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深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


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14/21

第14話 夜勤の靴は音を立てない

 六月十二日の午後十時、倉庫街の靴はほとんど音を立てなかった。


 滑りにくい厚底。つま先を守る硬い覆い。濡れた床を歩いても、石畳のように踵が鳴らない。


 その中で、ドアルの靴だけが場違いだった。


 「本当に、それで来たんですか」


 ナサンが足元を見る。


 五月三十一日の点検で泥に沈んだ革靴は、表面だけ乾いていた。つま先には白い擦り傷が残り、紐の脇には落とし切れなかった土が挟まっている。


 「倉庫責任者から、保護具を着ければよいと確認した」


 ドアルは金属製の先芯が入った保護カバーを靴へ装着した。


 「普通の安全靴を借りればいいのに」


 「自分の足で歩いた場所は、自分の靴に残す」


 「急に詩みたいなことを言わないでください」


 「ラビーにも言われた」


 職場同行のためとはいえ、見学者が勝手に荷物へ触れることはできない。倉庫責任者の許可を得て、ドアルは一晩だけの荷役補助員として登録され、作業前の安全説明も受けていた。


 最初の仕事は、青果を積んだ木箱を冷蔵区画へ運ぶことだった。


 箱の側面には、重さ二十キロと書いてある。


 ドアルは一箱を持ち上げた。


 「背中ではなく、膝を使って」


 ナサンが言う。


 「分かっている」


 「分かっている人の持ち方じゃない」


 二箱目で腕が重くなり、五箱目で呼吸が浅くなった。


 台車へ載せれば楽になるが、通路の角は狭く、床にはわずかな傾斜がある。荷物が崩れない速度で押し、他の作業員の進路を塞がない位置へ止める。図面なら一本の矢印で済む移動に、いくつもの判断があった。


 冷蔵区画へ入る。


 汗をかいた首筋が急に冷えた。


 眼鏡が曇り、指先の感覚が鈍くなる。箱を棚へ収め、暖かい外へ戻ると、今度は服の内側が蒸した。


 「これを何往復する」


 「今日は少ない日です」


 「答えになっていない」


 「数えると嫌になるから、僕は数えません」


 ナサンは次の台車を引いた。


 休憩は午前零時から十二分。


 壁際の長椅子へ座ると、ドアルは水筒の水を半分飲んだ。ナサンはパンを一つ食べ、残りを上着のポケットへ入れる。


 「十二分なら、全部食べられるだろう」


 「食べるのが遅いんです。後で二分空いた時に食べます」


 「二分の休憩が予定されているのか」


 「予定されていたら、二分じゃありません」


 責任者が記録板へ作業数を書き込んでいる。


 ドアルは一晩の賃金を頭の中で計算した。時給、深夜割増、休憩控除、交通費なし。首都で会議を一時間する報酬より少ない。


 比較すること自体が失礼に思えた。


 「ナサンは、この仕事が嫌いか」


 「嫌いではありません」


 「大学へ戻りたいのに?」


 「戻りたいことと、今の仕事を嫌うことは別です。ここは、持った分だけ進みます。間違えれば箱が傾くから、すぐ分かる」


 研究発表の間違いは、何十枚もの数字の中に隠れた。


 木箱の傾きは、腕へ直接返ってくる。


 休憩が終わった。


 次は倉庫南側の荷受け口だった。


 外では細い雨が降り始めている。トラックの荷台から箱を下ろし、屋根の下へ運ぶ。排水溝へ落ちた雨水が、格子の下で渦を巻いた。


 ドアルは台車を止めた。


 「この排水は、どこへ出る」


 「地下配管です」と責任者。


 「図面を見ても?」


 「事務所にあります。休憩の時なら」


 作業中に勝手な調査はしない。ドアルは位置だけ覚え、荷物へ戻った。


 午前三時、次の短い休止で排水図を見せてもらった。


 新しい地下配管は、倉庫街の雨水を東の集水槽へ送る。


 しかし格子の下には、使われていない古い横管が一本残っていた。図面には灰色の破線で『旧第七支線・閉塞済み』とある。


 「閉塞したのはいつです」


 「十三年前の水害後だと聞いています。完全に埋めたのか、弁を閉じただけかは分かりません」


 ドアルは縮尺を確認した。


 横管は、第七分水門のB線と重なる。


 旧水路へ水が流れれば、倉庫街の排水口へ逆流する可能性がある。逆に、連絡弁と水門を正しく制御できれば、新しい地下配管が溢れた時の逃げ道にもなる。


 十年前、ドアルはこの破線を不要設備と判断した。


 現地を歩かず、新しい地下配管の容量計算だけを確かめた。


 倉庫街は図面で最も低い色に塗られていた。


 低地。


 その二文字の中に、十二分でパンを食べる人も、冷蔵区画と雨の荷受け口を往復する人も入れていなかった。


 午前四時半、ナサンの父が小型トラックで梨の箱を運んできた。


 「珍しい助っ人だな」


 荷台から降りるなり、ドアルを見て言った。


 「水路荘の調査で、仕事を知る必要がありました」


 「うちの息子は役に立っていますか」


 「ええ」


 「大学ではどうです。あいつは昔から、間違いがあると一からやり直して朝になる」


 ナサンは別の荷受け口にいた。


 ドアルは梨の箱へ手をかけたまま、答えを選んだ。


 大学を休んでいると話せば、ナサンの秘密を奪う。

 順調だと言えば、父の嘘へ自分の嘘を重ねる。


 「大学のことは、本人から聞いてください」


 父の顔から笑みが消えた。


 「何かあったんですか」


 「私が話せることではありません」


 「調査の責任者でしょう」


 「私は責任者ではない」


 口にした言葉が、胸の内側へ刺さった。


 町の封鎖計画では助言者。

 水路荘では、住人でも代表でもない。


 立場を分けているつもりで、責任だけを細く切っているのではないか。


 ナサンの父は、それ以上聞かなかった。


 箱を渡す時、重さの半分を急に手放した。ドアルの腕が沈む。


 「持ったなら、最後まで持ってください」


 「それは、こちらの台詞です」


 父は荷台へ戻った。


 夜勤が終わったのは、午前六時だった。


 外は明るい。雨は上がり、荷受け口の泥だけが残っている。


 ドアルは排水格子の位置を責任者と確認し、立入許可の範囲から写真を一枚撮った。保護カバーを外すと、革靴の縁まで泥が入り込んでいた。


 水路荘へ戻る途中、皆が出勤や登校のため反対方向へ歩いていく。


 ドアルの靴は、石畳で再び音を立てた。


 部屋へ入り、机の引き出しから契約書を出す。


 『旧灌漑施設封鎖計画 技術助言業務』


 署名欄には、ドアル自身の名がある。


 契約上、彼に求められているのは、安全に塞ぐ方法を示すことだった。水路そのものを残すべきか問い直す権限は、契約書のどこにも書かれていない。


 玄関の泥靴へ目を向ける。


 いつもなら、革へ染み込む前に拭く。


 その朝、ドアルは布を取り出さなかった。


 泥が乾けば、傷になる。


 それでも、どこを歩いたか分からなくなるよりはよかった。



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