第1話 充電器を借りるところから始まる悲劇
イザベラの携帯電話が息絶えたのは、五月二十五日の午後八時十七分だった。
ちょうど、明日の朝までに仕上げる舞台衣装の袖口へ、最後の銀糸を通そうとしていた時である。作業台の端で震えた画面に「残り一パーセント」と表示され、彼女が針を置くより先に暗くなった。
「そう。あなたまで今日は働きたくないのね」
誰に言うでもなく呟き、イザベラは机の引き出しを開けた。中には赤、青、白のリボン、予備のボタン、使い切った口紅が二本、期限の切れた割引券、それから何本もの充電ケーブルが絡み合っていた。
どれも端子が違う。
一本だけ端子の合いそうなものがあったが、根元の被覆が裂け、細い線がのぞいていた。他人の衣装や店の勘定なら、イザベラは迷わず安全な方を選べる。自分の持ち物となると、その判断はなぜか明日へ延びた。
自分の携帯電話、自分の郵便物、自分の将来となると、現実は明日まで待ってくれるものに変わる。
彼女は鮮やかな緑の羽織を肩へかけ、店の裏口から廊下へ出た。
水路荘の一階は、夜になると昼間より少し広く感じられる。表通りに面したイザベラ写真衣装室と、隣のラビー充電所がシャッターを下ろすと、共用台所から漏れる黄色い明かりだけが、古びた床板を斜めに照らすからだ。
ラビーの店の奥では、まだ小さな照明がついていた。
「ラビー。充電器を貸して」
開け放した作業室へ声をかけると、机の下から男の頭が現れた。黒い髪に細い銅線が一本からみついている。
「こんばんは、イザベラ。挨拶より先に助けを求めるのは、信頼の証だと思っていい?」
「あなたを頼ったんじゃないわ。充電器を頼ったの」
「持ち主ごと信頼してくれても、追加料金は取らないよ」
ラビーは床から立ち上がると、壁一面の小箱を迷いなく探り、白い充電器を取り出した。古い型だったが、ケーブルは丁寧に巻かれ、根元には青い布テープが貼られている。
「これは百人を救ってきた充電器だ」
「百人も、充電を忘れた人がいたの?」
「正確には十二人。延べ百回くらい」
「もう少し早く訂正しなさい」
イザベラは受け取った。店へ戻るのも面倒で、廊下の壁際に置かれた古い延長コードへ差し込もうとする。
ラビーの表情が変わった。
「待って。それ、いつからそこに――」
ぱちん、と乾いた音がした。
次の瞬間、差し込み口の奥で青白い火花が弾けた。光は針先ほどだったのに、深い夜へ合図を送るように鋭かった。焦げた匂いが鼻を刺し、壁際から細い煙が上がる。
水路荘全体の照明が消えた。
「今日は充電だけする予定だったのに」
暗闇の中で、イザベラは充電器を握ったまま言った。
「まずそれを抜かないで。触らないで。動かないで」
「三つも一度に命令しないで」
「じゃあ、動かないで」
ラビーが作業机へ戻ろうとした時、二階から足音が雪崩のように降りてきた。
「火か!」
最初に現れたリオンは、なぜか録音機を手にしていた。その後ろから、ナサンが洗面器を抱え、アウネは分厚い辞典を胸に当て、ドアルは小型の懐中電灯を照らしている。最後にイアムが鍋を持って現れた。鍋からは豆の匂いがした。
「その鍋で消すつもり?」とイザベラが尋ねる。
「夕食を守るつもりだ」とイアムは答えた。
「水をかけたら駄目です」
ナサンが洗面器を抱え直した。
「分かってます。これは、万が一、火傷した人を冷やす用です」
「本当に?」
「今、そういうことにしました」
煙は壁の板の隙間から出ていた。小さな焦げ跡が、ゆっくり黒く広がっていく。
ラビーは足元の工具箱を手探りで開き、携帯用の照明をつけた。分電盤は廊下の突き当たりにある。彼は焦げた箇所を避けて走り、主電源を落とした。
「これで通電は止まった。イアム、消火器を」
「階段の下だ」
