第17話 大丈夫と言わない日
六月二十三日の朝、水路荘の共同台所には、果樹園から届いた青いスモモが山になっていた。
昨夜、細いながらも旧枝線の水が若木の根元まで届いた。その話を聞いたナサンの父が、まだ熟しきらない実を木箱ごと持たせたのだという。
「祝いなのか、間引いた実の処分なのか分からないわね」
イザベラが一つかじり、すぐに顔をしかめた。
「酸っぱい」
「若木と同じです。これから甘くなる」
ナサンは真面目に答えたが、自分では手を伸ばさなかった。
アウネは壁の音を記録し、リオンは昨夜の試験通水をどう町へ伝えるか考えている。ドアルは町職員へ提出する安全確認書を整え、イアムは何も言わず、スモモを洗っていた。
水路荘には、久しぶりに成功した後の空気があった。
誰かが笑えば、別の誰かも笑う。
廊下ですれ違えば、昨夜の水音をもう一度話す。
八月三日の退去期限が消えたわけではないのに、細い水が一本流れただけで、建物全体が少し長く息をしてよいと言われたようだった。
ラビーだけは、その朝から修理店の奥にこもっていた。
作業台の上には携帯電話ではなく、紙が広げられている。
移転先候補の家賃。
工具棚の解体費。
電気工事。
保証金。
運搬車の手配。
数字の横には、小さな丸と三角がいくつも書かれていた。
イザベラが店の仕切りから顔を出した。
「スモモ、いる?」
「甘いなら」
「甘くなる予定のものならある」
「将来性へお金は払わない主義です」
「あなた、未請求の修理が山ほどあるでしょう」
ラビーの鉛筆が止まった。
「朝からよく見ていますね」
「隣の店だから」
イザベラは作業台へ近づいた。
紙の一番下には、太い線で合計額が囲まれていた。彼女の店の移転にも似た費用がかかる。だがラビーの店には、壁一面の部品棚と、重い測定器と、長年かけて集めた小さなねじがある。
「大丈夫?」
ラビーは顔を上げずに答えた。
「大丈夫です」
あまりに早かった。
問いが彼へ届く前から、返事だけが用意されていたような速さだった。
イザベラは店の入口へ戻り、『営業中』の札を裏返した。
『部品整理のため一時休業』
「何をしているんですか」
「大丈夫ではない人の店を閉めたの」
「大丈夫です」
「二回目は、一回目より信用できないわ」
「お客さんが来ます」
「来たら、待ってもらう」
「急ぎの修理かもしれない」
「あなたの急ぎは?」
ラビーは口を閉じた。
イザベラは客用の丸椅子へ座った。背もたれのない、長居には向かない椅子である。
「励まさない修理店の日に、あなたは言ったでしょう。分からないままでいいって」
「あれはお客さんに」
「店主には適用されないの?」
「店主は故障していません」
「同じ答えを繰り返す機械は、点検した方がいいわ」
ラビーは笑おうとした。
口元は少し動いたが、声にならなかった。
店の外では、アウネが何かを落とし、リオンが謝っている。二階からはナサンの模型を運ぶ音がする。いつもの水路荘だ。
その音の中で、ラビーは鉛筆を置いた。
「子どもの頃、三年続けて同じ家に住んだことがありませんでした」
イザベラは何も言わなかった。
「父の仕事が変わるたびに町が変わって、家が変わって、学校も変わった。荷物を箱へ詰めるのは得意でした。捨てる物と持っていく物を決めるのも」
「工具は?」
「最初は、安いドライバーが一本だけでした。転校先で、同級生の音楽プレーヤーを直した。次の町では時計。その次では、先生のラジオ」
ラビーは壁の工具棚を見た。
「家の住所は何度も変わったけれど、この箱を開けば、自分が何をできるかは変わらなかった」
作業台の下には、角が削れた古い工具箱が置かれている。取っ手には、剥がしきれなかった住所札が何枚も重なっていた。
「道具が、あなたの住所だったのね」
「そう思っていました」
「今は?」
ラビーはすぐに答えなかった。
窓の向こうに、イザベラ写真衣装室の赤い日よけが見える。共用台所では、イアムが鍋を火にかけている。床下には、昨夜流れた水がまだわずかに残っているはずだった。
「ここを出ても、修理はできます」
「ええ」
「工具も運べる。店の名前も変えなくていい。水路町の別の場所に空き店舗もあります」
「現実的ね」
「現実です」
そこで、声が細くなった。
「でも、怖いです」
イザベラは丸椅子から動かなかった。
「また、箱を閉じるのが」
ラビーは古い工具箱の留め金へ指を置いた。
「何度もやってきたから、できないわけじゃない。できることと、平気なことは違うんですね」
「違うわ」
「ここを失うのが怖い」
その言葉を口にした瞬間、彼は少し驚いた顔をした。
自分の声を、初めて聞いたようだった。
イザベラはスモモを一つ、作業台へ置いた。
「酸っぱいけれど、食べる?」
「今、その話ですか」
「何かを言った直後に、必ず立派な言葉を足す必要はないでしょう」
ラビーはスモモを手に取った。
一口かじり、目を閉じる。
「本当に酸っぱい」
「大丈夫?」
「大丈夫ではありません」
「よろしい」
二人は声を立てて笑った。
店の外で、小さな足音が止まった。
ベニーが透明な測定管を抱えて立っていた。昨夜の調査で学校から借りた物を返しに来たらしい。
「入っていい?」
「今、休業中」とイザベラ。
「でも笑ってる」
「深刻な休業なの」
ベニーは首を傾げ、手にしていた町報の小学生記者用紙へ何かを書いた。
「何を書いたの?」
「取材したこと」
「今のは取材ではないわ」
「公認カップルが危機を乗り越えた」
「乗り越えていないし、公認もされていない」
「でも、二人で酸っぱいものを食べた」
「その条件なら、水路荘全員が公認カップルになるでしょう」
ベニーは少し考えた後、用紙へ何かを書き足した。
「訂正した?」
「詳しくした」
嫌な予感しかしなかった。
ベニーが帰った後、ラビーは店の札を営業中へ戻した。
移転費用の紙は捨てず、引き出しにも隠さなかった。作業台の端へ置き、その横に水路調査の予定表を並べる。
「大丈夫ではないけれど、何をします?」
イザベラが尋ねた。
「今日は修理します。夜は町へ出す報告書を手伝う。明日は移転先も一軒見る」
「両方?」
「ここを守ることと、出る準備をすることは、反対ではありません」
ラビーは工具箱の留め金から指を離した。
「ただ、先に言っておきます」
「何を?」
「僕は、ここにいたい」
イザベラは一度だけ頷いた。
「その言葉なら、信用できるわ」
店の戸が開き、画面の割れた携帯電話を持った客が入ってきた。
ラビーはいつもの明るい声で迎えた。
ただし、その日の彼は、何でも大丈夫だとは言わなかった。




