第2話 壊れたものには順番がある
翌朝、ラビーは水路荘で最も早く起きた。
正確には、ほとんど眠っていなかった。
午前四時半、共用台所の少し遅れた時計がその時刻を指すころには、彼は焦げた壁の前へ脚立を立て、配線を一本ずつ確かめていた。窓の外は薄い灰色で、商店街のパン屋さえまだ明かりをつけていない。
損傷した充電器は、作業台の白い布の上に置いてある。差し込み部分が熱でわずかに歪み、青い布テープの端が黒く縮れていた。
「百人を救った英雄にしては、地味な負傷だな」
ラビーは独り言を言い、端子を拡大鏡でのぞいた。
充電器の内部に大きな故障はない。異常な電流を受け、保護部品が働いた痕跡はあるが、火花の原因ではなかった。古い延長コードの内部で線が緩み、さらに壁内配線の被覆が劣化していた。そこへ差し込んだ瞬間、接触が崩れたのだ。
充電器は、古い配線の事故に巻き込まれただけだった。
しかし、午前六時過ぎにイザベラが降りてきた時、彼女は開口一番に言った。
「充電器悲劇の被害状況は?」
「命名が早い。しかも濡れ衣だ」
「延長コード悲劇では響きが悪いもの」
イザベラは昨日と同じ緑の羽織を着ていた。白い消火剤の粉は大半落としてあるが、肩に一筋だけ残っている。
ラビーが指摘すると、彼女は手で払おうとして、逆に布へ広げた。
「あとで取るわ」
「今取った方が楽だよ」
「あとでやることには、あとでやる理由があるの」
「昨日、その思想の危険性を見たばかりだけど」
イザベラは聞こえないふりをして、作業台の上の充電器を見た。
「直る?」
「直すことはできる。でも、安全試験を通してからだ。しばらくは使わない」
「原因は?」
「古い延長コードと壁の配線。充電器は巻き込まれた」
「じゃあ、充電器を借りなければ起きなかった悲劇ね」
「その理屈なら、携帯電話を持たなければ起きなかった」
「人類が電気を発見しなければ」
「そこまで遡るなら、水路荘を建てなければ、になる」
二人は同時に壁の穴を見た。
黒い金属箱は、昨夜のまま中に収まっている。蓋には鍵穴があった。無理にこじ開けると、中身まで傷める恐れがあるため、昨夜は手をつけなかった。
午前七時、住人が共用台所へ集まった。
イアムが豆のスープを温め、ナサンは食パンを切り、アウネは金属箱の紋章を紙へ写している。リオンは録音機をテーブルの中央へ置こうとして、全員の視線を受け、黙って鞄へ戻した。ドアルは町役場から届いた退去通知の写しを読んでいた。
イザベラは昨日の通知を透明な袋へ入れて持ってきた。衣装の型紙を保管する時の扱いだった。
「まず、壊れたものから片づけよう」
ラビーは台所の小さな黒板へ書いた。
一、壁内配線。
二、延長コード。
三、充電器。
四、壁。
少し考え、五つ目を付け足す。
五、水路荘の契約。
「最後だけ、修理店の範囲を超えている」
ドアルが言った。
「壊れたものには順番がある。でも、順番が最後だからって、放っておいていいわけじゃない」
「立ち退き通知を三週間置いていた人に聞かせてあげて」
アウネがイザベラを見る。
「今、十分に聞こえたわ」
イザベラはスープを口へ運び、すぐ水を飲んだ。イアムの豆スープは、今朝も塩気が強かった。
「金属箱を開ける方法は?」とナサンが尋ねる。
「鍵穴の形が古い。管理用の平鍵だと思う」
ラビーは昨夜撮った写真を見せた。
イアムの手が止まったが、誰も気づかなかった。スプーンの先で豆が一粒、静かに沈んだ。
「水路の管理道具なら、管理人が知らない?」
リオンが尋ねる。
イアムは少し間を置いて答えた。
「私が管理を始めるより前の物かもしれん。倉庫を探せば、合う鍵がある可能性はある」
「探しましょう」
アウネはすぐに立ち上がった。
「朝食を食べてからにしない?」
「霊は食事を待たない」
「中に霊がいる前提なんだ」
「いないと決める根拠もない」
結局、朝食後に一階裏の管理倉庫を探すことになった。
倉庫には、壊れた椅子、祭りで使った提灯、どの部屋のものか分からない網戸、二十年前の塗料缶、片方だけの長靴が三足あった。
「片方だけ三足なら、組み合わせれば一足半ね」
「左右の大きさが全部違う」
