第14話 夜勤の靴は音を立てない
六月十二日の午後十時、倉庫街の靴はほとんど音を立てなかった。
滑りにくい厚底。つま先を守る硬い覆い。濡れた床を歩いても、石畳のように踵が鳴らない。
その中で、ドアルの靴だけが場違いだった。
「本当に、それで来たんですか」
ナサンが足元を見る。
五月三十一日の点検で泥に沈んだ革靴は、表面だけ乾いていた。つま先には白い擦り傷が残り、紐の脇には落とし切れなかった土が挟まっている。
「倉庫責任者から、保護具を着ければよいと確認した」
ドアルは金属製の先芯が入った保護カバーを靴へ装着した。
「普通の安全靴を借りればいいのに」
「自分の足で歩いた場所は、自分の靴に残す」
「急に詩みたいなことを言わないでください」
「ラビーにも言われた」
職場同行のためとはいえ、見学者が勝手に荷物へ触れることはできない。倉庫責任者の許可を得て、ドアルは一晩だけの荷役補助員として登録され、作業前の安全説明も受けていた。
最初の仕事は、青果を積んだ木箱を冷蔵区画へ運ぶことだった。
箱の側面には、重さ二十キロと書いてある。
ドアルは一箱を持ち上げた。
「背中ではなく、膝を使って」
ナサンが言う。
「分かっている」
「分かっている人の持ち方じゃない」
二箱目で腕が重くなり、五箱目で呼吸が浅くなった。
台車へ載せれば楽になるが、通路の角は狭く、床にはわずかな傾斜がある。荷物が崩れない速度で押し、他の作業員の進路を塞がない位置へ止める。図面なら一本の矢印で済む移動に、いくつもの判断があった。
冷蔵区画へ入る。
汗をかいた首筋が急に冷えた。
眼鏡が曇り、指先の感覚が鈍くなる。箱を棚へ収め、暖かい外へ戻ると、今度は服の内側が蒸した。
「これを何往復する」
「今日は少ない日です」
「答えになっていない」
「数えると嫌になるから、僕は数えません」
ナサンは次の台車を引いた。
休憩は午前零時から十二分。
壁際の長椅子へ座ると、ドアルは水筒の水を半分飲んだ。ナサンはパンを一つ食べ、残りを上着のポケットへ入れる。
「十二分なら、全部食べられるだろう」
「食べるのが遅いんです。後で二分空いた時に食べます」
「二分の休憩が予定されているのか」
「予定されていたら、二分じゃありません」
責任者が記録板へ作業数を書き込んでいる。
ドアルは一晩の賃金を頭の中で計算した。時給、深夜割増、休憩控除、交通費なし。首都で会議を一時間する報酬より少ない。
比較すること自体が失礼に思えた。
「ナサンは、この仕事が嫌いか」
「嫌いではありません」
「大学へ戻りたいのに?」
「戻りたいことと、今の仕事を嫌うことは別です。ここは、持った分だけ進みます。間違えれば箱が傾くから、すぐ分かる」
研究発表の間違いは、何十枚もの数字の中に隠れた。
木箱の傾きは、腕へ直接返ってくる。
休憩が終わった。
次は倉庫南側の荷受け口だった。
外では細い雨が降り始めている。トラックの荷台から箱を下ろし、屋根の下へ運ぶ。排水溝へ落ちた雨水が、格子の下で渦を巻いた。
ドアルは台車を止めた。
「この排水は、どこへ出る」
「地下配管です」と責任者。
「図面を見ても?」
「事務所にあります。休憩の時なら」
作業中に勝手な調査はしない。ドアルは位置だけ覚え、荷物へ戻った。
午前三時、次の短い休止で排水図を見せてもらった。
新しい地下配管は、倉庫街の雨水を東の集水槽へ送る。
しかし格子の下には、使われていない古い横管が一本残っていた。図面には灰色の破線で『旧第七支線・閉塞済み』とある。
「閉塞したのはいつです」
「十三年前の水害後だと聞いています。完全に埋めたのか、弁を閉じただけかは分かりません」
ドアルは縮尺を確認した。
横管は、第七分水門のB線と重なる。
旧水路へ水が流れれば、倉庫街の排水口へ逆流する可能性がある。逆に、連絡弁と水門を正しく制御できれば、新しい地下配管が溢れた時の逃げ道にもなる。
十年前、ドアルはこの破線を不要設備と判断した。
現地を歩かず、新しい地下配管の容量計算だけを確かめた。
倉庫街は図面で最も低い色に塗られていた。
低地。
その二文字の中に、十二分でパンを食べる人も、冷蔵区画と雨の荷受け口を往復する人も入れていなかった。
午前四時半、ナサンの父が小型トラックで梨の箱を運んできた。
「珍しい助っ人だな」
荷台から降りるなり、ドアルを見て言った。
「水路荘の調査で、仕事を知る必要がありました」
「うちの息子は役に立っていますか」
「ええ」
「大学ではどうです。あいつは昔から、間違いがあると一からやり直して朝になる」
ナサンは別の荷受け口にいた。
ドアルは梨の箱へ手をかけたまま、答えを選んだ。
大学を休んでいると話せば、ナサンの秘密を奪う。
順調だと言えば、父の嘘へ自分の嘘を重ねる。
「大学のことは、本人から聞いてください」
父の顔から笑みが消えた。
「何かあったんですか」
「私が話せることではありません」
「調査の責任者でしょう」
「私は責任者ではない」
口にした言葉が、胸の内側へ刺さった。
町の封鎖計画では助言者。
水路荘では、住人でも代表でもない。
立場を分けているつもりで、責任だけを細く切っているのではないか。
ナサンの父は、それ以上聞かなかった。
箱を渡す時、重さの半分を急に手放した。ドアルの腕が沈む。
「持ったなら、最後まで持ってください」
「それは、こちらの台詞です」
父は荷台へ戻った。
夜勤が終わったのは、午前六時だった。
外は明るい。雨は上がり、荷受け口の泥だけが残っている。
ドアルは排水格子の位置を責任者と確認し、立入許可の範囲から写真を一枚撮った。保護カバーを外すと、革靴の縁まで泥が入り込んでいた。
水路荘へ戻る途中、皆が出勤や登校のため反対方向へ歩いていく。
ドアルの靴は、石畳で再び音を立てた。
部屋へ入り、机の引き出しから契約書を出す。
『旧灌漑施設封鎖計画 技術助言業務』
署名欄には、ドアル自身の名がある。
契約上、彼に求められているのは、安全に塞ぐ方法を示すことだった。水路そのものを残すべきか問い直す権限は、契約書のどこにも書かれていない。
玄関の泥靴へ目を向ける。
いつもなら、革へ染み込む前に拭く。
その朝、ドアルは布を取り出さなかった。
泥が乾けば、傷になる。
それでも、どこを歩いたか分からなくなるよりはよかった。




