第13話 好きなものを説明するのは難しい
六月八日の夕方、共用台所の大卓には、七枚の白い紙が置かれていた。
紙の上部には、イザベラの字で同じ質問が書かれている。
『あなたの、すきなもの・すきなことは何ですか』
「宿題みたいだ」
ラビーが椅子を引いた。
「宿題なら、提出期限を書くわ」
イザベラは壁の時計を見て、質問の下へ『本日二十一時』と加えた。
「好きなものに締切をつける人、初めて見た」
「締切がないと、誰も書かないでしょう」
彼女自身がその代表だった。
七日間の調査結果をまとめるはずの夜だった。模型、写真、証言、点検口の記録、安全条件。机の端には、それぞれの成果が積まれている。
水路が今も完全には死んでいないことは分かった。
しかし、保存できるとも、再使用できるとも言えない。
町へ次の調査を求めるには、数字と図面に加えて、なぜこの建物と水路を残したいのかを説明する必要があった。
リオンが、ミレナの聞き書き帳を開いた。
「昔の水配分には、家ごとの生活時間が必要だった。今の町にとって水路が何なのかを伝えるなら、ここで暮らしている人のことも書いた方がいい」
「立派な経歴はないわよ」とイザベラ。
「経歴じゃない。好きなもの」
「その方が難しい」
アウネがすぐにペンを取った。
『閉館後の資料館』
大きな字で一行書き、紙を伏せる。
「終わり?」とリオン。
「質問には答えた」
「なぜ好きなのかも必要だと思う」
「書いてないことを勝手に足さないで」
「足してない。聞いてる」
「その聞き方が、もう編集っぽい」
言い合いが始まりそうになり、イザベラが手を叩いた。
「説明は後。まず全員、一つ書く」
ラビーは『壊れた機械を直すこと』。
ナサンは『方眼紙』。
リオンは『録音』。
ドアルは『地図』。
イアムは『豆のスープ』。
イザベラは、自分の紙へ『衣装』と書いた。
七枚を並べてみる。
「つまらないわね」
最初にそう言ったのは、イザベラだった。
「自分で書かせておいて?」とラビー。
「好きなものというより、職業一覧よ。イアムだけ夕食だけど」
「豆のスープは職業ではない」
「分かってるわ」
イザベラはカメラを取り出した。
「言葉で難しいなら、持っているところを撮る。写真を見れば、何か分かるかもしれない」
最初はラビーだった。
修理店から小型ラジオを持ってきて、胸の前に掲げる。
「笑って」
「機械を持って笑うと、広告みたいにならない?」
「いいから」
ラビーは歯を見せた。
「違う。もっと自然に」
「自然に笑えと言われると、歯の置き場所が分からなくなる」
撮った写真は、修理店を買収した悪徳経営者のようだった。
ナサンは方眼紙を広げたが、顔の半分が隠れた。ドアルは地図を持つ姿が完成されすぎて、旅行会社の案内人に見える。アウネは資料館の鍵を握り、侵入者を追い払う警備員になった。
リオンは録音機を耳へ当て、イザベラが合図する前に話し始める。
「今、六月八日十九時四十二分。水路荘の共同台所で、好きなものを――」
「写真に声は写らない」
「後で聞くと、その時の空気が戻る」
「では空気だけ録って」
イアムは豆のスープがないため、乾燥豆の袋を抱えた。
「犯罪の押収品みたいね」とアウネ。
「何を押収したら豆になる」
「大量の豆を不正に輸入した」
「私は管理人だ」
「管理人が一番怪しくないとは限らない」
イアムの眉間へ深い皺が寄った。その瞬間を、イザベラは撮った。
七人分を撮り終えても、好きなものは少しも見えてこなかった。
イザベラは椅子へ戻り、聞き書き帳をめくった。
ミレナの字は、頁によって大きさが違う。急いで書いた日は右上がりで、雨の日はインクが滲んでいる。
一つの頁に、こうあった。
『好きなものを話してもらう時は、失くしたものの名前が出るまで急かさない。好きは、今あるものだけに向くとは限らない』
台所が静かになった。
イザベラは自分の紙を引き寄せた。
『母の型紙』
そう書いた。
