第16話 深い夜の最初の水
六月二十二日、午後十一時四十分。
水路荘の裏庭に、七本の低い照明が並んでいた。
ラビーが中古の作業灯を低電圧へ改造し、防水カバーを二重にしたものだ。白い光は遠くまで届かず、石蓋と足元だけを丸く照らしている。
「明るすぎると、奥の反射が見えなくなる」
ラビーは一本ずつ点灯を確かめた。
「暗すぎると、私たちが転ぶ」とイザベラ。
「転ばない明るさと、見える暗さのバランス」
「ドアルみたいな言い方」
「便利だよ、バランス」
「便利すぎる言葉は疑った方がいい」
アウネが壁へ手を当てたまま言った。
今夜の流路確認は、住人だけの判断ではない。
ドアルが提出した安全計画を町の施設管理課が審査し、点検口から内部へ入らないこと、小弁を最大三ミリ、十分以内だけ開けること、異音や濁りが出た場合は即時停止することを条件に許可が出た。
施設管理課の技術職員セドが立ち会い、上流の管理所とも電話をつないでいる。
果樹園側にはナサンの父と、別の町職員が待機していた。
試験で流す水は、現在の地下配管から非常用の連絡管を経て旧水路へ入る。量は家庭の蛇口を数本開いた程度に制限する。
この一度で水路の有用性を証明するつもりはない。確かめるのは、細い水が実際にどこへ向かうかだけだった。
「開始前確認」
セドが記録板を持つ。
ドアルが安全索と立入線。
ラビーが照明と電源。
ナサンが透明管式の簡易水位計と時刻記録。
イザベラが写真。
リオンが連絡記録。今夜は放送せず、町職員と果樹園側への連絡だけを担当する。
アウネが音と湿度。
イアムが旧設備の名称確認。
「全員、役割外の操作はしない」
セドの言葉に、七人が頷いた。
イアムだけ、返事が遅れた。
「体調が悪いなら外れてください」とナサン。
「悪くない」
「顔色が悪い」
「夜は誰でも顔色が悪く見える」
イザベラが一枚撮った。
「写真でも悪いわ」
「記録から消してくれ」
「記録は消さない」
アウネが壁から手を離した。
「三、三、二」
全員が彼女を見る。
「何が?」とセド。
「音。最初に三回、次も三回、最後が二回。六月八日の夜から、少しずつ変わった」
リオンが調査記録の日付をセドへ示した。
ナサンはベニーの録音記録と上流放水表を開く。
「通常は三回ずつでした。流れのどこかで空気が抜ける間隔が変わった可能性があります」
「閉塞か」とドアル。
「断定はできません。だから、開けたら水位上昇の速度を見ます」
セドは記録板へ『異音申告あり』と書いた。
霊感とも錯覚とも書かない。
聞こえたと申告された事実だけを残した。
午後十一時五十八分。
学校側の点検口に、金属箱から見つかった一本目の鍵を差した。
もう一つの鍵穴は、町の保守用解除具で固定する。二本目の鍵が見つかっていないための暫定措置で、町職員だけが扱える。
石蓋の下にある金属板が、重い音を立てて開いた。
誰も中へ降りない。
長い操作棒を差し込み、小弁の軸へ噛ませる。
イアムが一歩出た。
「その角度では、B線が先に受ける」
セドが手を止める。
「図面では西枝線です」
「図面の矢印が逆だ。軸の印を見ろ」
錆の下に、小さな三角印がある。
ドアルが照明を近づけた。
「台帳の断面図と一致する。イアムの言うとおりです」
セドは向きを修正した。
午前零時。
上流管理所から連絡が入る。
『連絡弁、試験位置へ。流量一定』
「小弁、一ミリ」
セドが操作棒を回した。
石の奥で、何かが咳をしたような音がした。
透明管の水位が五ミリ上がる。
「濁り、少量」とナサン。
「音、三、三、二のまま」とアウネ。
「果樹園側、変化なし」
リオンが電話の内容を復唱する。
「二ミリ」
操作棒がわずかに動く。
今度は、乾いた石を擦る細い音が続いた。
水路荘の床下から、長い間忘れられていた息が抜ける。
裏庭の開放溝に、黒い筋が現れた。
「水」
イザベラが呟く。
最初の一滴は、石の窪みへ吸われた。
次の一滴が、その上へ重なる。
やがて糸ほどの流れになり、溝の低い方へ進み始めた。
ラビーが笑った。
声を出さず、両手を強く握る。
