第4話 壁の向こうで誰かが水を飲む
アウネは、音を数える時だけ、自分の部屋が好きだった。
水路荘の二階、廊下の一番奥。六畳ほどの小部屋には、資料館から持ち帰った複写資料と、年代別に分けた紙箱が積み上がっている。窓は小さく、昼でも薄暗い。人によっては息が詰まる部屋だと言う。
アウネには、外の雑音を閉め出せる部屋だった。
五月二十八日の午前一時十二分。
机の照明を消し、椅子に座ったまま耳を澄ませる。
こつ。
間を置いて、こつ。
もう一度、こつ。
壁の向こうから、硬いものへ水滴が落ちるような音がした。
三回。
少し間が空く。
こつ。こつ。こつ。
また三回。
アウネは机の上の帳面へ時刻を書いた。
一時十二分。三回。間隔、ほぼ同じ。
音は今夜初めて聞いたものではない。水路荘へ越してきた最初の冬から、雨の前や上流で工事がある日に聞こえることがあった。ただ、他人へ話せば「古い家だから」「鼠じゃないか」「またアウネが何か感じた」と言われる。
最後の言い方が一番嫌いだった。
感覚だけで仕事をしてきたわけではなかった。紙の繊維を見れば、おおよその年代が分かる。筆圧の癖から、同じ人物が何年後に書いた文字か見分けられる。資料の出所を三つ以上確かめてから記録する。
それでも、一度「霊感がある」と知られると、積み重ねた技術まで霊感の付属品にされる。
壁の音が止んだ。
代わりに、石の奥を細いものが吸い込まれていくような音がした。
アウネは立ち上がり、掌を壁へ当てた。
冷たい。
水がないはずの旧水路の上で、石壁だけが夜の川のように冷えていた。
「水が戻りたがってる」
口にした途端、背後の廊下で床板が鳴った。
「今、誰と話してたの?」
寝巻き姿のリオンが、半分眠った顔をのぞかせている。手にはコップがあった。
「水」
「水と話してたの?」
「水が話していたの」
「それは録音――」
「しないで」
リオンは持ってもいない録音機を探すように両手を見た。
「今日はコップだけだよ」
「なら、飲んで寝て」
翌朝、アウネは共用台所で宣言した。
「水が戻りたがっている」
イザベラがパンへジャムを塗る手を止めた。
「昨日の壁の話?」
「三回ずつ鳴っていた」
「何が?」
「壁の向こうで、誰かが水を飲んでる」
ナサンが真剣な顔で尋ねた。
「配管音の可能性は?」
「ある」
「木材の収縮は?」
「ある」
「鼠は?」
「鼠が正確に三回ずつ石を叩くなら、会ってみたい」
ラビーが笑いをこらえた。
「つまり、何かの音ではあるけど、原因は分からない?」
「原因は分からない。でも、音はある。水路に関係している」
「最後だけ断定したね」
リオンが言う。
「分からないことを全部同じ箱へ入れないで。音があることと、原因が分からないことは両立する」
ドアルがコーヒーを置いた。
「記録は?」
アウネは昨夜の帳面を見せた。
三回の音が、時刻と間隔つきで書かれている。
「これを続けるといい。上流の放水記録や雨量と照合できる」
「最初からそのつもり」
褒められたような気がして、アウネは少しだけ腹が立った。自分が証拠を取らずに霊の話だけすると思われていたように感じたからだ。
午前九時、彼女は金属箱から出た二冊の帳面を抱え、町立資料館へ向かった。
資料館は旧裁判所を使った石造りの建物で、外より中の方がひんやりしている。開館前の書庫は静かだった。アウネは担当者の許可を取り、台帳と聞き書き帳を撮影台へ置いた。
まず、紙を調べる。
台帳の古い頁には木綿繊維が多く、後年の頁は機械漉きの均一な紙へ変わっている。インクの褪色も年代ごとに異なる。ミレナの文字は一冊の中で少しずつ丸みを失い、代わりに線が強くなっていた。長い年月、同じ人物が書き続けた証拠だった。