文字を見た途端、母の遺品箱が開いた日の匂いが戻ってくる。未使用の列車切符。完成しなかった王妃の衣装。『イザベラが戻れたら』という余白の字。
紙を二つに破った。
「あ」
ラビーが小さく声を出した。
「見なかったことにして」
「見えた部分を忘れるのは難しい」
「では、口にしないで」
「分かった」
ラビーは自分の紙を見た。
『壊れた機械を直すこと』
その下へ、何かを書き足している。
「何を書いたの?」とイザベラ。
「口にしない約束は、そっちだけじゃない?」
「あなたの紙は提出物よ」
「責任者は強いな」
ラビーは紙を表へ向けた。
『直った機械が、最初に音を出す瞬間』
そこまで書き、線で消していた。
新しい行には、こうある。
『直らない物を、持ち主が自分で手放すか、持ち続けるか決められた時』
「修理しない方が好きなの?」とナサン。
「直せた方がうれしい。でも、直らない物もある。昨日まで、直せないと言うのは負けだと思ってた」
ラビーは焦げた充電器を見た。
「あれを分解して、使える部品だけ残そうとした。でもイザベラが、無実なのに悲劇の主役にされた証拠だから、そのまま置けと言った」
「証拠ではなく、戒めよ。借りた充電器を古い延長コードへ挿さないという」
「僕にとっては、直さないと決めた最初の機械になるかもしれない」
イザベラは破った紙を見下ろした。
好きなものは、持っている理由より、捨てられない理由の方が長いことがある。
ナサンが紙を書き直した。
『何度揺らしても、水面が同じ高さへ戻るところを見ること』
「方眼紙じゃないの?」とドアル。
「方眼紙も好きです。でも、線は水がどこへ戻るか確かめるために使うから」
ドアルも続いた。
『縮尺の違う地図を重ね、同じ場所が別の形に見える瞬間』
「広い視点ね」とアウネ。
「褒めているか」
「半分は」
アウネは伏せていた紙を戻した。
『閉館後の資料館で、誰にも急かされず、紙の匂いが変わるまで一頁を読むこと』
リオンは録音機を机へ置く。
『録音を始めてから、相手が最初の言葉を話すまでの時間』
「話している部分じゃないの?」とアウネ。
「話す前は、まだ何にでもなれる。僕が切っていない時間でもある」
イアムは豆のスープの下へ、ゆっくり書き足した。
『ミレナが塩を入れすぎた豆のスープを、薄いと言いながら食べること』
「塩を入れすぎたのに、薄いと言ったの?」とナサン。
「言わなければ、翌日はもっと塩辛くなった」
「思いやりの方向が間違ってる」
「若かった」
最後に、全員がイザベラを見る。
彼女は新しい紙を取った。
すぐには書けなかった。
カメラを持ち、今度は指示をせず、台所の端から皆を撮った。
ラビーはナサンの模型の支柱を直し、ナサンはアウネへ古い地図の向きを説明している。ドアルはイアムの豆の袋を見て産地を尋ね、リオンは録音機の電源を切っていた。
誰もカメラを見ていない。
その写真には、七人がそれぞれ別のことをしながら、同じ卓を囲んでいる姿が写った。
イザベラは席へ戻った。
『古い布の裏側。表から見えなくても、前に触れた人の手が残っているところ』
書き終え、破った紙の二片も聞き書き帳の空白頁へ挟んだ。
「破った方も入れるの?」とラビー。
「何を書かなかったかも、記録でしょう」
二十一時を十分過ぎていた。
七枚の紙は、ミレナの聞き書き帳の空白頁へ一枚ずつ留められた。
町へ提出する調査書には、全員の文章を載せなかった。
本人が書いたからといって、どこへでも出してよいわけではない。
代わりに、イザベラは最後の頁へ一行だけ加えた。
『ここには、水路がなくなれば仕事だけでなく、好きなものへ触れる場所を失う七人が暮らしている』
書き終えた時、壁の奥で低い音がした。
三回。
少し間を置き、また三回。
アウネが顔を上げた。
「今夜は、最後が二回になる気がする」
まだ二回目の三つが終わったばかりだった。
誰も笑わず、次の音を待った。




