第18話 訂正文は恋文に似ている
六月二十六日の町報は、朝六時に水路荘の郵便受けへ入った。
七時には、イザベラがラビー充電所のシャッターを叩いていた。
「開けて」
「営業時間は九時からです」
「名誉が傷つけられているの」
「怪我なら救急へ」
「あなたの名誉も一緒よ」
シャッターが半分だけ上がり、寝癖のついたラビーが顔を出した。
イザベラは町報を突きつけた。
小学生記者欄の題は、『水路荘のその後』。
その下には、ベニーの文章が載っていた。
『前に紹介した公認カップルは、家がなくなる危機を二人で乗り越えています。酸っぱいスモモを一緒に食べて笑ったので、前より公認だと思います』
ラビーは三回読んだ。
「前より公認という表現は、新しいですね」
「感心している場合?」
「家がなくなる危機は、乗り越えていません」
「問題はそこだけではないでしょう」
「スモモは事実です」
「事実を並べれば真実になると思わないで」
その言葉は、どこかリオンへ向けたアウネの口調に似ていた。
二人は朝食も取らず、町報編集室へ向かった。
編集室は町役場の別館にあり、入口には過去十年分の町報が紐で束ねられている。受付の女性は二人の顔を見るなり、机の下から一枚の紙を出した。
「訂正依頼書はこちらです」
「用意がよすぎません?」とラビー。
「今朝から来ると思っていました」
「では、なぜ載せたの」
イザベラの声に、女性は姿勢を正した。
「小学生記者欄は、子どもが見た町をそのまま伝える方針です。ただし、個人の関係については確認すべきでした。そこは編集側の誤りです」
言い訳をせず頭を下げられ、イザベラは次の怒り方を失った。
「訂正は載せます。『両名は交際関係ではありません』の一行でよいでしょうか」
「待ってください」
ラビーが言った。
「それだけだと、イザベラが僕との関係を迷惑がっているように読めませんか」
「迷惑ではあるわ」
「ほら」
「誤掲載が迷惑なの。あなたの存在ではない」
「それも書きましょう」
編集の女性が鉛筆を持った。
「『誤掲載は迷惑だが、ラビー氏の存在は迷惑ではない』」
「そんな訂正文、もっとおかしいでしょう」
イザベラが紙を奪った。
「私が書きます」
彼女は勢いよく書き始めた。
『前号および今号に掲載された公認カップルとの記述は事実ではありません。私たちは水路荘の隣人であり、互いの仕事と生活を尊重する協力関係にあります』
ラビーが横から読む。
「協力関係だけだと、僕が一方的に世話をしているように見えます」
「なぜ?」
「イザベラは何でも後回しにするという評判がありますから」
「町報で私の評判を補強しないで」
ラビーは別の文を足した。
『なお、イザベラ氏は必要な場面では現実的な判断を行い、ラビー氏の店舗休業を独断で決めることがあります』
「独断を褒め言葉のように書かないで」
「事実です」
「あなたも、誰に頼まれなくても人の機械を無料で直すでしょう」
イザベラはさらに書いた。
『ラビー氏は他者を励ます一方、自身の困難を隠す傾向があるため、イザベラ氏が適宜確認しています』
「それは訂正ではなく生活指導です」
「必要でしょう」
二人が紙の左右から書き足すうちに、文章は用紙の裏まで続いた。
編集室の女性は途中から止めなかった。
窓口へ町内会長が来て、その紙をちらりと見た。
「恋文なら、投稿欄は別だよ」
「違います」
「違います」
二人の声が重なった。
町内会長は満足そうに頷いた。
「息は合ってる」
編集室を出た時、訂正文は結局、最初の一行だけに戻っていた。
『前号および今号の「公認カップル」は、取材確認のない誤記でした。お詫びして訂正します』
「最初からこれでよかったのでは?」
