表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/8

第2話 壊れたものには順番がある

 翌朝、ラビーは水路荘で最も早く起きた。


 正確には、ほとんど眠っていなかった。


 午前四時半、共用台所の少し遅れた時計がその時刻を指すころには、彼は焦げた壁の前へ脚立を立て、配線を一本ずつ確かめていた。窓の外は薄い灰色で、商店街のパン屋さえまだ明かりをつけていない。


 損傷した充電器は、作業台の白い布の上に置いてある。差し込み部分が熱でわずかに歪み、青い布テープの端が黒く縮れていた。


 「百人を救った英雄にしては、地味な負傷だな」


 ラビーは独り言を言い、端子を拡大鏡でのぞいた。


 充電器の内部に大きな故障はない。異常な電流を受け、保護部品が働いた痕跡はあるが、火花の原因ではなかった。古い延長コードの内部で線が緩み、さらに壁内配線の被覆が劣化していた。そこへ差し込んだ瞬間、接触が崩れたのだ。


 充電器は、古い配線の事故に巻き込まれただけだった。


 しかし、午前六時過ぎにイザベラが降りてきた時、彼女は開口一番に言った。


 「充電器悲劇の被害状況は?」


 「命名が早い。しかも濡れ衣だ」


 「延長コード悲劇では響きが悪いもの」


 イザベラは昨日と同じ緑の羽織を着ていた。白い消火剤の粉は大半落としてあるが、肩に一筋だけ残っている。


 ラビーが指摘すると、彼女は手で払おうとして、逆に布へ広げた。


 「あとで取るわ」


 「今取った方が楽だよ」


 「あとでやることには、あとでやる理由があるの」


 「昨日、その思想の危険性を見たばかりだけど」


 イザベラは聞こえないふりをして、作業台の上の充電器を見た。


 「直る?」


 「直すことはできる。でも、安全試験を通してからだ。しばらくは使わない」


 「原因は?」


 「古い延長コードと壁の配線。充電器は巻き込まれた」


 「じゃあ、充電器を借りなければ起きなかった悲劇ね」


 「その理屈なら、携帯電話を持たなければ起きなかった」


 「人類が電気を発見しなければ」


 「そこまで遡るなら、水路荘を建てなければ、になる」


 二人は同時に壁の穴を見た。


 黒い金属箱は、昨夜のまま中に収まっている。蓋には鍵穴があった。無理にこじ開けると、中身まで傷める恐れがあるため、昨夜は手をつけなかった。


 午前七時、住人が共用台所へ集まった。


 イアムが豆のスープを温め、ナサンは食パンを切り、アウネは金属箱の紋章を紙へ写している。リオンは録音機をテーブルの中央へ置こうとして、全員の視線を受け、黙って鞄へ戻した。ドアルは町役場から届いた退去通知の写しを読んでいた。