イアムが鍋をリオンへ押しつけ、暗闇を戻っていく。鍋を受け取ったリオンは反射的に録音機をナサンへ渡した。ナサンは洗面器と録音機を同時に抱え、困った顔をした。
「誰も記録しろとは言ってませんよ」
「こういう時の音は二度と録れない」
「二度と起こさないで」
アウネの声だけが、暗闇の中でも迷いなく飛んだ。
ラビーが細い煙へ消火器を短く噴射した。白い粉が壁と床へ広がり、イザベラの緑の羽織にも降りかかる。
「この色、粉が一番目立つのよ」
「怪我がないなら、衣装の心配をしてくれて構わない」
「怪我は?」
ドアルの懐中電灯が、順に住人の顔を照らした。全員、煤と白い粉を少しずつつけていたが、火傷をした者はいない。
イアムが戻り、焦げた壁へ手を近づける。触れずに熱を確かめたあと、ゆっくり息を吐いた。
「中を見た方がいい」
ラビーが工具で壁板の留め具を外した。建物は築八十二年で、板は見た目ほど素直ではない。一本目の釘は抜けず、二本目は頭だけが取れた。最後にはドアルとナサンまで手を貸し、残る四人が見守る中で、壁板が軋みながら外れた。
内側の古い配線は、布の被覆が茶色く変色していた。延長コードの差し込み口の裏で接触不良を起こし、熱を持ったらしい。
そして、その配線より下に、壁の厚みに隠れるようにして黒い金属箱が埋め込まれていた。
「電気の箱じゃない」
ラビーが白い粉を払う。
蓋には、水滴を二つに分けたような古い紋章が刻まれていた。
アウネが一歩近づく。
「水門の印」
「知ってるの?」
「資料館で見た。第七分水門の管理印よ」
イアムの鍋の蓋が、かすかに鳴った。
全員の視線が彼へ向く前に、廊下の床へ一通の封筒が落ちた。
壁板を動かした拍子に、近くの棚へ積まれていた郵便物が崩れたらしい。ラビーが拾い上げ、宛名を見る。
「イザベラ。住民組合契約更新窓口、イザベラ様」
「そこへ戻しておいて」
「町役場施設管理課から。五月四日付」
イザベラは答えなかった。
ラビーが封筒を裏返す。封は切られていない。白い紙の端に、三週間分の埃が薄く積もっていた。
「開けてないの?」
「開けようとは思っていたわ」
「いつ?」
「落ち着いた時に」
七人が、白い粉だらけの廊下に立っていた。焦げた匂いの中で、イザベラの言葉だけが妙にきれいに響いた。
現実的に考えれば、今は十分に落ち着いていない。しかし、これ以上ふさわしい時が来ないことも、彼女には分かっていた。
イザベラは封筒を受け取った。
爪で端を破る。紙の音が、夜の廊下に長く残った。
通知は簡潔だった。
水路荘の土地建物賃貸契約を更新しないこと。床下の地盤沈下、老朽化した電気設備、旧水路封鎖工事のため、八月三日までに退去すること。退去後、建物は解体すること。
「八月三日?」
ナサンが言った。
「今日が五月二十五日だから……」
「十週間」
ドアルが静かに計算した。
「正確には七十日」
イザベラは通知を読み直した。数字は変わらなかった。見なければ存在しなかった期限が、紙を開いた途端、七人の足元まで迫っていた。
ラビーは口を開きかけた。いつもなら、ここで先の見える言葉を一つ差し出す。けれど、その夜は何も出てこなかった。
一階の店と住居を分けられないイザベラ。工具と部品の棚を抱えたラビー。夜勤明けに帰れる安い部屋を必要とするナサン。資料館の契約収入だけで保証人もいないアウネ。放送機材を部屋へ置くリオン。町と首都を行き来し、住民票の扱いが複雑なドアル。そして、この建物を管理してきたイアム。
それぞれの事情が、口にされないまま廊下へ並んだ。
壁の奥で、何かが小さく鳴った。
水滴が石へ落ちるような音だった。
イザベラは金属箱と、焦げた充電器と、退去通知を順番に見た。
「今日は充電だけする予定だったのに」
今度は誰も笑わなかった。




