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深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


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20/21

第20話 地図の外側にいた人

 七月二日の午前十時、町役場の会議室には、二種類の地図が広げられていた。


 一枚は、十年前に作られた旧灌漑施設封鎖計画図。


 もう一枚は、ナサンたちが五月末から調査を重ね、書き足してきた現在の水路図。


 古い計画図では、旧第七分水門から先の枝線は、薄い灰色で塗られている。


 『機能停止』

 『利用実態なし』

 『封鎖推奨』


 現在図には、その灰色の上へ、赤、青、緑の線が重なっていた。


 果樹園へ届いた水。

 倉庫街の排水格子。

 小学校脇の点検口。

 壁音が変わった場所。


 地図の周囲には、水路荘の住人、施設管理課長のマルタ、町の技術職員、倉庫街の代表者が座っている。


 アウネの椅子だけが空いていた。


 リオンは、その空席を一度見た後、録音機を鞄から出さなかった。


 「本日の目的を確認します」


 マルタが資料を揃えた。


 「旧水路の試験通水結果を受け、封鎖計画を変更する根拠があるかを検討します。ただし、保存への期待と、安全性の確認は別です」


 「分かっています」


 ナサンが答えた。


 以前なら、説明役をドアルへ渡したかもしれない。


 今日は自分の模型を卓へ置いた。


 「試験では、分水弁を規定範囲の最小まで開き、十七分後に果樹園手前へ到達しました。流量は少ないですが、枝線が完全に閉塞していないことは確認できました」


 「倉庫街側への漏れは?」


 「目視範囲ではありません。ただし、全経路を確認できたわけではありません」


 間違いの可能性まで口にした後も、ナサンの声は止まらなかった。


 マルタは頷き、次の資料を開いた。


 「では、十年前の判断について確認します」


 紙の上部には、報告書名が記されていた。


 『旧灌漑体系廃止および地下排水設備への統合に関する技術評価』


 署名欄に、ドアルの名がある。


 イザベラが最初に気づいた。


 「これは、何?」


 ドアルは椅子へ深く座り直した。


 「私が十年前に提出した報告書です」


 「あなたが?」


 「はい」


 ラビーが、ゆっくり資料へ手を伸ばした。


 「封鎖計画の助言者だとは聞いていました。でも、元の廃止判断まで?」


 「当時、私は町の委託を受け、旧水路の利用状況を調査しました」


 ナサンが報告書をめくる。


 利用世帯数、維持費、漏水箇所、地下配管の処理能力。


 数字は整っていた。


 「果樹園の枝線が書かれていない」


 「調査時には利用申請がなかった」


 「倉庫の排水接続もない」


 「正式な設備台帳に記録されていなかった」


 「小学校の点検口も」


 「管理対象外と判断しました」


 ナサンの指が、紙の上で震えた。


 「地図に載っていないから、なかったことにしたんですか」


 「確認できない設備を、機能しているとは評価できません」


 「では、確認しに行ったんですか」


 ドアルは答えるまでに、わずかな時間を置いた。


 「全経路には入っていません」


 「なぜ」


 「崩落の危険があり、予算と調査期間も限られていた。新しい地下排水設備が完成し、旧水路の維持費は増えていた。町全体の安全と費用を考えれば、廃止が妥当だと判断した」


 「町全体?」


 ナサンは倉庫街の代表を見た。


 「倉庫で夜働く人は、その町全体に入っていましたか。水が足りない果樹園は。壁の音を聞いていた管理人は」


 「当時の資料には――」


 「資料の話ではなく、人の話です」


 会議室が静まった。


 ドアルは何度も、広い視点が必要だと言ってきた。


 目の前の一件に引かれず、町全体を見るべきだと。


 しかし十年前の地図は、広いほど薄くなり、地図の外へ押し出された人の姿を隠していた。


 「ナサン」


 イアムが低く呼んだ。


 止めるためではなかった。


 続きを本人が選べるように、名前だけを置いた。


 ナサンは息を整えた。


 「僕たちに調べさせながら、あなたは最初から、この水路を塞ぐ側だったんですか」


 ドアルは否定しなかった。