 イザベラは昨日の通知を透明な袋へ入れて持ってきた。衣装の型紙を保管する時の扱いだった。


 「まず、壊れたものから片づけよう」


 ラビーは台所の小さな黒板へ書いた。


 一、壁内配線。

 二、延長コード。

 三、充電器。

 四、壁。


 少し考え、五つ目を付け足す。


 五、水路荘の契約。


 「最後だけ、修理店の範囲を超えている」


 ドアルが言った。


 「壊れたものには順番がある。でも、順番が最後だからって、放っておいていいわけじゃない」


 「立ち退き通知を三週間置いていた人に聞かせてあげて」


 アウネがイザベラを見る。


 「今、十分に聞こえたわ」


 イザベラはスープを口へ運び、すぐ水を飲んだ。イアムの豆スープは、今朝も塩気が強かった。


 「金属箱を開ける方法は?」とナサンが尋ねる。


 「鍵穴の形が古い。管理用の平鍵だと思う」


 ラビーは昨夜撮った写真を見せた。


 イアムの手が止まったが、誰も気づかなかった。スプーンの先で豆が一粒、静かに沈んだ。


 「水路の管理道具なら、管理人が知らない?」


 リオンが尋ねる。


 イアムは少し間を置いて答えた。


 「私が管理を始めるより前の物かもしれん。倉庫を探せば、合う鍵がある可能性はある」


 「探しましょう」


 アウネはすぐに立ち上がった。


 「朝食を食べてからにしない?」


 「霊は食事を待たない」


 「中に霊がいる前提なんだ」


 「いないと決める根拠もない」


 結局、朝食後に一階裏の管理倉庫を探すことになった。


 倉庫には、壊れた椅子、祭りで使った提灯、どの部屋のものか分からない網戸、二十年前の塗料缶、片方だけの長靴が三足あった。


 「片方だけ三足なら、組み合わせれば一足半ね」


 「左右の大きさが全部違う」


 イザベラが長靴を並べ、ナサンが真面目に答える。ラビーは笑いながら、壁に掛けられた鍵束を外した。


 一つずつ試したが、どれも金属箱には合わない。


 最後に、古い木箱の底から、細長い平鍵が出てきた。柄には金属箱と同じ、水滴を二つに分けた印が刻まれている。


 アウネが手を伸ばしたが、イアムが先に拾い上げた。


 「錆びている。折れるかもしれん」


 声は穏やかだった。しかし、鍵を持つ指だけが強くこわばっていた。


 ラビーは錆を落とし、少量の油を差した。鍵は金属箱の穴へゆっくり入った。回すと、かちり、と乾いた音がした。


 七人は壁の前へ肩を寄せた。


 「開けるよ」


 「待って」


 リオンが録音機を取り出す。


 「一言だけ。歴史的瞬間かもしれない」


 「爆発する瞬間かもしれない」


 アウネの言葉に、ナサンが半歩下がった。


 ラビーは蓋を少し持ち上げ、匂いを確かめた。火薬も薬品もない。乾いた紙と古い鉄の匂いがした。


 中には、厚い布に包まれた帳面が二冊、真鍮の鍵が一本、空のカセットケースが一つ収められていた。


 大きな帳面の表紙には「第七分水門管理台帳」とある。


 小さな帳面は青い布張りで、端が何度も撫でられたように丸くなっていた。


 アウネが表紙の文字を読む。


 「すきなもの・すきなこと。ミレナ」


 イアムの横顔から、わずかに色が失われた。


 「ミレナさんって、イアムの奥さん?」


 ナサンが尋ねる。


 「ああ」


 それだけ答え、イアムは視線を台帳へ落とした。


 空のカセットケースには、手書きで「十三年前・音声記録」と記されていた。中身はない。


 「肝心のテープは?」


 リオンがケースを光へ透かす。


 「誰かが持ち出したのかもしれない」


 ドアルは台帳の綴じ目を確認した。


 「紙の傷み方が違う。箱は長い間、開けられていない。ただし、収納した時点でテープが入っていたとは限らない」


 イザベラが退去通知をテーブルへ置いた。


 「昔の水門と、昔の誰かの好きなものと、ない録音。これで家が残るの?」


 誰も答えなかった。


 ラビーは答えの代わりに、仮住まい候補を書き出すことにした。


 午前中の修理依頼をこなしながら、不動産店へ電話をかけた。家賃、保証人、店舗利用、夜間出入り、機材搬入。条件を一つ加えるたび、候補は消えていった。


 イザベラは仕事場と住居を一緒に借りられる場所が必要だった。アウネは資料館の契約収入では保証会社の審査が難しい。ナサンは夜勤明けに公共交通を使わず帰れる範囲を望んだ。リオンの放送機材は防音上の制限に引っかかる。イアムは高齢を理由に断られる物件があった。


 ドアルだけは首都にも部屋を持っていると言ったが、それは水路町での暮らしを失っても困らない、という意味ではなかった。


 夕方、ラビーは候補一覧を共用台所の壁へ貼った。


 「十週間もある。これだけあれば、探せるし、交渉もできる。金属箱の中身だって調べられる」


 できるだけ明るく言った。


 イザベラが一覧を見上げる。


 「十週間しかないのよ」


 ラビーは笑って返そうとした。


 しかし、店の奥に並ぶ工具棚が目に入った。


 父親から譲られた半田ごて。初めて自分で買った測定器。町の客が「いつか使うだろう」と置いていった部品箱。どの引き出しに何があるか、目を閉じても分かる。棚を外せば壁が崩れそうなほど、この店と一緒に古くなった物もある。


 自分はどこでもやっていける。


 何度も町を移り、何度も店を作り直してきた。壊れた物を直す技術さえあれば、場所は選ばない。


 そう言おうとしたのに、喉の奥で言葉が止まった。


 イザベラは何も言わず、青い布張りの帳面を開いた。


 最初の頁には、ミレナの丸い文字でこう書かれていた。


 ――人は困っていることを聞かれると、たいてい小さく答える。好きなものを聞かれると、暮らしの全部を話すことがある。


 次の頁から、町の人々の名前と、水を使う時刻、好きな食べ物、朝起きて最初にすることが並んでいた。


 最後の数頁だけが、何も書かれず残っている。


 「空白ね」


 イザベラが言った。


 「まだ書けるってことだ」


 ラビーは反射的に答えた。


 前向きな言葉は、いつもなら誰かを少し笑わせた。


 今夜は、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