第3話 水は図面どおりに曲がらない
ナサンは、紙の上に引かれた線を信じていた。
線は途中で気分を変えない。昨日と言うことが違わない。正しい縮尺と正しい数値を与えれば、誰が見ても同じ場所へたどり着く。
だから人前で説明するより、図面を描く方が好きだった。
五月二十七日の朝、彼は共用台所の長いテーブルへ、旧水門台帳と町の現在地図を並べていた。夜勤から戻ったばかりで、髪には青果倉庫の冷気が残っている。作業着の袖からは、木箱と土の匂いがした。
台帳は古いが、記録は驚くほど細かかった。
第七分水門から先は二つに分かれ、一方は小学校の脇を通って果樹園へ、もう一方は旧染物工房と共同洗濯場を経て倉庫街へ向かう。水を送る日は、土地の高さと作物だけでなく、洗濯場が混む時刻まで考えて決められていた。
現在の町の地図では、旧水路は灰色の破線になっている。大半に「廃止」の文字が重ねられ、果樹園へ向かう枝線は途中で途切れていた。
しかし、台帳の余白に書かれた補修位置と、現在地図の道路補修跡を合わせると、一本だけ不自然な線が残る。
水路荘の床下から東へ曲がり、小学校の裏を抜ける線だった。
「そこ、もう使われていないはずよ」
コーヒーを淹れに来たイザベラが、ナサンの肩越しに地図を見る。
「記録では、です」
「現実には?」
「分かりません」
「分からないのに、朝からそんな顔をしているの?」
「どんな顔ですか」
「世界で一人だけ答えを知っているけれど、言うと怒られそうな顔」
ナサンは地図へ目を戻した。
答えを知っているわけではない。ただ、気になる箇所がある。台帳に残る最後の補修記録は十年以上前だが、壁の穴から見える石材には比較的新しい水染みがあった。昨夜、ラビーが撮影した写真にも、白い析出物が筋になって残っている。
乾き切った水路には見えなかった。
午前八時までに、住人が一人ずつ台所へ集まった。
ドアルは襟の整ったシャツ姿で、アウネは資料館へ持っていく紙袋を抱え、リオンは寝癖のまま録音機を持っている。イアムはナサンが広げた地図を見て、わずかに眉を寄せた。
「何か分かったの?」
ラビーが尋ねた。
全員の視線がナサンへ向いた。
その瞬間、台所の壁が消えた。
代わりに見えたのは、大学の発表室だった。白いスクリーン。並んだ教授。自分の作った流量計算。最後列から上がった手。
――この係数、単位が違っていませんか。
指摘された途端、頭の中の数字が全部ほどけた。訂正すれば済む誤りだった。だが、口から声が出なかった。沈黙した時間だけが長くなり、誰かが代わりに説明を始めた。
「ナサン?」
ラビーの声で、台所へ戻る。
「枝線が……」
喉が狭くなる。
「枝線が、現在も……その、完全には……」
「彼が言いたいのは、廃止記録と現地の痕跡が一致しない、ということだろう」
ドアルが自然な口調で引き取った。
助けられた。
そう思うより先に、胸の奥が熱くなった。
「まだ、そこまで言ってません」
声が思ったより強く出た。
ドアルが口を閉じる。
全員が少し驚いた顔をした。ナサン自身が一番驚いていた。
「すみません。でも、ぼくが説明します」
指先が震えた。紙の端を押さえるふりをして隠す。
「旧水路は廃止済みとされています。ただ、壁の石に新しい水染みがあります。地図では切れている枝線と、最近補修された道路の位置も重なる。水が通っていると断定はできません。雨水が入り込んだだけかもしれない。でも、完全に死んでいるとも言えません」
ドアルも、今度は口を挟まなかった。
「水が通るなら、どこへ?」
イザベラが尋ねる。
ナサンは地図の東端、父の果樹園がある場所を指した。
「昔の経路どおりなら、ここです」
「紙の上では、でしょう」
ドアルの言い方は穏やかだった。先ほどの続きを奪うのではなく、確かめるための問いだった。
「はい。だから模型を作ります」
「模型?」
リオンが急に目を輝かせた。
「絵になる?」
「録音機しか持ってない人が、絵を気にするんですね」
「音だけで模型を説明するのは難しいからね」
