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深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


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3/8

第3話 水は図面どおりに曲がらない

 ナサンは、紙の上に引かれた線を信じていた。


 線は途中で気分を変えない。昨日と言うことが違わない。正しい縮尺と正しい数値を与えれば、誰が見ても同じ場所へたどり着く。


 だから人前で説明するより、図面を描く方が好きだった。


 五月二十七日の朝、彼は共用台所の長いテーブルへ、旧水門台帳と町の現在地図を並べていた。夜勤から戻ったばかりで、髪には青果倉庫の冷気が残っている。作業着の袖からは、木箱と土の匂いがした。


 台帳は古いが、記録は驚くほど細かかった。


 第七分水門から先は二つに分かれ、一方は小学校の脇を通って果樹園へ、もう一方は旧染物工房と共同洗濯場を経て倉庫街へ向かう。水を送る日は、土地の高さと作物だけでなく、洗濯場が混む時刻まで考えて決められていた。


 現在の町の地図では、旧水路は灰色の破線になっている。大半に「廃止」の文字が重ねられ、果樹園へ向かう枝線は途中で途切れていた。


 しかし、台帳の余白に書かれた補修位置と、現在地図の道路補修跡を合わせると、一本だけ不自然な線が残る。


 水路荘の床下から東へ曲がり、小学校の裏を抜ける線だった。


 「そこ、もう使われていないはずよ」


 コーヒーを淹れに来たイザベラが、ナサンの肩越しに地図を見る。


 「記録では、です」


 「現実には?」


 「分かりません」


 「分からないのに、朝からそんな顔をしているの?」


 「どんな顔ですか」


 「世界で一人だけ答えを知っているけれど、言うと怒られそうな顔」


 ナサンは地図へ目を戻した。


 答えを知っているわけではない。ただ、気になる箇所がある。台帳に残る最後の補修記録は十年以上前だが、壁の穴から見える石材には比較的新しい水染みがあった。昨夜、ラビーが撮影した写真にも、白い析出物が筋になって残っている。


 乾き切った水路には見えなかった。


 午前八時までに、住人が一人ずつ台所へ集まった。


 ドアルは襟の整ったシャツ姿で、アウネは資料館へ持っていく紙袋を抱え、リオンは寝癖のまま録音機を持っている。イアムはナサンが広げた地図を見て、わずかに眉を寄せた。


 「何か分かったの?」


 ラビーが尋ねた。


 全員の視線がナサンへ向いた。


 その瞬間、台所の壁が消えた。


 代わりに見えたのは、大学の発表室だった。白いスクリーン。並んだ教授。自分の作った流量計算。最後列から上がった手。


 ――この係数、単位が違っていませんか。


 指摘された途端、頭の中の数字が全部ほどけた。訂正すれば済む誤りだった。だが、口から声が出なかった。沈黙した時間だけが長くなり、誰かが代わりに説明を始めた。


 「ナサン?」


 ラビーの声で、台所へ戻る。


 「枝線が……」


 喉が狭くなる。


 「枝線が、現在も……その、完全には……」


 「彼が言いたいのは、廃止記録と現地の痕跡が一致しない、ということだろう」


 ドアルが自然な口調で引き取った。


 助けられた。


 そう思うより先に、胸の奥が熱くなった。


 「まだ、そこまで言ってません」


 声が思ったより強く出た。


 ドアルが口を閉じる。


 全員が少し驚いた顔をした。ナサン自身が一番驚いていた。


 「すみません。でも、ぼくが説明します」


 指先が震えた。紙の端を押さえるふりをして隠す。


 「旧水路は廃止済みとされています。ただ、壁の石に新しい水染みがあります。地図では切れている枝線と、最近補修された道路の位置も重なる。水が通っていると断定はできません。雨水が入り込んだだけかもしれない。でも、完全に死んでいるとも言えません」


 ドアルも、今度は口を挟まなかった。


 「水が通るなら、どこへ?」


 イザベラが尋ねる。


 ナサンは地図の東端、父の果樹園がある場所を指した。


 「昔の経路どおりなら、ここです」


 「紙の上では、でしょう」


 ドアルの言い方は穏やかだった。先ほどの続きを奪うのではなく、確かめるための問いだった。


 「はい。だから模型を作ります」


 「模型?」


 リオンが急に目を輝かせた。


 「絵になる?」


 「録音機しか持ってない人が、絵を気にするんですね」


 「音だけで模型を説明するのは難しいからね」


 ナサンは透明な保存容器を三つ並べた。水路荘、小学校付近、果樹園の高さに見立て、下へ薄い木片を重ねて高低差をつける。容器同士は透明な細い管でつないだ。正式な模型にはほど遠い。台所から借りた物ばかりで、接続部にはラビーの店からもらった防水テープを巻いた。


