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深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


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第15話 放送しない三秒間

 六月十五日、アウネは放送開始の赤いランプへ向かって言った。


 「黙ります」


 ガラスの向こうで、リオンが両手を広げた。


 その手つきは、待て、とも、なぜ、とも読めた。


 アウネはどちらにも従わなかった。


 町の小さなラジオ局「セレナ声便り」。午後の生活情報番組の一部を、責任者であるリオンの監督下で補助する許可をもらっていた。


 本来なら、水路町の好きな音を一つ紹介し、三十秒ほど話すだけだった。


 アウネが選んだのは、閉館後の資料館で頁をめくる音である。


 紙が擦れる音を流した後、彼女は原稿を読んだ。


 「古い紙は、全部同じ音ではありません。湿気を吸った紙は低く、乾いた紙は軽く鳴ります。誰かが何度も開いた頁は、角が柔らかくなっています」


 ここまでは原稿どおりだった。


 次の一文は、『音を聞けば、記録がどのように扱われたか想像できます』。


 しかしアウネは、そこで紙を置いた。


 「今から三秒、何も言いません。聞こえたものを、自分で決めてください」


 赤いランプが点いたまま、放送室が静まる。


 一秒。


 空調の低い唸り。


 二秒。


 ガラスの外で誰かが紙を落とした。


 三秒。


 リオンの指が、卓の上で止まった。


 アウネは再び口を開く。


 「私には、紙が戻ろうとしている音に聞こえます。違うものに聞こえても、間違いではありません」


 曲へ切り替わる。


 リオンは放送室へ入ってきた。


 「原稿にない」


 「三秒なら、放送事故ではない」


 「そういう問題じゃない」


 「何も言ってないのに?」


 「何も言わないと決めるのも、進行の一部だ。先に共有して」


 「次は共有する」


 「次もやる気なんだ」


 注意しているはずのリオンが、少し笑った。


 その日の午前中、二人の立場は逆だった。


 リオンは資料館の収蔵庫で、職員の監督を受けながら古い生活記録の目録作りを手伝った。


 箱から一冊出す。

 表紙を記録する。

 頁数を数える。

 破損箇所を別紙へ書く。

 元の順番どおり箱へ戻す。


 三冊目で、リオンは肩を回した。


 「同じ内容なら、まとめて一件にできませんか」


 担当職員が首を横へ振る。


 「同じに見えても、作られた日と持ち主が違います」


 「放送なら、共通部分をまとめた方が伝わる」


 「ここは放送局ではありません」


 五冊目で、彼は頁の端へ貼られた古い新聞記事を見つけた。


 剥がれかけている。


 「取って別袋へ入れた方が安全です」


 「勝手に剥がさない。付着した状態も資料です」


 「落ちたら?」


 「落ちる前と落ちた後を記録します」


 「先に助ければいいでしょう」


 「何を助けた結果、何を変えたか分からなくなるでしょう」


 リオンは黙った。


 午後、放送を終えた二人は水路荘へ戻り、ミレナの聞き書き帳を卓に置いた。


 町へ提出する調査書の参考として、どの部分を紹介できるか確認するためだった。


 「これを番組で読もう」


 リオンは、一つの頁を指した。


 『東の染物屋は、夜明け前に青を洗う。娘が人に見られたくないと言うため。水は午前四時から四時半まで』


 「暮らしと水配分がつながっている。水路が単なる設備じゃなかったと、一分で伝わる」


 「読まない」


 アウネは即答した。


 「なぜ」


 「娘が見られたくなかったことを、今さら町中へ流す必要がない」


 「何十年も前の話だ。名前も出ていない」


 「染物屋は一軒しかなかった。町の人なら分かる」


 「では店の種類を変える」


 「変えたら記録ではない」


 「要点を残して匿名にするのが編集だ」


 「死んだ人の言葉なら、何をしてもいいの?」


 リオンの指が頁の上で止まった。


 「そうは言ってない」


 「ミレナが書いた。でも、書かれた娘は公開に同意していない。死者の言葉にも、死者が預かった他人の言葉にも、公開していい範囲がある」


 「その範囲は、誰が決める」


 「分からないなら、出さない」


 「出さなければ、誰にも届かない」


 「届かせることを、いつも正しいと思わないで」


 声が強くなった。


 アウネは直情型だ。感じたことが言葉になるまでの距離が短い。


 リオンは、言葉を外へ届ける仕事をしている。届かない言葉は、存在しないのと同じだと思ってきた。


 二人の正しさは、卓の中央でぶつかった。


 「アウネが壁の音について話した部分は?」


 リオンが別の録音を示した。


 壁音を初めて調べた夜、本人の許可を得て収録した音源だった。アウネが『水が戻りたがっている』と話している。


 「調査記録として保存する。放送はしない」


 「水路への関心を集められる」


 「私を変な人として?」


 「そういう作りにはしない」


 「作る人は、いつもそう言う」


 アウネは録音機の停止ボタンを押した。


 「今日は、ここまで」


 席を立ちかけた時、放送局からリオンの携帯へ連絡が入った。


 午後の三秒間について、聴取者から反応が届いているという。


 『時計が止まったのかと思って、自分の台所の音を初めて聞いた』


 『夫の介護中は、ラジオがずっと話しているのが苦しかった。今日は少し息ができた』


 『紙の音の後の静けさで、亡くなった父の書斎を思い出した』


 リオンは画面をアウネへ見せた。


 「三秒が、一番届いた」


 「何も言っていないのに」


 「だからかもしれない」


 アウネは椅子へ座り直した。


 「では、番組で聞き書きを使う代わりに、三秒だけ空ける」


 「何のために?」


 「聞いた人が、自分の好きなものを思い出すため」


 「原稿に書く?」


 「書く。何も言わないと書く」


 リオンは笑った。


 二人で次回の短い原稿を作った。


 『この後、三秒間の無音があります。誰かの人生をこちらで決めつけず、あなた自身の記憶を置くための時間です』


 ミレナの聞き書き帳は読まない。


 アウネの壁音の録音も流さない。


 リオンは音源ファイルへ『調査保存用・放送不可』と名前を付けた。


 念のため、編集作業用の複製も同じフォルダへ残した。


 アウネが画面を確認する。


 「放送不可、忘れないで」


 「忘れない」


 その時のリオンは、本当にそう思っていた。


 ただ、言葉を届ければ水路荘を守れるかもしれないという焦りが、日に日に大きくなっていることを、まだ自分の判断とは別のものとして扱っていた。


 夜の放送で、予告どおり三秒の無音が流れた。


 水路荘の七人は、共同台所でそれを聞いた。


 一秒目、誰も動かなかった。


 二秒目、壁の奥で水が鳴った。


 三秒目、イアムが何かを言いかけ、やめた。


 放送が戻る。


 言わなかった言葉だけが、卓の上へ残った。



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