第10話 励まさない修理店
翌朝、ラビー充電所の扉には、いつもの札に一枚の紙が足されていた。
『本日は水路調査のため、イザベラさんが作業を見学します。機器には触れません。たぶん』
イザベラは最後の二文字を赤ペンで消した。
「触れないわ」
「昨日、僕の精密ドライバーで封筒を開けてた」
「細くて便利だったから」
「用途が違う」
「今日は用途どおり使うところを見ておく」
七人が互いの仕事を知るための職場同行は、ミレナの聞き書き帳にあった方法をリオンが言い換えたものだった。
『相手の好きなことを一日だけ代わりにやってから質問する』
実際に店を任せることはできないので、勤務先や客の同意を得て、補助や見学をする。第一日目は、イザベラがラビーの店へ入ることになった。
「店番ならできる」とイザベラは言った。
「現金箱へ羽飾りを貼らないなら」
「貼る価値がある箱ではないわね」
ラビーは傷ついた顔をした。
午前中は、画面の割れた携帯、音の出ない卓上ラジオ、蓋が閉まらない電池式時計が持ち込まれた。
ラビーは客の話を聞き、故障箇所を確かめ、直る場合と直らない場合を先に説明する。手は絶えず動いているのに、客を急かしているようには見えない。
イザベラは受付票を書き、部品箱の番号を読み上げた。
「三十二番」
「それはねじ」
「ねじが必要でしょう」
「今は基板が必要」
「基板は何番?」
「八番」
「番号に統一感がない」
「人生と同じだ」
「修理店で急に深いことを言わないで」
昼を過ぎた頃、一人の男が古い携帯電話を両手で包むように持って入ってきた。
年齢は五十歳前後。仕事着ではなく、襟のよれた白いシャツを着ている。受付台の前まで来ても、椅子へ座らなかった。
「電源が入らないんです」
ラビーが端末を受け取った。
「水に濡れましたか」
「ずっと引き出しに入れていました。充電器もなくして……今の電話へ番号は移したんですが、これにしか残っていないものがあって」
「写真ですか」
「声です」
男は喉を整えた。
「妻の留守番電話です。四か月前に亡くなりました」
店の外を荷車が通った。車輪が石畳の継ぎ目を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
「先月、勤めていた倉庫も閉まって。片づけをしていたら、これが出てきたんです。聞けるなら聞きたい。でも、聞いてどうするのかは、自分でも分かりません」
ラビーは端末の側面を確かめた。
「大丈夫です。きっと――」
イザベラの肘が、脇腹へ当たった。
強くはない。
しかし言葉は止まった。
男が顔を上げた。
ラビーは一度息を吸い、言い直した。
「中の記録が残っているか、調べます。取り出せないこともあります。聞くかどうかは、取り出せてから決めてもいいです」
男はしばらく黙り、頷いた。
端末は古いだけでなく、内側の電池が膨らんでいた。無理に通電すれば、記録を損なう恐れがある。
ラビーは裏蓋を外し、電池を取り除き、別の電源から必要な分だけ電圧を送った。イザベラは言われた番号の工具を渡す。
「八番」
「今度は合ってる」
「褒めるなら、もう少し華やかに」
ラビーは笑わなかった。
画面はつかない。
記憶装置を読み取るため、さらに細い配線をつなぐ。作業台の照明の下で、銅線は髪の毛より細く見えた。
一時間後、店の古いパソコンに音声ファイルが一つ現れた。
日付は前年の十一月。
男を呼び、再生するか尋ねた。
「お願いします」
ラビーが音量を最小にして、再生ボタンを押す。
雑音の後、女性の声が流れた。
『帰りに牛乳をお願い。安い方でいいから。あと、今日は――』
そこで音が途切れた。
ファイルの後半は壊れていた。
男は画面を見つめたまま動かなかった。
「牛乳だった」
やがて、かすれた声で言った。
「最後に残っていたのが、牛乳を買ってきてって声だった」
笑ったようにも、泣いたようにも見えた。
「もっと大事なことを言っていると思っていました。ありがとうとか、体に気をつけてとか」
ラビーは、続きが見つかる可能性を説明しようとした。別の読み取り方を試せば、数秒だけ戻せるかもしれない。
けれどイザベラは何も言わず、男の前へ水を置いた。
男は一口も飲まなかった。
「直って、うれしいのか分かりません」
ラビーは自分の両手を見た。
直ることは良いことだ。
ずっと、そう信じてきた。
壊れた物が動けば、持ち主は前へ進める。前へ進めない時は、もう一度励ませばいい。
だが、目の前の男は前へも後ろへも行こうとしていなかった。ただ、牛乳を頼む妻の声の隣に座っていた。
「分からないままでいいと思います」
ラビーは言った。
「今日、決めなくてもいい。音声は二つに複製しておきます。聞きたい日に聞いてください。聞かないままでも構いません」
男は俯き、肩を震わせた。
帰る時、修理代を尋ねられた。ラビーは部品交換がなかったからと、読み取り作業の最低料金だけを告げた。
男はきちんと支払い、端末と記録媒体を胸元へしまった。
扉が閉まった後、イザベラが言った。
「私の肘、役に立ったでしょう」
「痛かった」
「効いたということね」
「ありがとう」
閉店後、イザベラは受付票を整理した。
番号順に綴じようとして、料金欄が空白の票が何枚もあることに気づいた。
「これは?」
「まだ請求してない」
「三か月前よ」
「相手が仕事を探しているから」
「これは半年前」
「子どもの入院があった」
「これは一年前」
「……その人は、たぶん忘れてる」
イザベラは帳簿を閉じた。
「あなたは店を続けたいの?」
「もちろん」
「では、代金を受け取りなさい」
「困っている人からは取りにくい」
「困っている人を助けるために、あなたが先に店を失ったら意味がないでしょう」
ラビーは反論しなかった。
作業台の端には、火花の夜に焦げた白い充電器が置いてある。調べた結果、充電器本体は壊れていたが、出火の原因ではなかった。延長コードと壁内配線の劣化が重なったものだ。
無実なのに、充電器悲劇の主役にされている。
「壊れた物にも、濡れ衣があるんだな」
「直せる?」
「直せる部分と、直せない部分がある」
「それなら、今日の答えと同じね」
ラビーは笑いかけ、途中でやめた。
笑いに変えなくても、沈黙は気まずくならなかった。
作業台の奥で、復旧した音声ファイルの小さな表示だけが点っていた。