ナサンは時計と水位計を交互に見た。
「上昇は想定内。三ミリまでなら」
「三ミリ」
セドが最後の位置まで開く。
流れが少し太くなった。
溝の途中に置いた白い布片が濡れる。次の確認口でも湿度計が上がる。リオンの電話へ、二百メートル先、四百メートル先から順に報告が届く。
『第二確認口、湿りあり』
『旧共同井戸裏、流音確認』
七人は動けない。
水を追って走りたい気持ちを、立入線の内側へ押し込める。
「六分経過」とナサン。
「果樹園手前、まだ来ない」
電話越しに父の声が聞こえた。
ナサンの指が記録用紙の上で止まる。
計算が違っていたのか。
途中で漏れているのか。
アウネが目を閉じた。
「二回の後が長い」
「どこで?」とドアル。
「ここじゃない。もっと西」
「根拠は」
「分からない。でも、音が戻ってこない」
ドアルは反論せず、ナサンの高低差図を見た。
「旧共同井戸の先に、曲がりがある。そこへ一度溜まっている可能性がある」
「試験時間を延ばせません」とセド。
「延ばさなくていい。流れが届くまでの時間を記録します」
ナサンは自分へ言い聞かせるように答えた。
八分三十秒。
リオンの電話が鳴った。
『果樹園手前の石溝に水が出た』
ナサンはすぐに復唱できなかった。
「ナサン?」
『聞こえてるか。水が来た』
父の声だった。
「水深は」
『水深と言えるほどじゃない。指の先くらいだ』
「どちらへ流れてる」
『下段。若木の方だ』
十秒後、別の町職員が数値を読み上げた。
ナサンは記録する。
九分十二秒。
父が、また電話の向こうで言った。
『一本目の根元まで来た』
その場にいる全員が聞いた。
たった一本。
根を濡らすには足りないほどの細い水。
それでも、古い台帳と母の帳面と、方眼紙の線が、現実の土へつながった。
ラビーがナサンの肩を叩きかけ、役割外の動きを思い出して手を引っ込めた。
イザベラは、その中途半端な手まで写真に収めた。
「十分。閉止」
セドが小弁を戻す。
水位がゆっくり下がった。
最後の流れが石の窪みへ消える。
試験は成功だった。
少なくとも、西枝線の一部が果樹園手前までつながっている。
皆が息を吐いた時、イアムだけが金属板を見つめていた。
「喜ばないの?」とアウネ。
「水が通っただけだ」
「それを確認する夜でしょう」
「通ることと、安全に分けられることは違う」
ドアルがイアムを見る。
「十三年前も、この線を使ったのか」
「今夜の記録を先に終わらせろ」
答えではなかった。
水路荘へ戻り、全員で台帳へ試験結果を書き込むことになった。
ナサンが日付を探し、頁をめくる。
二十年前。
十五年前。
十四年前。
次の頁は、十二年前だった。
「一枚ない」
綴じ糸の近くに、細い切り跡がある。
破れたのではない。
刃物で頁の根元から切り取られている。
アウネが頁番号を確かめた。
「十三年前の雨期。六月から八月まで全部ない」
台所の空気が変わった。
イアムは台帳へ近づかなかった。
「最初からなかった?」とリオン。
「金属箱を開けた時、頁数までは確認していない」とアウネ。
「誰が切ったか分かる?」
「切り口は古い。今夜ではない」
ナサンはイアムを見た。
学校からの帰り道で聞いた言葉が蘇る。
『私は、自分で選んだ』
「十三年前、何を開けたんですか」
イアムは答えなかった。
椅子から立ち、部屋へ戻った。
誰も追わなかった。
初めて水が届いた喜びは、消えてはいない。
ただ、その下へ別の重さが加わった。
深い夜の午前二時。
全員が眠った後、イアムは一人で裏庭へ出た。
点検口は町職員が封印し、鍵も持ち帰っている。
開けることはできない。
彼は石蓋の前へしゃがみ、掌を冷たい表面へ置いた。
壁の向こうには、試験で残ったわずかな水がある。
「まだ開けるな」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
十三年前の自分か。
死んだミレナか。
水路そのものか。
石の奥で、二回だけ音がした。
イアムは三回目を待った。
朝まで、聞こえなかった。




