第9話 方眼紙の果樹園
六月二日の朝、ナサンは方眼紙を丸めた筒を背負い、水路町の西端へ向かった。
石畳の商店街を抜けると、家々の間隔が広がり、屋根より先に果樹の梢が見える。町の旧水路は、そのあたりで地上から姿を消していた。古い地図では、第七分水門から西へ枝分かれした水が、低い畑を避けながら緩やかに上り、果樹園の共同溜め池へ入ることになっている。
水が上るはずはない。
だから正確には、土地の方が少しずつ下がっている。
ナサンは子どもの頃、その説明を母から何度も聞いた。母は掌を斜めにして、「水は怠け者だから、楽な方へしか行かないの」と笑った。
父の果樹園では、若い梨の木が葉を伏せていた。
成木は深いところまで根を伸ばしているが、昨年植えた若木はそうはいかない。根元の土は白く乾き、細い枝の先が内側へ巻いている。
「朝から珍しいな」
脚立の上から父が言った。
ナサンは反射的に背筋を伸ばした。
「大学の調査で来た」
言葉は、考えるより先に出た。
休学届を出したのは三か月前である。それ以来、父には研究が忙しいと言い続けていた。夜勤を始めたことも、大学の研究室へ行けなくなったことも話していない。
「大学が、今さらこの水路を?」
「古い灌漑体系が、渇水や豪雨に使える可能性を調べてる」
「可能性なら、枯れた井戸にもある」
父は脚立を降り、梨を入れる空の籠を地面へ置いた。
「第七分水門は十三年前に終わった。流せばどこかが溢れる。止めればどこかが枯れる。人の都合を全部聞いていたら、水なんて一滴も動かせない」
ナサンは筒を握り直した。
「でも、枝線が残っているかもしれない」
「残っていることと、使えることは違う」
それはドアルが言った言葉と似ていた。
正しい。正しいからこそ、腹が立った。
ナサンは果樹園の端へ向かった。雑草に覆われた石の縁を靴先で探る。幼い頃には小さな溝があったはずだが、今は土と落ち葉に埋もれている。
しゃがんで草を分けると、細長い石板が現れた。表面に、丸と三本線を組み合わせた印が刻まれている。
旧水門台帳の西枝線に描かれていた印と同じだった。
「父さん。母さんが、水の順番を書いてた帳面は残ってない?」
父の眉が動いた。
「なぜ知ってる」
「母さんは何でも書いてたから」
「おまえの食べ残しまでな」
「それは水と関係ない」
「水を残して、豆を残して、叱られた」
二人とも一瞬だけ笑った。
父は納屋へ入り、しばらくして布に包んだ薄い帳面を持ってきた。表紙は湿気で波打ち、角が丸くすり減っている。
「捨てると怒られそうでな」
もう怒る人はいない、と父は言わなかった。
ナサンも言わなかった。
帳面には、日付と天候、どの畑へ何分水を入れたかが書かれていた。母の字は小さいが、行間が広い。余白には「東の家は赤ん坊が寝てから」「染物屋は青を洗う日」「ミレナさんに鍵を返す」といった生活の記録が並んでいる。
ナサンは旧水門台帳の写しを広げた。
二つの記録を重ねて追う。
第七分水門から西へ二百四十歩。桑畑の角で北へ折れ、共同井戸の裏を通り、果樹園の下段へ。母の帳面にある「白石」、台帳にある「標石七」。今朝見つけた刻印入りの石板。
つながった。
胸の奥で、何かが音を立てた。
「枝線はここまで来てる」
ナサンは方眼紙を広げた。透明な管と小さな容器で作った模型も、肩掛け鞄から出す。
「第七分水門を少し開けて、途中の閉塞がなければ、この下段へ――」
説明しながら、彼は模型の目盛りを見た。
果樹園側へ流れるはずの管が、想定より高い。
基準にした標高点は、いつ測られたものだったか。
旧地図の数字を現在の道路高へ換算する際、沈下分を入れただろうか。
分からない。
父が模型を覗き込んだ。
「それで、水は来るのか」
ナサンは管を外した。
「まだ確認がいる」
「大学の調査なら、確認してから来い」
「だから確認に来たんだ」
声が強くなった。
父は黙り、若木の方を見た。
「木は待ってくれんぞ」
その言葉が、ナサンの背中へ残った。
帰り道、方眼紙の筒は来た時より重かった。
水路荘へ戻ると、共用台所の大卓に模型を置いた。管を一本差しては抜き、目盛りを測り直す。手を離すと支柱が傾き、容器の水がこぼれそうになった。
向かい側から、ラビーの手が伸びた。
黙って支柱を支える。
「そこ、二ミリ上げて」
ナサンが言うと、ラビーは二ミリ上げた。
「右へ」
右へ動かす。
「止めて」
止める。
励ましも、質問もなかった。
やがてイザベラたちも集まってきた。ナサンは母の帳面と台帳の写しを並べ、枝線が果樹園へ続く根拠を説明した。
最後まで言い終えた時、アウネが尋ねた。
「大学にも、この模型を見せるの?」
喉が閉じた。
ラビーの指は支柱を支えたままだった。
ナサンは、透明な管の中で震える水面を見た。
「大学は、休んでる」
誰も動かなかった。
「三か月前から。発表で計算を間違えて、それから研究室に入れなくなった。父には言ってない。今日も大学の調査だって嘘をついた」
言い切ると、身体の中の水が全部抜けたように力が落ちた。
リオンが口を開きかけ、閉じた。
イザベラは母の帳面へ目を落とした。
ドアルは模型を見たまま言った。
「現在の標高点を、明日一緒に取り直そう」
ナサンは顔を上げた。
「答えを先に言わないでください」
「言わない。私は検算をする」
「間違っていたら?」
「直す」
あまりにも簡単な返事だった。
ナサンは簡単には信じられなかった。それでも、模型を片づけようとは思わなかった。
ラビーが支柱から手を離す。
今度は倒れなかった。
方眼紙の上で、西枝線は果樹園まで伸びている。
その先に、乾いた若木が並んでいた。




