して謝罪したことにするのではなく、何を削ったのか覚えておくためだった。
その夜、水路荘の玄関脇では、ベニーが町報の小学生記者欄の原稿を書いていた。
小学生記者欄は、担当者が誤字や事実関係だけを確かめ、子どもの表現にはなるべく手を入れない。イアムへ傘を届けに来たベニーは、番組の録音風景も取材すると言い、大人の会話を聞きながら鉛筆を忙しく動かしていた。
「水路荘で一番、息が合っている人は誰ですか」
ベニーに尋ねられ、リオンは考えた。
そこへ廊下の向こうから、イザベラとラビーの声が重なった。
「延長コードが悪いの」
「充電器は無罪です」
二人は火花の原因を説明しながら、まったく同じ速さで歩いてきた。
ベニーの目が輝いた。
「公認ですね」
「何が?」とイザベラ。
「水路荘公認の二人です」
リオンは、仕事の話だと思った。
「そうだな。火花の件に関しては、公認の組み合わせだ」
ベニーは大きく頷き、原稿用紙へ書いた。
誰も、その一行を確認しなかった。
リオンは録音機の停止ボタンを押す。
録音機の停止灯が消えたあとも、リオンは編集画面に残る無数の切れ目を見つめていた。
水路の弁なら、開きすぎれば低い場所へ水が偏る。
声も同じだと忘れないよう、オルガの未編集音源へ『本人確認前・使用不可』と書き加えた。




