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深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


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17/21

第17話 大丈夫と言わない日

 六月二十三日の朝、水路荘の共同台所には、果樹園から届いた青いスモモが山になっていた。


 昨夜、細いながらも旧枝線の水が若木の根元まで届いた。その話を聞いたナサンの父が、まだ熟しきらない実を木箱ごと持たせたのだという。


 「祝いなのか、間引いた実の処分なのか分からないわね」


 イザベラが一つかじり、すぐに顔をしかめた。


 「酸っぱい」


 「若木と同じです。これから甘くなる」


 ナサンは真面目に答えたが、自分では手を伸ばさなかった。


 アウネは壁の音を記録し、リオンは昨夜の試験通水をどう町へ伝えるか考えている。ドアルは町職員へ提出する安全確認書を整え、イアムは何も言わず、スモモを洗っていた。


 水路荘には、久しぶりに成功した後の空気があった。


 誰かが笑えば、別の誰かも笑う。

 廊下ですれ違えば、昨夜の水音をもう一度話す。

 八月三日の退去期限が消えたわけではないのに、細い水が一本流れただけで、建物全体が少し長く息をしてよいと言われたようだった。


 ラビーだけは、その朝から修理店の奥にこもっていた。


 作業台の上には携帯電話ではなく、紙が広げられている。


 移転先候補の家賃。

 工具棚の解体費。

 電気工事。

 保証金。

 運搬車の手配。


 数字の横には、小さな丸と三角がいくつも書かれていた。


 イザベラが店の仕切りから顔を出した。


 「スモモ、いる?」


 「甘いなら」


 「甘くなる予定のものならある」


 「将来性へお金は払わない主義です」


 「あなた、未請求の修理が山ほどあるでしょう」


 ラビーの鉛筆が止まった。


 「朝からよく見ていますね」


 「隣の店だから」


 イザベラは作業台へ近づいた。


 紙の一番下には、太い線で合計額が囲まれていた。彼女の店の移転にも似た費用がかかる。だがラビーの店には、壁一面の部品棚と、重い測定器と、長年かけて集めた小さなねじがある。


 「大丈夫?」


 ラビーは顔を上げずに答えた。


 「大丈夫です」


 あまりに早かった。


 問いが彼へ届く前から、返事だけが用意されていたような速さだった。


 イザベラは店の入口へ戻り、『営業中』の札を裏返した。


 『部品整理のため一時休業』


 「何をしているんですか」


 「大丈夫ではない人の店を閉めたの」


 「大丈夫です」


 「二回目は、一回目より信用できないわ」


 「お客さんが来ます」


 「来たら、待ってもらう」


 「急ぎの修理かもしれない」


 「あなたの急ぎは?」


 ラビーは口を閉じた。


 イザベラは客用の丸椅子へ座った。背もたれのない、長居には向かない椅子である。


 「励まさない修理店の日に、あなたは言ったでしょう。分からないままでいいって」


 「あれはお客さんに」


 「店主には適用されないの?」


 「店主は故障していません」


 「同じ答えを繰り返す機械は、点検した方がいいわ」


 ラビーは笑おうとした。


 口元は少し動いたが、声にならなかった。


 店の外では、アウネが何かを落とし、リオンが謝っている。二階からはナサンの模型を運ぶ音がする。いつもの水路荘だ。


 その音の中で、ラビーは鉛筆を置いた。


 「子どもの頃、三年続けて同じ家に住んだことがありませんでした」


 イザベラは何も言わなかった。


 「父の仕事が変わるたびに町が変わって、家が変わって、学校も変わった。荷物を箱へ詰めるのは得意でした。捨てる物と持っていく物を決めるのも」


 「工具は?」


 「最初は、安いドライバーが一本だけでした。転校先で、同級生の音楽プレーヤーを直した。次の町では時計。その次では、先生のラジオ」


 ラビーは壁の工具棚を見た。


 「家の住所は何度も変わったけれど、この箱を開けば、自分が何をできるかは変わらなかった」


 作業台の下には、角が削れた古い工具箱が置かれている。取っ手には、剥がしきれなかった住所札が何枚も重なっていた。


 「道具が、あなたの住所だったのね」


 「そう思っていました」


 「今は?」


 ラビーはすぐに答えなかった。


 窓の向こうに、イザベラ写真衣装室の赤い日よけが見える。共用台所では、イアムが鍋を火にかけている。床下には、昨夜流れた水がまだわずかに残っているはずだった。


 「ここを出ても、修理はできます」


 「ええ」


 「工具も運べる。店の名前も変えなくていい。水路町の別の場所に空き店舗もあります」


 「現実的ね」


 「現実です」


 そこで、声が細くなった。


 「でも、怖いです」


 イザベラは丸椅子から動かなかった。


 「また、箱を閉じるのが」


 ラビーは古い工具箱の留め金へ指を置いた。


 「何度もやってきたから、できないわけじゃない。できることと、平気なことは違うんですね」


 「違うわ」


 「ここを失うのが怖い」


 その言葉を口にした瞬間、彼は少し驚いた顔をした。


 自分の声を、初めて聞いたようだった。


 イザベラはスモモを一つ、作業台へ置いた。


 「酸っぱいけれど、食べる?」


 「今、その話ですか」


 「何かを言った直後に、必ず立派な言葉を足す必要はないでしょう」


 ラビーはスモモを手に取った。


 一口かじり、目を閉じる。


 「本当に酸っぱい」


 「大丈夫?」


 「大丈夫ではありません」


 「よろしい」


 二人は声を立てて笑った。


 店の外で、小さな足音が止まった。


 ベニーが透明な測定管を抱えて立っていた。昨夜の調査で学校から借りた物を返しに来たらしい。


 「入っていい?」


 「今、休業中」とイザベラ。


 「でも笑ってる」


 「深刻な休業なの」


 ベニーは首を傾げ、手にしていた町報の小学生記者用紙へ何かを書いた。


 「何を書いたの?」


 「取材したこと」


 「今のは取材ではないわ」


 「公認カップルが危機を乗り越えた」


 「乗り越えていないし、公認もされていない」


 「でも、二人で酸っぱいものを食べた」


 「その条件なら、水路荘全員が公認カップルになるでしょう」


 ベニーは少し考えた後、用紙へ何かを書き足した。


 「訂正した?」


 「詳しくした」


 嫌な予感しかしなかった。


 ベニーが帰った後、ラビーは店の札を営業中へ戻した。


 移転費用の紙は捨てず、引き出しにも隠さなかった。作業台の端へ置き、その横に水路調査の予定表を並べる。


 「大丈夫ではないけれど、何をします?」


 イザベラが尋ねた。


 「今日は修理します。夜は町へ出す報告書を手伝う。明日は移転先も一軒見る」


 「両方?」


 「ここを守ることと、出る準備をすることは、反対ではありません」


 ラビーは工具箱の留め金から指を離した。


 「ただ、先に言っておきます」


 「何を?」


 「僕は、ここにいたい」


 イザベラは一度だけ頷いた。


 「その言葉なら、信用できるわ」


 店の戸が開き、画面の割れた携帯電話を持った客が入ってきた。


 ラビーはいつもの明るい声で迎えた。


 ただし、その日の彼は、何でも大丈夫だとは言わなかった。



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