 「町との契約は、封鎖方法について助言するものです」


 「なぜ言わなかった」


 「調査結果へ、私の過去を先入観として持ち込ませたくなかった」


 「それを決めるのも、あなたですか」


 ナサンの声が強くなった。


 「僕が知った上で協力するかどうか、選ばせなかった」


 リオンが俯いた。


 アウネへしたことと、形は違っても似ている。


 相手へ伝えれば反対されるかもしれないから、よい結果のためだと自分で決める。


 ドアルは両手を卓上へ置いた。


 「その通りです」


 「何が」


 「言わなかったことは、私の判断です。正当化できません」


 弁明をやめても、過去の署名は消えなかった。


 マルタが報告書を閉じた。


 「技術上の問題へ戻します」


 声は冷静だったが、顔には疲れが見えた。


 「試験通水によって、旧水路の一部が現在も通じていることは確認されました。同時に、町が把握していない接続が複数あることも分かりました。これは保存の根拠であると同時に、重大な危険です」


 彼女は一枚の通知書を出した。


 「本日付で、旧第七分水門および関連点検口への立ち入りを停止します」


 「停止?」とイザベラ。


 「町職員による封印を行います。二週間後、七月十六日から封鎖工事へ入ります」


 ラビーが身を乗り出した。


 「試験は成功したでしょう」


 「成功したからこそ、知られていない水の経路を放置できません」


 「では、もう何も調べられない」


 「異議申立てはできます」


 マルタは別の紙を置いた。


 「封鎖工事までの二週間に、代替管理案、安全手順、責任者、費用負担を提出してください。資料審査の結果によっては、工事を停止します」


 「二週間で?」


 「現在の退去期限まで、町にも時間はありません」


 厳しい条件だった。


 だが、反対する権利まで閉ざしたわけではない。


 マルタはドアルへ視線を向けた。


 「ドアルさん。あなたは町の契約助言者として、この立入停止と封鎖準備を支持しますか」


 会議室の空気が、彼一人へ集まった。


 契約を守れば、仕事は続く。


 十年前の報告書も、当時の情報に基づく妥当な判断として扱われる。


 住人へ黙っていたことは責められても、専門家としての立場までは失わない。


 ドアルは古い計画図を見た。


 薄い灰色の枝線。


 その上へナサンが引いた、手書きの赤い線。


 「支持できません」


 マルタの眉がわずかに動いた。


 「理由を」


 「十年前の評価には、現在確認された接続が含まれていません。私自身の調査不足です。封鎖を決める前に、報告書を再検証する必要があります」


 「契約上、あなたの業務は封鎖方法の助言です」


 「前提が誤っている可能性を知りながら、方法だけを整えることはできません」


 「町の決定へ異議を示すということですか」


 「はい」


 マルタは目を閉じ、短く息を吐いた。


 「では、本日をもって技術助言契約から外れていただきます。正式な通知は後ほど送ります」


 「承知しました」


 言葉は静かだった。


 ナサンはドアルを見たが、礼も許しも口にしなかった。


 一つ正しいことをしたからといって、前の秘密がなくなるわけではない。


 会議が終わり、水路荘へ戻る頃には、点検口へ町の封印札が貼られていた。


 見物人はまだ外に残っている。


 アウネはいない。


 リオンは局へ戻らず、共同台所の隅へ座った。


 イアムは封印札を長く見つめた後、自室へ上がった。


 ナサンは模型へ布をかけた。


 ドアルの部屋の扉は開いていた。


 机の上にあった地図も、衣類も、鞄もない。


 寝台は整えられ、町との契約書の控えだけが中央へ置かれている。


 「出ていったの?」


 イザベラが呟いた。


 ラビーが窓を開け、裏通りを見た。


 ドアルの姿はなかった。


 玄関には、泥のついた革靴だけが残されていた。


 五月末には点検口の泥へ沈み、六月には倉庫の夜勤を歩いた靴。


 泥は乾き、革へ濃い筋を作っている。


 ナサンはその前で立ち止まった。


 「どうして、靴だけ」


 誰も答えられなかった。


 広い地図を持っていた男は、水路荘から消えた。


 彼が歩いた場所の泥だけが、地図の外側に残っていた。



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