ラビーが言う。
「あなたが余計なことを言うからでしょう」
「僕はあなたの名誉を守ろうとしたんです」
「私もあなたの名誉を守ろうとしたの」
二人は同時に黙った。
商店街へ戻る途中、パン屋の店主が笑いながら手を振った。
「訂正文、楽しみにしてるよ」
「一行です」とイザベラ。
「残念だねえ」
「何を期待していたの」
「町には娯楽が少ないから」
水路荘へ戻ると、イザベラ写真衣装室の机で電話が鳴っていた。
首都の劇場で一緒に働いていた衣装主任からだった。
『夏公演の衣装班に欠員が出たの。六週間だけ戻れない? 七月二十日から。宿は劇場で手配できる』
イザベラは返事をせず、窓の外を見た。
七月二十日。
退去期限の二週間前。
その時期に水路町を離れれば、荷造りも町との交渉も、誰かへ任せることになる。
一方で、首都へ行けば住む場所は用意される。仕事もある。水路荘が解体されても、戻る場所がなくて困ることはない。
現実的な話だった。
『イザベラ?』
「聞いているわ」
『返事は今日でなくていい。ただ、三日以内にもらえる?』
「三日後に返します」
通話を切る。
今までの彼女なら、返事をしないまま期限の前夜を迎えたかもしれない。
今回は卓上の暦へ、六月二十九日、劇場へ返答、と赤字で書いた。
隣のラビー充電所へ行くと、ラビーは町報の訂正依頼書の控えを工具棚へ貼っていた。
「記念品にしないで」
「充電器悲劇に続く資料です」
「外して」
「はい」
外しながら、ラビーは彼女の顔を見た。
「何かありました?」
「首都の劇場から、六週間戻らないかと言われた」
「いい話じゃないですか」
返事は早かった。
「宿もあるなら、退去期限の心配もしなくていい。イザベラの腕を必要としている場所がある。行くべきです」
イザベラは何も言わなかった。
ラビーの手が止まる。
彼は自分の言葉を、口に出した後から聞き直すような顔をした。
「今のは、早すぎました」
「ええ」
「行きたいか、聞いていない」
「ええ」
「怖いかも聞いていない」
「ええ」
「三回も言わなくていいでしょう」
「確認しているの」
ラビーは椅子を一つ引いた。
「座ります?」
「今日は店を閉めないの?」
「客が来たら待ってもらいます」
イザベラは座った。
「行きたい気持ちはある。劇場の仕事は好きよ」
「はい」
「でも、逃げ道として行くのは嫌」
「はい」
「水路町へ戻れない働き方も嫌」
「はい」
「あなた、さっきから同じ返事しかしていない」
「点検が必要ですか」
「今は、それでいいわ」
しばらくして、ラビーが言った。
「本当は、行ってほしくないです」
イザベラは顔を上げた。
「でも、行かないでほしいと言って、あなたの好きな仕事を小さくするのも嫌です。だから、何がいいのか、僕にはまだ分からない」
「分からないままでいいの?」
「三日間は」
イザベラは笑った。
「では、三日待って」
「何を待つんです?」
「私が自分で決めるのを」
六月二十九日の夕方。
イザベラは劇場へ短い返事を送った。
『短期参加の意思はあります。ただし、水路町を生活と仕事の拠点として続けられる勤務条件を相談させてください』
送信ボタンを押した後、彼女は画面を閉じなかった。
返事をしたという事実を、しばらく眺めた。
その夜、ラビーが尋ねた。
「決めました?」
「交渉すると決めた」
「行くか、残るかではなく?」
「どちらかしか選べないと、誰が決めたの」
ラビーは頷いた。
「現実的ですね」
「今度は、諦める意味ではないわ」
町報の訂正文は翌週掲載される。
商店街へ戻る二人は、別々の店の鍵を持ちながら、同じ歩幅で石畳を進んだ。
パン屋の店主がまた笑ったが、今度は二人とも訂正しなかった。




