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深い夜、水路荘では好きなものを持ち寄る  作者: 乾為天女


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11/21

第11話 衣装の裏地には名前がある

 イザベラ写真衣装室には、朝から金色の鳥が逆さに吊られていた。


 正確には、夏の巡回劇で使う鳥の衣装である。


 翼は薄い金布を三層に重ね、背中には人が入るための開きがある。表から見れば華やかだが、裏側では肩の重みを分散する帯が切れ、羽根を留める糸も何本か抜けていた。


 「飛べそうに見える物ほど、裏で縛られてるのね」


 ラビーが衣装の中から顔を出した。


 「感想はいいから、そこを押さえて」


 「修理店では、まず故障の説明をする」


 「衣装室では、まず手を動かすの」


 職場同行の二日目。


 ラビーは店を午後から休みにし、イザベラの補助へ入っていた。針を持たせるつもりはなかったが、布を支える、糸を切る、衣装を着る人の肩幅を記録するといった仕事は山ほどある。


 夏の巡回劇団が急に日程を繰り上げたため、修繕依頼が重なっていた。


 金色の鳥、海の王の外套、森の精の帽子、旅人の鞄。


 表側には物語がある。


 裏側には、汗染みと補強布と、前に直した人の縫い目がある。


 「この白い糸、見えたら困らない?」


 ラビーが尋ねた。


 「表から見えなければいいの。裏地は美しさを競わない」


 「名前も書いてある」


 帯の内側に、小さな文字がいくつもあった。


 『エラ』『ミナ』『ジョシュ』『右肩きつめ』


 「着た人の名前と癖。次に直す時に分かるように」


 「機械の修理記録と同じだ」


 「機械は右肩がきついと言わないでしょう」


 「古い掃除機は左へ曲がりたがる」


 「持ち主の床が傾いているのよ」


 二人は昼食を忘れ、鳥の翼を直した。


 午後、衣装棚の上段から灰色の箱を下ろす必要が出た。劇団が指定した銀糸が、そこへ入っているはずだった。


 「右から二番目の箱」とイザベラは言った。


 ラビーは脚立へ上り、右から二番目を抱えた。


 箱の蓋には、薄く『母』と書かれていた。


 埃に隠れ、下からは読めなかった。


 「これ?」


 ラビーが蓋を持ち上げる。


 「待って」


 声が届くより先に、古い紙の匂いが広がった。


 箱の上段には、巻いた型紙が何本も並んでいた。淡い青の布、使いかけの裁ちばさみ、封筒に入った列車の切符。


 イザベラは脚立の下で止まった。


 「閉じて」


 ラビーはすぐ蓋を戻そうとした。だが型紙の一本が縁へ引っかかり、床へ落ちた。


 紙がほどける。


 長い裾を持つ舞台衣装の線が、床いっぱいに広がった。


 胸元には細かな花の刺繍案。余白に、イザベラの母の字で『秋公演、イザベラが戻れたら』と書かれている。


 「ごめん」


 ラビーが脚立から降りた。


 イザベラは返事をしなかった。


 切符の封筒を拾う。首都行き、三年前の十月十五日。母の四十九日が終わった翌日の便だった。


 買ったことは覚えている。


 荷造りもした。


 朝になって、店の窓を開けた。母が毎日拭いていた硝子に自分の顔が映り、そのまま列車の時刻が過ぎた。


 切符を捨てられず、箱を閉じた。


 その箱を、今日まで開けなかった。


 「銀糸だと思った」とラビーが言った。


 「書いてあったでしょう」


 「埃で読めなかった」


 「払えば読めた」


 「そうだね」


 言い訳をしない返事が、かえって腹立たしかった。


 「あなたは壊れた物なら何でも開けるのね」


 「開けていい物だけのつもりだった」


 「人の箱に、修理受付票はついてないわ」


 「本当に、ごめん」


 イザベラは型紙を畳もうとした。線が多すぎて、どこから戻せばよいか分からない。


 紙の端を持つ指が震えた。


 母の介護をしていた二年間、イザベラは仕事を減らした。


 母は何度も、首都へ戻れと言った。


 そのたびに、来月には、具合が落ち着いたら、代わりの人が見つかったら、と答えた。


 戻らなかったのは母のためだった。


 母がいなくなってからも戻らなかった理由までは、考えないようにしていた。


 「箱を閉じようか」


 ラビーが尋ねた。


 イザベラは顔を上げた。


 「それとも、一枚だけ見る?」


 「励まさないのね」


 「昨日、肘で教わったから」


 「学習が早いのは嫌いじゃない」


 床に広がった型紙の下には、もう一枚の紙が重なっていた。


 イザベラは一枚だけ見ることにした。


 二人で端を持ち、皺を伸ばす。


 母が完成させられなかった衣装は、舞台の中央に立つ王妃のためのものだった。前から見ると落ち着いた青だが、動くたび内側から銀の裏地がのぞく設計になっている。


 「華やかな物を作る人だったんだ」


 「本人は地味な服しか着なかったけど」


 「裏地に全部使ったのかも」


 イザベラは笑いそうになり、笑えなかった。


 型紙の裏面には、別の文字があった。


 だが床へ広げた面からは見えない。


 二人は気づかないまま、折り目に沿ってゆっくり畳んだ。


 箱の中には、上段の下に薄い底板があった。端に指をかければ持ち上がりそうだったが、イザベラは見ないことにした。


 「今日は、ここまで」


 「分かった」


 ラビーは箱を閉じ、今度は表面の埃を払い、『母』の文字が見えるようにして棚へ戻した。


 必要だった銀糸は、その隣の箱に入っていた。


 「右から二番目じゃなかった?」


 ラビーが尋ねる。


 「母の箱を数えなければ、右から二番目よ」


 「箱も数えてあげて」


 イザベラは返事をせず、金色の鳥へ向き直った。


 切れた帯を新しい布で補強する。


 表からは見えない場所へ、一針ずつ糸を通す。


 ラビーが裏地を支えた。


 「ここにも名前を書く?」


 「書くわ」


 イザベラは補強布の端へ、今日の日付を書いた。


 その隣に、小さく二人の名前を記した。


 誰にも見られない場所だった。


 それでも、確かにそこに残った。



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