第19話 怪談は本人より先に歩く
六月三十日の午前九時、アウネは資料館の収蔵庫で、江戸期の水利帳を読んでいた。
頁の右端には、水を流した日。
左端には、田畑の持ち主。
中央には、泥が詰まった場所と、取り除いた人数。
数字の間に、小さな文字で『夜、石が三度鳴る』と書かれている。
アウネは鉛筆を止めた。
三度鳴る。
水路荘の壁音と同じとは限らない。それでも、昔の管理人も石の音を記録していたことになる。
彼女は資料番号を書き、該当箇所へ紙片を挟んだ。
収蔵庫の外から、同僚の声がした。
「アウネ、ラジオ聞いた?」
「勤務中」
「水路荘の幽霊、あなたに話しかけるんだって?」
鉛筆の芯が折れた。
アウネは顔を上げた。
「何の話?」
「朝の『セレナ声便り』。今夜も再放送するらしいよ。すごいね、町中から問い合わせが来てる」
同僚は悪意なく笑った。
「資料館で霊能相談も始めたら、お客さん増えるかも」
「私は資料整理員」
「分かってるって。冗談」
冗談を言った本人は、すぐ別の棚へ向かった。
アウネは折れた芯を拾った。
指先へ黒い粉がつく。
昨夜、彼女はラジオを聞いていなかった。壁音の周期表を作るため、ベニーの録音と上流の放水記録を照合していた。
携帯電話を開くと、リオンから着信が三件あった。
メッセージはない。
資料館の休憩室で、局の配信記録を再生した。
軽い鐘の音に続き、リオンの声が流れる。
『今、水路町で最も古い共同住宅、水路荘の壁から、不思議な音が聞こえています』
水路の歴史。
立ち退き期限。
試験通水の成功。
そこまでは、事前に共有していた内容だった。
次に、アウネ自身の声が流れた。
『水が戻りたがっている』
六月初め、壁音を調べた夜の録音。
その音源には、『調査保存用・放送不可』と名前を付けたはずだった。
続けて、別の日の声がつながる。
『壁の向こうに、誰かいる』
実際には、『誰かいるように聞こえるとは言っていない』とリオンへ反論した前後の一部だった。言葉の端だけが切り取られ、別の文章に見えるよう並べられている。
背後へ低い水音が重ねられていた。
『霊感を持つ資料整理員アウネさんは、この音を、過去の水門管理人からの警告かもしれないと考えています』
「考えていない」
休憩室で声が出た。
番組の最後に、保存調査への寄付窓口が案内された。
『あなたも、水路荘の深い夜に耳を澄ませてみませんか』
再生が終わる。
アウネはすぐにリオンへ電話をかけた。
つながらない。
二度目も、三度目も。
昼休みになる前に、資料館の受付へ三組の来館者が現れた。
「霊感のある方はどこですか」
「昔の水門管理人の霊が載っている台帳を見せてください」
「壁の声を聞いた時、身体が冷えましたか」
受付職員が困った顔でアウネを見る。
彼女は、一組ずつ答えた。
「霊感相談はしていません」
「台帳は水配分の記録です」
「温度は測っていません」
最後の男は、携帯電話を彼女へ向けた。
「一言だけ。今も声は聞こえますか」
アウネはレンズを手で覆った。
「撮影許可を取って」
「顔は映しませんから」
「声にも許可がいる」
館長が来て、男を外へ出した。
しかし館長は戻ると、困ったように笑った。
「宣伝にはなるけれどね」
「何の宣伝?」
「資料館の」
「私が調べた紙ではなく、私に何か見えることの?」
館長は答えなかった。
午後三時、水路荘の前には見物人が集まっていた。
窓へ携帯電話を向ける者。
壁へ耳をつけようとする者。
深い夜まで待つと言って、折り畳み椅子を出す者。
ラビーとイアムが、建物へ近づかないよう頼んでいる。
イザベラは店のカーテンを閉め、ナサンは模型を二階へ運んでいた。
アウネが帰ってくると、数人が一斉に彼女を見た。
「あの人だ」
「霊感の」
「水路の声、今も聞こえますか」
アウネは誰にも答えず、ラジオ局へ向かった。
リオンは編集室にいた。
机には問い合わせの一覧と、寄付額を集計した画面が開かれている。
「なぜ流した」
アウネは扉を閉めなかった。
局員全員に聞こえてもよかった。
リオンは立ち上がった。
「先に説明する。水路の話へ反応がなくなっていた。町の封鎖判断も近い。試験通水が成功しても、関心を持つ人が少なければ――」
「なぜ流した」
「音源の使用は、調査記録として許可をもらっていた」
「放送不可と書いた」
「名前と職業は前の番組で出ている。内容も、あなたが実際に話した言葉だ」
「私は、死者の警告だと考えていない」
「可能性として紹介した」
「あなたの可能性を、私の考えにした」
リオンは口を閉じた。
アウネは机の録音機をつかんだ。
水路へ投げて壊せば、同じ音は流れない。
そう思った時、背後からラビーが腕をつかんだ。
「放してください」
「投げた後で、アウネが困る」
「今も困っている」
「分かっています」
「分かっていない」
アウネは録音機を持ったまま、リオンを見た。
「私が壁の音を話したのは、調べるため。笑われるためでも、怖がられるためでもない」
「笑わせるつもりはなかった」
「結果が違えば、つもりは消えるの?」
リオンの顔に焦りが浮かんだ。
「でも、放送後に寄付が増えた。午前だけで、これまでの三倍です。町へ見せられる数字になる。水路荘を残せるかもしれない」
画面をアウネへ向ける。
金額が並んでいた。
アウネはそれを見た後、録音機を机へ戻した。
「私を売った金額?」
「違う」
「では、私が嫌だと言ったら返す?」
リオンは答えられなかった。
その沈黙で、十分だった。
アウネは水路荘へ戻り、自室から資料箱を出した。
町へ提出するために作った台帳の複製、筆跡照合、紙質調査、壁音の記録を入れる。
原本は町の管理下にある。彼女が持ち出すのは、自分が作成した複製と調査資料だけだった。
共同台所へ六人が集まった。
「調査をやめる」
アウネは言った。
リオンが一歩近づく。
「アウネ」
「私の名前を番組に使わないで」
「謝る」
「今、聞きたくない」
イザベラが、何か言いかけたラビーを目で止めた。
誰も「落ち着いて」とは言わなかった。
アウネは箱を抱え、資料館へ戻った。
廊下の外では、見物人が壁の音を待っている。
見物人が待っているのは、水の状態を知らせる石の振動ではなかった。『怖くて面白い話』が始まる合図を待っていた。
本人より先に歩き始めた話は、本人が止まっても振り返らない。
深い夜になる前、水路荘の壁が三度鳴った。
その音を最も正確に聞ける人は、もうそこにいなかった。




