第12話 忘れ物を届ける速度
水路町立小学校の忘れ物棚には、片方だけの靴下が七つあった。
「なぜ片方ばかりなんですか」
ナサンは真剣に尋ねた。
「両方忘れたら、履いて帰れないからだろう」
イアムは答え、赤い靴下を小さな籠へ入れた。
職場同行の三日目。
ナサンは青果倉庫の夜勤明けに少し眠り、午前十時から小学校の用務補助へ同行していた。校長の許可を得て、水路に関係する校内設備の確認をしながら、イアムの日常業務を手伝う。
忘れ物棚には、靴下のほか、鉛筆、連絡帳、薄い上着、水筒、名前のない鍵盤ハーモニカの管が並んでいる。
「名前がある物と、ない物を分けます。学年ごとに箱を作れば、昼休みまでに全部返せる」
ナサンは棚の前で作業順を書き始めた。
「先に水筒を返す」
イアムは青い水筒を持った。
「順番なら、名前のある鉛筆が最初です。教室も近い」
「この子は薬を飲む時に水がいる」
次にイアムは薄い上着を取る。
「それは六年生の教室で、反対側です」
「昼休みになると、寒くても外へ出る子だ」
「効率が悪いです」
「同じ速さが親切とは限らない」
イアムは廊下をゆっくり歩き出した。
ナサンは予定表を見つめ、後を追った。
水筒の持ち主は保健室にいた。上着の持ち主は、受け取ると礼を言うより先に校庭へ駆けていった。名前のある鉛筆は、届ける前に持ち主自身が忘れ物棚まで探しに来た。
結果だけ見れば、イアムの順番の方が早く片づいた。
「毎日見ているから分かるんですね」
「毎日見ても、外すことはある」
「外したら?」
「次に変える」
イアムは平然と言った。
ナサンには、その平然さがまだ難しかった。
昼休み、ベニーが小型の録音機を抱えて用務室へ来た。
「イアムさん、雨どいの歌を録りたい」
「今日は晴れている」
「昨日のがある。聞く?」
返事を待たず、ベニーは再生した。
最初に鳥の声。次に、校庭を走る靴音。遠くで笛が鳴り、その下に低い水音が混じっている。
『町の好きな音、六月一日。学校の端っこの石が、ごごごって言う音』
幼い解説の後、三回ずつ区切るような音が入った。
ごう、ごう、ごう。
少し間があり、また三回。
ナサンは録音機へ顔を近づけた。
「別の日もある?」
「あるよ。雨の日と、晴れの日と、給食がカレーの日」
「給食は音に関係ない」
「みんな走るのが速い」
ベニーは得意そうに、いくつもの音源を再生した。
五月二十八日。三回、三回、三回。
五月三十日。二回、二回、長い一回。
六月一日。三回、三回。
アウネが水路荘の壁で聞いた周期と似ている。
「上流の放水記録と比べたい」
ナサンは手帳へ日付を書いた。
「音で水量が分かるのか」とイアム。
「水量そのものは無理です。でも、流れ方が変わった日なら分かるかもしれない。閉塞があれば、同じ放水でも周期が変わる」
ベニーが胸を張った。
「自由研究、大学?」
「大学より先かもしれない」
「じゃあ、名前を大きく書く」
「書いていい。記録した人の名前は必要だから」
ナサンがそう言うと、ベニーは録音機を抱いて走っていった。
午後、二人は校庭の西端へ向かった。
金網の近くに、地面と同じ色の石蓋がある。草を刈ると、中央に鉄の輪が現れた。
イアムが周囲を確かめ、学校職員立会いの記録用紙へ時刻を書く。
「町から許可が出たのは、蓋の確認までだ。中へは降りない」
「分かっています」
石蓋の脇には、小さな金属板が埋め込まれていた。
鍵穴が二つある。
ナサンは水路荘の壁から見つかった鍵を布袋から出した。イザベラが預けたもので、持出時刻も記録してある。
右の鍵穴へ差す。
抵抗の後、半分まで入った。
少し角度を変えると、かちりと音がした。
回る。
だが金属板は開かなかった。
「左にも鍵が必要です」
左の鍵穴は同じ形に見える。
二本を同時に回す仕組みなのだろう。
「対鍵がある」とナサンは言った。
イアムの顔から、わずかに色が消えた。
「古い設備では珍しくない」
「もう一本、どこにありますか」
「知らない」
「管理人だったんですよね」
「ずっと昔の話だ」
「この鍵が金属箱に入っていたことも、偶然ですか」
「偶然だろう」
返事が早すぎた。
ナサンは追及しなかった。
鍵を抜き、布で拭き、袋へ戻す。金属板と周辺を撮影し、時刻を記録する。
帰り道、二人は旧水路に沿う細い坂を歩いた。
イアムはいつもより遅かった。
ナサンは、歩幅を合わせた。
「発表で、数字を一つ間違えました」
自分から言うつもりはなかった。
だが、急がずに歩いていると、言葉が追いついてきた。
「流量の単位を換算する時、桁を間違えた。途中で気づいた人がいたのに、僕は自分の方が正しいと思って説明を続けました。最後に全部止められて、先生が代わりに訂正した」
イアムは前を見たまま聞いている。
「間違えたことより、あの時、自分が正しいと思っていたことが怖いんです。また同じ顔で説明して、誰かに止められるまで気づかないかもしれない」
「そうか」
それだけだった。
ナサンは少し苛立った。
「励まさないんですか」
「ラビーの仕事を取ると怒られる」
思わず笑った。
イアムも口元を緩めたが、すぐに戻した。
「私も、判断を誤ったことがある」
「水門で?」
イアムは答えなかった。
坂の下で、見えない水が石の奥を流れていた。
「その時、誰かに止めてもらえましたか」
長い間の後、イアムは言った。
「止めようとした人もいた。開けろと言った人もいた。私は、自分で選んだ」
「正しかった?」
「今も、答えが一つに決まらない」
水路荘の屋根が見えた。
ナサンはもう一本の鍵について、再び尋ねなかった。
話せる速度は、人によって違う。
けれど、待つことと忘れることも違う。
ナサンは手帳の最後に書いた。
『対鍵一本。所在不明。イアムは知っている可能性あり。今は追及しない』
その下へ、ベニーの音源の日付を並べた。
忘れないための記録だった。




