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深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


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19/21

第19話 怪談は本人より先に歩く

 六月三十日の午前九時、アウネは資料館の収蔵庫で、江戸期の水利帳を読んでいた。


 頁の右端には、水を流した日。

 左端には、田畑の持ち主。

 中央には、泥が詰まった場所と、取り除いた人数。


 数字の間に、小さな文字で『夜、石が三度鳴る』と書かれている。


 アウネは鉛筆を止めた。


 三度鳴る。


 水路荘の壁音と同じとは限らない。それでも、昔の管理人も石の音を記録していたことになる。


 彼女は資料番号を書き、該当箇所へ紙片を挟んだ。


 収蔵庫の外から、同僚の声がした。


 「アウネ、ラジオ聞いた?」


 「勤務中」


 「水路荘の幽霊、あなたに話しかけるんだって?」


 鉛筆の芯が折れた。


 アウネは顔を上げた。


 「何の話?」


 「朝の『セレナ声便り』。今夜も再放送するらしいよ。すごいね、町中から問い合わせが来てる」


 同僚は悪意なく笑った。


 「資料館で霊能相談も始めたら、お客さん増えるかも」


 「私は資料整理員」


 「分かってるって。冗談」


 冗談を言った本人は、すぐ別の棚へ向かった。


 アウネは折れた芯を拾った。


 指先へ黒い粉がつく。


 昨夜、彼女はラジオを聞いていなかった。壁音の周期表を作るため、ベニーの録音と上流の放水記録を照合していた。


 携帯電話を開くと、リオンから着信が三件あった。


 メッセージはない。


 資料館の休憩室で、局の配信記録を再生した。


 軽い鐘の音に続き、リオンの声が流れる。


 『今、水路町で最も古い共同住宅、水路荘の壁から、不思議な音が聞こえています』


 水路の歴史。

 立ち退き期限。

 試験通水の成功。


 そこまでは、事前に共有していた内容だった。


 次に、アウネ自身の声が流れた。


 『水が戻りたがっている』


 六月初め、壁音を調べた夜の録音。


 その音源には、『調査保存用・放送不可』と名前を付けたはずだった。


 続けて、別の日の声がつながる。


 『壁の向こうに、誰かいる』


 実際には、『誰かいるように聞こえるとは言っていない』とリオンへ反論した前後の一部だった。言葉の端だけが切り取られ、別の文章に見えるよう並べられている。


 背後へ低い水音が重ねられていた。


 『霊感を持つ資料整理員アウネさんは、この音を、過去の水門管理人からの警告かもしれないと考えています』


 「考えていない」


 休憩室で声が出た。


 番組の最後に、保存調査への寄付窓口が案内された。


 『あなたも、水路荘の深い夜に耳を澄ませてみませんか』


 再生が終わる。


 アウネはすぐにリオンへ電話をかけた。


 つながらない。


 二度目も、三度目も。


 昼休みになる前に、資料館の受付へ三組の来館者が現れた。


 「霊感のある方はどこですか」


 「昔の水門管理人の霊が載っている台帳を見せてください」


 「壁の声を聞いた時、身体が冷えましたか」


 受付職員が困った顔でアウネを見る。


 彼女は、一組ずつ答えた。


 「霊感相談はしていません」


 「台帳は水配分の記録です」


 「温度は測っていません」


 最後の男は、携帯電話を彼女へ向けた。


 「一言だけ。今も声は聞こえますか」


 アウネはレンズを手で覆った。


 「撮影許可を取って」


 「顔は映しませんから」


 「声にも許可がいる」


 館長が来て、男を外へ出した。


 しかし館長は戻ると、困ったように笑った。


 「宣伝にはなるけれどね」


 「何の宣伝?」


 「資料館の」


 「私が調べた紙ではなく、私に何か見えることの?」


 館長は答えなかった。


 午後三時、水路荘の前には見物人が集まっていた。


 窓へ携帯電話を向ける者。

 壁へ耳をつけようとする者。

 深い夜まで待つと言って、折り畳み椅子を出す者。


 ラビーとイアムが、建物へ近づかないよう頼んでいる。


 イザベラは店のカーテンを閉め、ナサンは模型を二階へ運んでいた。


 アウネが帰ってくると、数人が一斉に彼女を見た。


 「あの人だ」


 「霊感の」


 「水路の声、今も聞こえますか」


 アウネは誰にも答えず、ラジオ局へ向かった。


 リオンは編集室にいた。


 机には問い合わせの一覧と、寄付額を集計した画面が開かれている。


 「なぜ流した」


 アウネは扉を閉めなかった。


 局員全員に聞こえてもよかった。


 リオンは立ち上がった。


 「先に説明する。水路の話へ反応がなくなっていた。町の封鎖判断も近い。試験通水が成功しても、関心を持つ人が少なければ――」


 「なぜ流した」


 「音源の使用は、調査記録として許可をもらっていた」


 「放送不可と書いた」


 「名前と職業は前の番組で出ている。内容も、あなたが実際に話した言葉だ」


 「私は、死者の警告だと考えていない」


 「可能性として紹介した」


 「あなたの可能性を、私の考えにした」


 リオンは口を閉じた。


 アウネは机の録音機をつかんだ。


 水路へ投げて壊せば、同じ音は流れない。


 そう思った時、背後からラビーが腕をつかんだ。


 「放してください」


 「投げた後で、アウネが困る」


 「今も困っている」


 「分かっています」


 「分かっていない」


 アウネは録音機を持ったまま、リオンを見た。


 「私が壁の音を話したのは、調べるため。笑われるためでも、怖がられるためでもない」


 「笑わせるつもりはなかった」


 「結果が違えば、つもりは消えるの?」


 リオンの顔に焦りが浮かんだ。


 「でも、放送後に寄付が増えた。午前だけで、これまでの三倍です。町へ見せられる数字になる。水路荘を残せるかもしれない」


 画面をアウネへ向ける。


 金額が並んでいた。


 アウネはそれを見た後、録音機を机へ戻した。


 「私を売った金額?」


 「違う」


 「では、私が嫌だと言ったら返す?」


 リオンは答えられなかった。


 その沈黙で、十分だった。


 アウネは水路荘へ戻り、自室から資料箱を出した。


 町へ提出するために作った台帳の複製、筆跡照合、紙質調査、壁音の記録を入れる。


 原本は町の管理下にある。彼女が持ち出すのは、自分が作成した複製と調査資料だけだった。


 共同台所へ六人が集まった。


 「調査をやめる」


 アウネは言った。


 リオンが一歩近づく。


 「アウネ」


 「私の名前を番組に使わないで」


 「謝る」


 「今、聞きたくない」


 イザベラが、何か言いかけたラビーを目で止めた。


 誰も「落ち着いて」とは言わなかった。


 アウネは箱を抱え、資料館へ戻った。


 廊下の外では、見物人が壁の音を待っている。


 見物人が待っているのは、水の状態を知らせる石の振動ではなかった。『怖くて面白い話』が始まる合図を待っていた。


 本人より先に歩き始めた話は、本人が止まっても振り返らない。


 深い夜になる前、水路荘の壁が三度鳴った。


 その音を最も正確に聞ける人は、もうそこにいなかった。



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