イザベラが長靴を並べ、ナサンが真面目に答える。ラビーは笑いながら、壁に掛けられた鍵束を外した。
一つずつ試したが、どれも金属箱には合わない。
最後に、古い木箱の底から、細長い平鍵が出てきた。柄には金属箱と同じ、水滴を二つに分けた印が刻まれている。
アウネが手を伸ばしたが、イアムが先に拾い上げた。
「錆びている。折れるかもしれん」
声は穏やかだった。しかし、鍵を持つ指だけが強くこわばっていた。
ラビーは錆を落とし、少量の油を差した。鍵は金属箱の穴へゆっくり入った。回すと、かちり、と乾いた音がした。
七人は壁の前へ肩を寄せた。
「開けるよ」
「待って」
リオンが録音機を取り出す。
「一言だけ。歴史的瞬間かもしれない」
「爆発する瞬間かもしれない」
アウネの言葉に、ナサンが半歩下がった。
ラビーは蓋を少し持ち上げ、匂いを確かめた。火薬も薬品もない。乾いた紙と古い鉄の匂いがした。
中には、厚い布に包まれた帳面が二冊、真鍮の鍵が一本、空のカセットケースが一つ収められていた。
大きな帳面の表紙には「第七分水門管理台帳」とある。
小さな帳面は青い布張りで、端が何度も撫でられたように丸くなっていた。
アウネが表紙の文字を読む。
「すきなもの・すきなこと。ミレナ」
イアムの横顔から、わずかに色が失われた。
「ミレナさんって、イアムの奥さん?」
ナサンが尋ねる。
「ああ」
それだけ答え、イアムは視線を台帳へ落とした。
空のカセットケースには、手書きで「十三年前・音声記録」と記されていた。中身はない。
「肝心のテープは?」
リオンがケースを光へ透かす。
「誰かが持ち出したのかもしれない」
ドアルは台帳の綴じ目を確認した。
「紙の傷み方が違う。箱は長い間、開けられていない。ただし、収納した時点でテープが入っていたとは限らない」
イザベラが退去通知をテーブルへ置いた。
「昔の水門と、昔の誰かの好きなものと、ない録音。これで家が残るの?」
誰も答えなかった。
ラビーは答えの代わりに、仮住まい候補を書き出すことにした。
午前中の修理依頼をこなしながら、不動産店へ電話をかけた。家賃、保証人、店舗利用、夜間出入り、機材搬入。条件を一つ加えるたび、候補は消えていった。
イザベラは仕事場と住居を一緒に借りられる場所が必要だった。アウネは資料館の契約収入では保証会社の審査が難しい。ナサンは夜勤明けに公共交通を使わず帰れる範囲を望んだ。リオンの放送機材は防音上の制限に引っかかる。イアムは高齢を理由に断られる物件があった。
ドアルだけは首都にも部屋を持っていると言ったが、それは水路町での暮らしを失っても困らない、という意味ではなかった。
夕方、ラビーは候補一覧を共用台所の壁へ貼った。
「十週間もある。これだけあれば、探せるし、交渉もできる。金属箱の中身だって調べられる」
できるだけ明るく言った。
イザベラが一覧を見上げる。
「十週間しかないのよ」
ラビーは笑って返そうとした。
しかし、店の奥に並ぶ工具棚が目に入った。
父親から譲られた半田ごて。初めて自分で買った測定器。町の客が「いつか使うだろう」と置いていった部品箱。どの引き出しに何があるか、目を閉じても分かる。棚を外せば壁が崩れそうなほど、この店と一緒に古くなった物もある。
自分はどこでもやっていける。
何度も町を移り、何度も店を作り直してきた。壊れた物を直す技術さえあれば、場所は選ばない。
そう言おうとしたのに、喉の奥で言葉が止まった。
イザベラは何も言わず、青い布張りの帳面を開いた。
最初の頁には、ミレナの丸い文字でこう書かれていた。
――人は困っていることを聞かれると、たいてい小さく答える。好きなものを聞かれると、暮らしの全部を話すことがある。
次の頁から、町の人々の名前と、水を使う時刻、好きな食べ物、朝起きて最初にすることが並んでいた。
最後の数頁だけが、何も書かれず残っている。
「空白ね」
イザベラが言った。
「まだ書けるってことだ」
ラビーは反射的に答えた。
前向きな言葉は、いつもなら誰かを少し笑わせた。
今夜は、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。