ナサンは透明な保存容器を三つ並べた。水路荘、小学校付近、果樹園の高さに見立て、下へ薄い木片を重ねて高低差をつける。容器同士は透明な細い管でつないだ。正式な模型にはほど遠い。台所から借りた物ばかりで、接続部にはラビーの店からもらった防水テープを巻いた。
「それ、昨日まで乾燥豆が入っていた容器だ」
イアムが言う。
「洗いました」
「豆の気持ちは?」
「聞いてません」
作業が始まると、ナサンの言葉は滑らかになった。
傾斜が足りない。管が細い。実際の石水路には摩擦がある。模型は正確な流量を示すものではなく、可能性を見るためのものだ。
ドアルが何度か口を開きかけたが、答えを先に言わなかった。代わりに、木片が一枚傾いていることだけを指摘した。
昼前、模型は形になった。
水路荘に見立てた容器へ水を注ぐと、透明な管を通って小学校側へ流れ、少し遅れて果樹園側の容器へ落ちた。
「通った」
ラビーが拍手する。
「模型の中ではです」
ナサンはすぐに付け足した。
「喜ぶ時まで慎重なんだね」
リオンが管へ耳を近づける。
その時、裏口が開いた。
「イアムさん、傘直った?」
ランドセルを背負ったベニーが顔を出した。小学校は午前授業で、壊れた傘を受け取りに来たらしい。
「台所で何してるの?」
「町の水路を小さくした」
リオンが説明する。
「水が透明で見えにくい」
ベニーは一目で欠点を指摘した。
「実際の水も、だいたい透明です」
「でも、どこに行ったか分からないよ」
ベニーは手に持っていた赤い果実ジュースの瓶を持ち上げた。
ナサンが嫌な予感を覚えた時には、もう遅かった。
「これなら見える」
「待っ――」
赤い液体が水路荘の容器へ注がれた。
イザベラが声を上げ、ラビーが瓶を取り上げ、リオンは笑い、アウネは「血の水路」と呟いた。イアムは自分の豆容器を心配し、ドアルだけが真剣な顔で流れを見ていた。
赤いジュースは透明な管へ入り、斜面を下った。
ところが、果樹園側へ向かう途中で一部が逆流し、模型の隅に溜まった。
「ほら」
ドアルが指を差す。
「容器の底がわずかに傾いている。透明な水では分かりにくかった」
ナサンは息を止めて見た。
失敗だった。模型の精度が足りなかった。
けれど、赤い色がついたことで、どこが間違っているかはっきり見えた。
「木片を一枚抜けば……いや、先に水平を測ります」
彼は模型を壊さず、修正箇所へ印をつけた。
ベニーが不安そうに尋ねる。
「怒ってる?」
「少し」
「ごめんなさい」
「でも、見えました。だから、半分は助かりました」
「半分だけ?」
「残り半分は、次から先に聞いてください」
午後、ナサンは町役場の施設管理課へ電話をかけた。
旧水路の現況記録を確認したい。水路荘から果樹園へ向かう枝線に、最近の調査履歴はあるか。
担当者は端末を調べ、簡潔に答えた。
『旧第七分水門以下の水路は機能なしとして登録されています。現況調査の予定はありません』
「水染みがあります。完全に閉じていない可能性が」
『安全確認のない立ち入りはしないでください。調査予算も今年度はついていません』
「では、町の立ち会いで――」
『正式な申請をお願いします』
電話は丁寧に終わった。
台所には、赤いジュースで染まった模型が残っていた。果樹園側の容器に溜まった赤は、夕方の光を受けて、小さな夕焼けのように見える。
「町が調べないなら、どうする?」
ラビーが尋ねた。
ナサンは地図を見た。
分からないことは多い。高低差も、閉塞の位置も、実際の水量も分からない。間違える可能性はある。
それでも、図面の外へ出なければ確かめられない。
「自分たちで測ればいいと思います」
言い切ったあと、胸が強く鳴った。
「町へ申請して、許可を取って。危険な所には入らず、地上から高さと痕跡を調べる。それならできます」
誰も笑わなかった。
ナサンは少しだけ視線を下げる。
「たぶん」
最後の一言に、ラビーが笑った。
「そこまで含めて、君の提案だね」
透明な管の曲がり角で、赤いジュースが小さな渦を巻いていた。
ナサンはそこへ鉛筆で丸をつけた。