聞き書き帳には、水路町の家庭の名前が並ぶ。
サリア家。午前五時半に洗濯。夫が夜勤のため、昼前は眠らせること。
モンド家。小麦畑へ水を入れる日は、末娘が学校から帰る午後三時より前に終えること。末娘は濡れた道が苦手。
ベルト家。好きなものは焼いた梨。祖父が歯を悪くしてからは、薄く切る。
水の使用記録の隣に、生活が書かれていた。
誰が何時に起きるか。家族の誰が病気か。何を食べると笑うのか。水門の管理台帳としては余計な情報ばかりだ。
だが、余計だからこそ残った人生がある。
アウネは二冊を交互に開いた。
サリア家の洗濯時間が早い日は、分水量が少し増やされている。モンド家の末娘が学校へ通う曜日は、道へ水が溢れないよう閉門が早い。焼いた梨が好きな祖父の家では、果樹園への水を朝に回している。
「水は人の都合を聞いていた」
背後から小さな電子音がした。
振り返ると、リオンが録音機を向けている。
「今の言葉、いいね。もう一度お願いできる?」
「消して」
「資料館の許可は取った。帳面そのものを読んでもらうんじゃなくて、調査の感想を――」
「私の許可は?」
リオンの指が停止ボタンの上で止まった。
「今、取ろうとしてる」
「録ったあとに?」
「忘れないうちに残したかった」
「あなたが忘れないために、私の言葉を勝手に持っていかないで」
書庫の静けさが、二人の間へ戻った。
リオンは再生画面を見せ、その場で削除した。
「ごめん」
「次は先に聞いて」
「次があるんだ」
「先に聞けば」
それ以上は答えず、アウネは帳面へ向き直った。
夕方、水路荘へ戻ると、ナサンが台所で模型の管を洗っていた。赤い果実ジュースは完全には落ちず、透明な管が薄桃色になっている。
「紙の年代は?」
「ミレナが長年書いたもので間違いない。途中で別人が作った偽物ではない」
「生活情報が多い理由は?」
「水を同じ量に分けるんじゃなくて、その家が暮らせるように分けていたから」
イザベラが聞き書き帳をそっと開く。
「好きな食べ物まで必要?」
「必要だったかどうかは分からない。でも、ミレナには必要だった」
アウネは頁の端を指した。
「困り事を聞くだけでは、その人が何を守りたいのか分からない。好きなものを聞けば、水を止めてはいけない日が分かることもある」
イアムは少し離れた席で黙っていた。
夜が深くなるまで、アウネは音を待った。
午前零時四十三分。
壁の向こうから、こつ、と鳴る。
もう一度。
二回で止まった。
今夜は、二回で途切れた。
アウネは時刻を書き、廊下へ出た。リオンの部屋の前を通ったが、起こさなかった。今はまだ、自分の記録にする。
翌朝、町役場の公開情報に、上流工事のため前夜に短時間の試験放水を行ったと掲載された。
アウネは画面の時刻と帳面を見比べた。
放水開始の十五分後、壁の音は三回から二回へ変わっている。
霊の声だったのか、石の継ぎ目を水が打つ音だったのかは分からない。
けれど、分からないものが、何もないことにはならない。
朝食の席で、アウネは帳面を開いた。
「壁は、水が来たことを知っていた」
ラビーがパンを置く。
「今度は、僕たちにも分かるように説明してくれる?」
「する。その代わり、勝手に録らないで」
リオンが両手をテーブルの上へ置いた。
「今日は持ってない」
胸元のポケットから小さな録音機の角が見えていた。
全員がそこを見る。
リオンは黙って録音機を取り出し、台所の棚へ置いた。
アウネはようやく、壁の音を最初から説明し始めた。