 「それ、昨日まで乾燥豆が入っていた容器だ」


 イアムが言う。


 「洗いました」


 「豆の気持ちは?」


 「聞いてません」


 作業が始まると、ナサンの言葉は滑らかになった。


 傾斜が足りない。管が細い。実際の石水路には摩擦がある。模型は正確な流量を示すものではなく、可能性を見るためのものだ。


 ドアルが何度か口を開きかけたが、答えを先に言わなかった。代わりに、木片が一枚傾いていることだけを指摘した。


 昼前、模型は形になった。


 水路荘に見立てた容器へ水を注ぐと、透明な管を通って小学校側へ流れ、少し遅れて果樹園側の容器へ落ちた。


 「通った」


 ラビーが拍手する。


 「模型の中ではです」


 ナサンはすぐに付け足した。


 「喜ぶ時まで慎重なんだね」


 リオンが管へ耳を近づける。


 その時、裏口が開いた。


 「イアムさん、傘直った?」


 ランドセルを背負ったベニーが顔を出した。小学校は午前授業で、壊れた傘を受け取りに来たらしい。


 「台所で何してるの?」


 「町の水路を小さくした」


 リオンが説明する。


 「水が透明で見えにくい」


 ベニーは一目で欠点を指摘した。


 「実際の水も、だいたい透明です」


 「でも、どこに行ったか分からないよ」


 ベニーは手に持っていた赤い果実ジュースの瓶を持ち上げた。


 ナサンが嫌な予感を覚えた時には、もう遅かった。


 「これなら見える」


 「待っ――」


 赤い液体が水路荘の容器へ注がれた。


 イザベラが声を上げ、ラビーが瓶を取り上げ、リオンは笑い、アウネは「血の水路」と呟いた。イアムは自分の豆容器を心配し、ドアルだけが真剣な顔で流れを見ていた。


 赤いジュースは透明な管へ入り、斜面を下った。


 ところが、果樹園側へ向かう途中で一部が逆流し、模型の隅に溜まった。


 「ほら」


 ドアルが指を差す。


 「容器の底がわずかに傾いている。透明な水では分かりにくかった」


 ナサンは息を止めて見た。


 失敗だった。模型の精度が足りなかった。


 けれど、赤い色がついたことで、どこが間違っているかはっきり見えた。


 「木片を一枚抜けば……いや、先に水平を測ります」


 彼は模型を壊さず、修正箇所へ印をつけた。


 ベニーが不安そうに尋ねる。


 「怒ってる?」


 「少し」


 「ごめんなさい」


 「でも、見えました。だから、半分は助かりました」


 「半分だけ?」


 「残り半分は、次から先に聞いてください」


 午後、ナサンは町役場の施設管理課へ電話をかけた。


 旧水路の現況記録を確認したい。水路荘から果樹園へ向かう枝線に、最近の調査履歴はあるか。


 担当者は端末を調べ、簡潔に答えた。


 『旧第七分水門以下の水路は機能なしとして登録されています。現況調査の予定はありません』


 「水染みがあります。完全に閉じていない可能性が」


 『安全確認のない立ち入りはしないでください。調査予算も今年度はついていません』


 「では、町の立ち会いで――」


 『正式な申請をお願いします』


 電話は丁寧に終わった。


 台所には、赤いジュースで染まった模型が残っていた。果樹園側の容器に溜まった赤は、夕方の光を受けて、小さな夕焼けのように見える。


 「町が調べないなら、どうする?」


 ラビーが尋ねた。


 ナサンは地図を見た。


 分からないことは多い。高低差も、閉塞の位置も、実際の水量も分からない。間違える可能性はある。


 それでも、図面の外へ出なければ確かめられない。


 「自分たちで測ればいいと思います」


 言い切ったあと、胸が強く鳴った。


 「町へ申請して、許可を取って。危険な所には入らず、地上から高さと痕跡を調べる。それならできます」


 誰も笑わなかった。


 ナサンは少しだけ視線を下げる。


 「たぶん」


 最後の一言に、ラビーが笑った。


 「そこまで含めて、君の提案だね」


 透明な管の曲がり角で、赤いジュースが小さな渦を巻いていた。


 ナサンはそこへ鉛筆で丸をつけた。



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